4 小野寺大和にとって中間テストとは
いきなりではあるが、小野寺大和は日に日に胃が痛くなる生活に突入していた。
なぜかというと、今は五月の半ばである。
──つまり、中間テストが迫っていた!
テストの一週間前には委員会も部活も、すべて活動停止となる。
誰もいない放課後の屋上。ベンチに座って教科書を眺める大和の頬に、新緑の風が容赦なく吹きつける。
乱れるようにページがめくれていく。
四月には風紀委員の選挙があり、無事に選挙を終えると、今度は白井あすかに泣いているところを目撃され、そのあとにはあすかの付き人(?)である千葉真琴になぜか恫喝され──二年に進級してからというもの、心が休まるときがない。
そもそも、自分の心休まるときがいつなのかも、大和にはわからないけれど。
そんなこんなで、大和はなかなか勉強に集中できる環境になかった。入学以来、学年一位の成績を保ってきたが、今回のテストこそはダメかもしれない、と危機感を抱いている。
「……っ……」
こぼれた涙を、風はさらってはくれない。
プレッシャーに弱い大和だが、泣いていようとも、それでも必死に教科書にかじりつく。
もしも、学年で一位じゃなくなったとき。
周囲から向けられる失意の視線を想像しては怯えているためである。
ベンチから倒れ込むように、地べたに大の字で仰向けになる。
空が青い。
それを遮断するように、目の前に教科書を広げる。こうすれば、教科書も、視界も、涙で滲むことはない。
濡れていた顔がやっと乾いた頃に、屋上の扉が軋んだ。
寝っ転がったまま首を横を向けると、半分だけ顔を覗かせたあすかと目が合う。
「あっ、いたいた、大和」
大和が体を起こすと、駆け寄ったあすかはその隣でちょこんと三角座りをした。
「ん? なにかあった?」
あすかはその質問には答えず、なにかを探るようにじっと大和の顔を見つめている。
「……なに?」
「……また泣いてた?」
「え、泣いてないよ」
「嘘。目が赤いもん」
大和は目をこする。そんなにも泣いたつもりはなかったのに。
「試験前だから、ここで勉強してただけだよ。べつに、泣くようなことなんてない。それより、千葉さんは?」
「今ごろ探してるかもね。今日はちょっと、大和に訊きたいことがあって」
……嫌な予感しかしない。大和は無意識に眉根を寄せ、息を呑んだ。
──呑んだのだが。
「卵焼きは甘い派⁉ しょっぱい派⁉ なんかかけたりする⁉」
「は?」
開いた口が塞がらないとはこのことである。
大和は文字どおり、絶句した。
以下、大和の心情である。
卵焼き?
なんで今、卵焼きの話題?
てか、うちの卵焼きってどんな味だったっけ?
オムレツにはソース。目玉焼きには醤油だったような……。ゆで卵にはマヨネーズ一択だろ。
じゃあ卵焼きは? なんで卵焼きだけ思い出せないんだ?
いや、でも、甘い茶碗蒸しが無いんだから、卵焼きだって甘いのは無しだろ。あれっ、でもプリンは? あれは甘い茶碗蒸しと違うのか? わけわかんねぇ。
等々。
小野寺大和は、若干──いや、だいぶ、なかなかに味音痴であった。
「しょっぱい派……かな? 甘いのは、子供の頃は食べたけど、今は食べない」
「ふむふむ」
あすかは納得している。
「それがどうしたの?」
「ううん。なんでもない。それだけっ」
勢いよく立ち上がったあすかの膝丈スカートが、踊るように広がった。
少し前までなら、このスカートの丈は、屋上のコンクリートに着くすれすれのところで揺れていただろう。
それが、大和が長いスカートに苦言を呈した翌日には、もう今の長さになっていた。
大和だって驚いた。共に風紀委員に任命されてからまだ一か月も経っていない。
──いないのに。
短い期間で大和が見てきた彼女の素直さや純粋さは、校内での噂とはあまりにもかけ離れすぎている。
「あすかは──」
「うん?」
「あすかは、極道の娘、なんかじゃないよね?」
「極道──」あすかは大和を見下ろすような格好のまま言った。「極道って、なに?」
その言葉に思わず大和は脱力して、ずっこける代わりに再びコンクリートの上に全身を預けた。
「はははっ。馬鹿みたいだ、俺」
風紀委員だから。
学年で一位だから。
そういう他人の勝手な物差しがどれだけ役に立たないか、一番わかっているのは自分だと思っていたのに。
「え、なに? なんで笑ってるの?」
視界に映る青い空を背景に、あすかが不思議そうな顔で覗きこんでいる。
「極道って、うーんと、反社、みたいのだよ」
「反社⁉ まさか!」
「うん。そうだと思った」
腹筋の要領で起きあがり、ゆっくりとあすかを見上げる。
風が撫でていく夕暮れに、少しだけ、なぜだか心が緩んでいくのを感じていた。
「あのさ、前に俺が泣いてた理由なんだけど」
一瞬、あすかはハッとした表情をして、すぐに黙った。
「今すぐには無理だけど、そのうち、話せるときが来たら──そうしたら、話してもいい?」
気まずさに耐えかねて大和が膝を抱えると、ほどなく返ってきたのは「喜んで!」と、どこかのチェーン店みたいなあすかの声。
その声の前では、自分の抱えている荷物さえ安っぽくてちっぽけなもののような気がして、大和は不意に、「ぶはっ」と吹き出してしまった。
しかし、
そうは言っても、だ。
真っ暗な夜がいきなり朝になったりはしないし、太陽だって突然高い位置で輝いたりはしない
悲しいかな、人生とはそういうもので、
「自分の抱えている荷物さえ安っぽくてちっぽけな気がした」と感じたのは、あくまでも「気がした」に過ぎないのである。
人はそうそう簡単には変われない。
結局、大和は、テストまでの一週間、カフェインの上限摂取量ギリギリまで、栄養ドリンクとブラックコーヒーの力を全面的に借りることとなった。
つまるところ、いつものテスト前となんら変わらない、切羽詰まった日々を過ごした、ということである。
そうしてつかみ取った安定の学年一位の座は、大和にとっては安定などではなく、今だって喜びよりも安堵のほうが大きく勝る。
けれど、自分も知らないどこかでなにかが変わるかもしれない、という気もしていて、それもやっぱりあくまでも「気がする」に過ぎないのだが、大和にとっては、予感というよりも願望に近いものかもしれなかった。
小野寺大和にとって中間テストとは、
一年に五回、三年間で十五回ある試練のひとつであり、自分のなけなしの価値をかろうじて繋ぎとめるための手段である。