31 小野寺大和にとって青春とは
カーテンのすき間から細く入りこむ朝日で大和は目覚める。直前まで夢を見ていたようで頭はぼんやりとしているが、どんな内容だったかは判然としない。
身支度を済ませて制服に着替えたあと、和室の仏壇に手を合わせる。昔からの朝の習慣だ。写真立てのなかの両親は、変わらない笑顔で大和を見つめている。
鈴の音の余韻が消えても、大和はいつもより長くその場に佇んでいた。
朝食は一緒に食べるのが小野寺家のルールである。夜遅くに帰ることも多い早苗が、大和との時間を少しでも確保するためにそう決めた。
普段なら静かな食事の時間に、早苗は大きくため息をついた。
「あーぁ、私も行きたかったなぁ。卒業式」
「なんで?」
バタートーストを齧りながら大和が訊く。
「だって朔くんの卒業式だよ? 保護者として、朔くんの最後の制服姿を目に焼きつけたいじゃない」
保護者じゃないだろ、という突っ込みは頭のなかだけに留める。大和はそれよりも、朔がきちんと制服を着用してくるか、答辞でおかしなことを言いださないかなどに気を揉んでいた。
「大和も在校生代表で送辞読むんでしょ?」
「うん」
スクランブルエッグを咀嚼しながら、喉を鳴らして返事をする。
「安心して卒業してもらえるといいねぇ」
普通の大人なら「きちんと送り出してあげなさい」と言いそうなのに、早苗の発言はどこかずれているように感じた。
感じたのだが──。
確かにその通りだな、と大和は思う。
一年前の自分だったら、朔が卒業することに不安を覚えていたかもしれない。鋭い朔ならその不安を見逃すはずはないし、安心して卒業させてあげられなかったかもしれない。
そして自覚する。自分の変化を。
目には見えないほどの、小さな変化だ。しかし、その些細な変化すら、ひとりきりでは起こらなかっただろう。
トーストも、サラダも、スクランブルエッグもきれいに食べ終わった。皿の上には何もない。それでも、「何もないこと」と「何もなくなったこと」は、まるで意味が違う。
毎日、こうして向かいあっている早苗が自分に与えてくれているのは、目に見えなくてもっと大きなものだ。
大和は思いを巡らせる。もし、早苗が自分を引き取らなかったら。
早苗はもっと幸せに過ごせていたかもしれない。結婚して、夜遅くまで働く必要だってなかったのかもしれない。引き取らなきゃよかった、と思うことだってあっただろう。
けれど、結局のところ、こう言うしかなかった。
「……いつもありがとう」
照れた大和が口にできるのは、これが限界だった。耳が赤くなる。早苗はもちろん、何に対しての感謝なのかを汲めずにきょとんとしていたが、
「今日は大和の卒業式じゃないよ?」
と、すぐに子供っぽく笑った。「大和、なんか柔らかくなったね」
「何言ってんの」
気恥ずかしさからぶっきらぼうに返す。早苗はニヤニヤしながら言った。
「あすかちゃんのおかげかなぁ」
大和は耳からの熱が電光石火の速さで顔全体に広がるのを感じた。コップの牛乳を一気に飲み干し、逃げるように席を立つ。食器を洗うあいだ、背後からは早苗の鼻歌がたゆたっていた。
玄関で靴を履く。大和のほうが先に家を出るとき、早苗は必ず見送ってくれる。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
その声で、大和は今日も外へ出る。
「卒業生、入場」
マイクの声を合図にして、吹奏楽部の演奏が卒業生を出迎えた。チューバの唸るような低い音が腹の奥まで響き、自然と背筋が伸びていく。
卒業生は胸に黄色の花飾りをつけていた。最後の制服姿はもういつもの姿とは違う。入り口から続く列を目で追っていると、途中で朔と目が合った。こちらに向かってピースしている。これから答辞を読むとは思えない、少しも気負っていない笑顔だった。
なにやってるんだよ。大和は呆れつつ、朔が正しく制服を着用しているのを見て、胸を撫でおろした。
由恵とは目が合わなかった。凛としている横顔は、卒業生の鑑そのものだ。
朔のようにはなれないとずっと昔に悟った大和だったが、だからといって由恵のようになれるとも思わなかった。
どんなに真似をしたところで、誰かにすり替わることなんてできない。「自分を好きになれ」と言った朔の言葉の意味が、ほんの少しだけわかったような気がした。
滞りなく、静かに式が終わりを迎える。送辞を述べた大和は、緊張で呼吸のタイミングがわからなくなったものの、一度も噛まずに役目を果たした。「安心して卒業してもらえるといいねぇ」と言った早苗に、胸を張って報告できそうだ。
講堂を出ていく多くの卒業生は涙を浮かべていた。拍手しながら大和が顔を上げると、朔も由恵も泣いてはいなかった。由恵とはやはり目が合わず、朔は静かに口角を上げた。ただそれだけのことが、なぜか大和の目頭をじわりと熱くさせたのだった。
校門前の桜の蕾はまだ固く閉じたままだ。けれどその枝先に灯るピンクの色は、確かに春を宿している。
大和とあすかは落ち着かない様子で桜の下に立っていた。
「なかなか降りてこないね。由恵先輩」
大勢の卒業生が校門前で最後のひと時を過ごしている。友人や先生と交わす言葉は、どれだけ尽くしてもさみしさを埋めきれないのだろう。その群衆のなかに由恵の姿が見えなかった。そして、朔もだ。
「まだ教室にいるのかな」
大和は思案した。風紀委員の仕事も、生徒会の仕事も、引継ぎだってもうない。だとしたら──。
告白、とか。
開きかけた口をきゅっと結んだ。その単語をあすかに意識させるのは憚られる。
気恥ずかしさに大和が黙ると、あすかは校舎を見上げて「あっ」と声を漏らした。
「由恵せんぱーい」
三年生の教室あたりに向かってあすかが両手を上げた。窓際に由恵が立っているのを見つけ、大和も大きく手を振った。
由恵と朔が下りてくると、たちまち周囲に人だかりができた。何重にもなった人の輪に大和とあすかは入りこむ余地もない。二人は肩をすくめて笑い合った。
「待たせてごめんねー」
ひとしきり別れを惜しまれた由恵と朔は、たくさんの花束やプレゼントを抱えていた。
「ていうか、大和! あんたのしょうもない兄貴分、本当いい加減にしてほしいんだけど」
「いや、勝手に兄貴分にしないでください」
「おい、最後の最後に恩人を売るのはどうかと思うぞ」
由恵は朔のほうを睨みながら続けた。
「古川は外部を受けたと思ってたのに、まさか学部まで一緒なんて! ……というか、大和もグルになって私に黙ってたわけじゃないよね?」
由恵から威圧的な目線を向けられ、大和は一歩後ずさった。
「えぇ⁉ 朔先輩、言ってなかったんですか⁉ 俺はてっきり知ってるものだと……」
「外部とも内部とも言ってないだけだから。人を嘘つきみたいに言うのやめてほしいよ」
本当にこの人は、由恵先輩の気も知らずに神経を逆なでするようなことばっかりしてるな……と大和がため息をつくと、応酬を見守っていたあすかが「由恵先輩、よかったですねぇ」と朗らかに言った。
「よかったねぇ。ぶっちー」
便乗するように朔がしたり顔をする。
「よくない!」
相変わらずのやりとりに、大和はくすりと笑って言葉を送る。
「先輩、卒業おめでとうございます」
「卒業、しちゃったんだねぇ」
生活指導室の窓の外を見ながら、あすかがしんみりと呟いた。校舎前の広場にもう人影はなく、喧騒もどこか遠くへ流れていった。
「そうだね」
大和は備品の入った箱をしまいながら相槌を打った。どこか心もとない声が出て、小さく頭を振る。ひとりじゃない。言い聞かせるように、あすかの横顔をチラリと見た。
大和はそのままキャビネットにもたれて、床に座りこんだ。
目の前には長机と持て余すほどの椅子が並んでいる。けれど、風紀委員として最後の日を迎えた今、そこへ腰をかける資格はない気がした。春休みが明け、再び風紀委員として認めてもらうまでは。
あすかは不思議そうにしていたが、何も訊かずに隣にしゃがんだ。
スカートから伸びる脚は一見、素足のようだが、この距離だとストッキングの光沢が見て取れる。思わず笑みがこぼれた。そういえば、一年前のあすかはスカート丈がめちゃくちゃ長かったんだよな。
「この一年、すごくあっという間だった気がする」
同じことを考えていたんじゃないかと思うタイミングであすかが言った。
「本当に」
大和は深く頷いた。それから、「俺さ」と切り出した。
「俺……自分を好きになるってどういうことか、よくわからなかったんだよね。成績で一番になっても、風紀委員に選ばれても、何を積み重ねても自信には繋がらなかった」
あすかは三角座りした膝に顎をちょこんと乗せ、うん、と返事をする。
「たぶん、ノーベル賞を取ったとしても、オリンピックに出たとしても、喜ぶのはそのときだけで、結局、自分を好きにはなれないだろうなって思ってて」
ふふ、大和らしい、と隣から笑いが漏れる。
「けど……」
大和はふう、と一拍息を吐く。
「そんな大それた話じゃなかったんだ、って今は思う。思えるようになった」
天井を仰ぐ。
「自分自身を偽ってるんだから、自分を好きになれるわけないし、好きになってもらえるはずもなかったんだよね。だからあすかが、俺が泣いてるのを知っても好きだって言ってくれたのは、びっくりしたけど、同じくらい嬉しかった」
大和が柔らかく笑いかけると、あすかは無言で狼狽えた。赤くなった顔を両手で覆っている。
「特に『大和だから、ほっときたくない』は、けっこう効いたかな」
「ちょっとー! 恥ずかしいから思い出させないで!」
大和は笑いながら「ごめんごめん」と謝った。
「母さんも朔先輩も、ずっと俺を守ってくれてたのに、わかってるつもりでちゃんと理解してなかったんだと思う。あすかに『バカ』って言われて、初めて目が覚めた気がしたんだよ」
背中にあたるキャビネットの冷たさが、すっかり体温と同化している。しんとした生活指導室に風が入りこみ、どこかで鳥のさえずりが聞こえる。
あすかは抱えた膝を解放し、両手を床につけた。前に伸ばした脚は靴先が楽しそうに揺れている。見なくても笑っているのが伝わる声で、あすかが言った。
「三年になっても、楽しい一年にしようね」
抑えきれなくなった気持ちを掴むように、大和はあすかの右手に手を重ねた。
驚きで顔を強ばらせたあすかと、目が合う。その頬に一度は引いた赤みがみるみるうちに戻ってくる。ぽかんと開いたままの口を笑う余裕は大和にもなかった。自覚せざるを得ないほど、ありえないくらい顔が熱い。
「三年になったら、風紀委員長に立候補しようと思ってる」
喉の奥から感情はせり上がってくるのに、どうやってもそのままの温度で伝えられそうにない。触れた指先のほうへと、熱がどんどん逃げていく。
「嫌じゃなかったら、あすかにも一緒に風紀委員になってほしい。俺、変わったつもりでも、たぶん時々は泣くかもしれないから……そういうときは、そばにいてほしい」
ぎこちなく紡いだ言葉は、あすかに届いているのだろうか。瞬きを繰り返すだけの無反応に、わずかに不安が押し寄せる。
「……ダメ、かな」
視線を外して訊くと、あすかはふるふると首を振った。口角が横に伸びていく。それから言った。
「まずは、一緒に当選しないとね」
あすかの指先が、大和の指をきゅっとつかむ。何もこぼさずに、すべてを受け止めるように。
優しい沈黙が二人を包んだその瞬間、乱暴に部屋の扉が開かれた。
「あーっ! やっぱここにいた!」
静寂を切り裂いたのは丹羽だった。大和とあすかは咄嗟に距離を取り、お互いに顔をそむけた。バクバク鳴る心臓を押さえていると、丹羽の後ろから真琴もひょこっと姿を見せた。
「ずっと連絡してたのに、繋がらないんだもん」
スマホを確認すると、大和には丹羽からのおびただしい数の不在着信が、あすかには真琴からの怒涛のメッセージが届いていた。
びっしりと表示された連絡の数々にも気づかないほど、二人が大切な話をしていたなんてことは、丹羽も真琴も知るはずがない。
「四人でカラオケ行くぞ」
決定事項であるかのように丹羽が言う。「卒業祝いだ」
「在校生だけじゃ卒業祝いって言わないだろ」
大和の的確な突っ込みにも、丹羽はめげない。
「気持ちが届けばいいんだよ。よーし、今日は卒業ソング縛りにしよう。最初は全員で『旅立ちの日に』、んで最後は全員で『蛍の光』じゃ!」
「たまにはいいでしょ。じゃあ、あたしたち先に教室戻ってるから」
ふにゃふにゃとした丹羽の鼻歌とともに、真琴の足音も遠ざかっていく。開け放たれた扉から見えるのは、切り取られた廊下。
過ぎ去った嵐に、諦観の混じったおかしみがこみ上げ、小さく笑い合う。
「行こう!」
立ち上がった大和が、あすかに手を差し伸べた。
半分以上は丹羽のリサイタルと言ってもいい時間が過ぎ、駅前のカラオケ屋を出ると、あたりはすっかり夜だった。
空には、星々がきらめいている。
「星がきれいだねぇ」
大和につられて空を見上げたあすかが言った。丹羽と真琴も顔を上げる。
誰かと星を眺めるなんていつぶりだろう、と大和は目を細めた。
空の低いところで、父が教えてくれたオリオン座はまだ輝いている。見せたいと言っていた天の川は東京じゃうまく見えないだろう。見てみたいな、と大和は思った。
光を放つ星空を焼きつけるように、ゆっくりと目を閉じる。
以下、大和の心情である。
青春は、キラキラと輝く星夜ばかりじゃない。少なくとも、俺にとってはそうだった。
でも、だからこそ気づけたんだ。満天の星空がどれだけ眩しいかってことに。
天の川って、涙の跡みたいだ。
悲しさが流れたその跡に、温かい光がたくさん集まって照らしてくれるんじゃないかって、そんな気がする。
今は見えない天の川に、大和は思いを馳せた。
そして、北極星がなくても迷わない日常をこれからは歩いていく。
小野寺大和にとって青春とは、
涙のあとに灯るやわらかな光である。




