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30 江渕由恵にとって卒業とは

 高校生活最後の日の朝は、いつもより校舎が白く光って見えた。

 温かい朝陽に背中を押されて新しい世界へ行くのだと、気が引き締まる思いがした。

 笑おう。笑って、笑って卒業しよう。江渕由恵はそう心に決め、校門を抜ける一歩を前に出した。

 そして、今、由恵の目の前で、近藤七瀬が泣きじゃくっている。


「由恵せんぱっ……ぐすっ、そ、卒業、おめでと、ございます」


 一年生は卒業式には出席できない。その代わり、式に臨む三年生の胸に花飾りを留めて送り出す。それが星豊学園の伝統である。

 あるのだが──。

 震える七瀬の指先は、卒業生の証である黄色い花をなかなか留めることができない。


「七瀬、私このままじゃ卒業できないよ」


 軽口を叩くと、七瀬は唇を噛んで、震えを止めようとしている。由恵はそっと七瀬の手を包んで、その動きを導いた。安全ピンがパチッとはまる。

 先輩として最後にできること、かける言葉はなんだろう。探しかけて、由恵は思いとどまる。そんなのは傲慢だ。


「ありがとね、七瀬。でも、そんなに泣いたら可愛い顔が台無しよ」


 両手で七瀬の頬を持ち上げる。目を真っ赤にした瞳が、また潤む。


「由恵先輩、ずっと尊敬してます。たくさんお世話になりました。ありがとうございました」


 由恵は「よしよし」と七瀬の頭を撫でた。撫でながら、つむじに注視する。そうしないと、涙腺が揺れてしまいそうだ。

 今生の別れというわけでもないのになぁ。

 左胸に収まった花飾りだけが、凛と前を向いている。

 卒業式が始まる前から、洟をすする音が講堂のあちこちで聞こえてきた。由恵の隣にいる男子生徒もすでに目をうるうるとさせていて、雰囲気に飲まれそうになったけれど、決して泣くわけにはいかなかった。


「卒業生代表、江渕由恵」


 はい、と出した声が、立っている卒業生たちのすき間を縫うように講堂全体に広がった。

 由恵は、卒業生三百八十四人の代表として、卒業証書を受け取る大役を担っていた。

 緊張はないまま、しっかりと踏みしめて壇上にあがる。演台をはさんで校長と向かい合ったところで、ひとつ、大きな息を吐いた。


「卒業、おめでとう」


 穏やかな校長の笑顔に、由恵も微笑み返して証書を手にする。左、右、と添えた指に伝わる重さは、三年間の結晶というにはあまりにも軽い。少し拍子抜けするくらいに。

 壇上から下りる直前、由恵は受け取った報告をするように卒業生に視線を落とす。ざっと眺めたその先で、朔と目が合ったような気がした。

 以下、由恵の心情である。


 卒業証書の代表だって、順当ならあんたがやるべきなんでしょうね。だけど、答辞もやって証書も受け取るなんて、古川ひとりの独壇場にさせてたまるもんですか。残念でした。

 さあ。私はやり遂げたよ。今度は古川の番。あなたの生徒会長としての最後の矜持、見せてみなさいよ。


 等々。

 卒業という最後の日になっても、由恵は朔にメラメラと対抗心を燃やしていた。その感情こそが、三年間、由恵を走らせてきたのかもしれない。


「送辞。在校生代表、小野寺大和」


 由恵が着席して間もなく、入れ替わるように立ったのは大和だった。低く響く返事が、講堂の厳かな空気をより引き締める。

 直属の後輩が在校生代表という重圧を背負っている。その背中を見ながら、ずいぶん頼もしくなったなぁ、と由恵の頬はほころんでしまう。

 春の気配を纏うやわらかな風が吹くこの良き日に、先輩方がご卒業を迎えられましたことを心よりお祝い申し上げます。

 そんなふうに始まった送辞に耳を澄ませる。声は意味のある言葉としては届かず、ヒーリングミュージックのように由恵の心を穏やかにさせた。目を閉じる。記憶が流れていく。体育祭や文化祭、そういうイベントもよく憶えている。けれど、思い出のほとんどを作り上げるのは、何でもない日常の光景。何でもない普通の会話。

 本当に、いろんなことがあったなぁ。

 拍手の音に瞼を開ける。気づけば大和が壇上を後にしようとしていた。息をした大和の肩が、ふーっと大きく持ち上がる。そういえば、大和は昔から自分の感情を隠すのが得意だったな、と感心して笑みがこぼれる。

 在校生の席は講堂の後方にあるため、大和が席へ戻るまでには少し時間がかかった。息をするのも躊躇われるほど張りつめた空間で、普段と何ら変わらない呼吸をするものがいた。


「答辞。卒業生代表、古川朔」


「はい」


 朔が発したのは、揺れも震えもない声だった。



 たとえば、卒業って何をもって卒業となるのだろう。

 卒業式を終えたら、卒業証書を受け取ったら、校舎を出たら、もしくは、日付が変わったら。

 由恵は閑散とした教室で窓の外をぼんやり見下ろしていた。最後のHRも終わり、卒業生たちは校門前で友人や家族との写真撮影に夢中になっている。このあと謝恩会もあるからか、別れの悲壮感は漂っていない。

 下へ降り、その輪に混ざろうとは思えなかった。


「お、ぶっちー、いたいた」


 由恵をあだ名で呼ぶのはたったひとりだ。式の最中に聞いたのとは全く違う、羽のように軽い声。


「下でみんなで写真撮ろうよ。風紀委員と、生徒会のやつらも集まってる」


 うん、と反射的に答えたのに、体は窓際から離れようとしない。朔は教室の入り口から、由恵の隣にゆっくりと近づいた。

 感傷に浸ってるのかと茶化すわけでも、急かすわけでもなく、何も言わなかった。ただ同じ景色を一緒に眺めた。沈黙に耐えかねたのは、由恵のほうだ。


「何なのよ、あの答辞は」


「感動した?」


「ちっとも」


 僕たちは今日、この学園を去りますが、卒業するわけではありません。

 朔の答辞は、そんな言葉で始まった。


「卒業式に卒業しませんって、中二病じゃないんだから」


 朔は飄々と笑うばかりだ。中二病万歳とでも思っていそうな屈託のなさで。

 この学園で培ったすべてを、僕たちはこれからも育て続けます。だから、今日という日はひとつの節目であって、卒業でも終わりでもないと、僕はそう思っています。

 続いた答辞は、由恵の胸の奥で渦巻いていた靄に対する答えのようだった。

 内容に打ち負かされた気がしたわけではない。張っていた肩の力が、ふっとほどけていくような気がしたのだ。

 終わりを決める必要なんてない。そんな選択肢を、由恵は知らなかった。

 校門から視線を外す。横にいる朔は珍しくブレザーを着用している。本来なら当たり前の姿なのに、日常が遠くなったようで胸が締めつけられる。

 そして、ブレザーにあるはずの二つのボタンが引きちぎられているのを見つけると、どうしてか、さらに胸が重くなった。


「ボタン、あげる人なんていたんだ」


 由恵に言われ、朔は自分のお腹あたりに顔を向けた。


「ああ、これ」


 答辞を読んでいるときは前が閉まっていたから、式が終わったあとに誰かにあげたのだろう。ほつれた糸の先が風に揺れている。


「大和にあげたんだ。第二ボタン」


 と朔が言った。


「え⁉」


「けっこう前。大和の誕生日に」


「そういう関係だったの?」


「違えって! 偉大な先輩として、後輩に託したんだよ。女の子にあげるよりよっぽど有益でしょ。何より、僕のボタンは女子たちの争いの火種になりかねないからね」


「……ま、賢明な判断かもね」


 朔のカリスマ性は男女問わずひとを惹きつける。二つしかないボタンを巡って争いが起きたら、砕いたボタンを分配するしか平和的解決は望めなかっただろう。


「じゃあ、はい」


 朔は由恵に向かって手を出した。


「へ?」


 間の抜けた声が出る。


「ぶっちーの第二ボタン、僕が貰ってあげる」


 由恵のブレザーのボタンは過不足なく揃っている。朔はその前で手のひらを上下させた。

 なんであんたなんかに。言いかけた雑言は、喉から出ようとはしなかった。余っているものをあげるのに、意固地になって断る必要がない、というのは言い訳だろうか。

 常備しているソーイングセットをカバンから取り出すと、朔はぷっと吹き出した。


「そういえば、ぶっちーはそういう人だったよね」


「ケンカ売ってる?」


「いや。褒めてるんだよ」


 チョキ、と糸きりばさみで糸を断つ。何重もの糸でつなぎ留められていたボタンが、コロンと手のなかに転がる。


「どうぞ」


 握ったボタンを、朔の手に落とす。質量以上のものを渡してしまったような、妙に気恥ずかしい気持ちに由恵はうつむいた。

 朔は満足そうな顔でそれをポケットにしまい、


「よくできました」


 と、両手で由恵の左の手のひらを包んだ。冷たい感触が、感情線をなぞる。

 ボタンだった。今あげたものと、重さまでそっくりだ。

 疑問符だらけの由恵を見て、朔はそれはそれは愉快そうな表情で笑っている。


「僕の第一ボタン。あげるならぶっちーかなぁと思って取っておいた」


 しばしボタンを見ながら状況を飲みこむと、カッと顔が熱くなった。どういうつもりなのか、どうして自分なのか、訊きたいけれど声にならない。

 ならないのだが──。


「大学でも、良きライバルとしてよろしく、ってことで」


 ……ん?

 聞き捨てならない言葉が通りすぎようとして、慌てて引きとめる。


「大学でも?」


「うん。ぶっちーと僕、同じ星豊大学の法学部」


 淡々とした口調だった。


「はぁ⁉」


 由恵は思わず手にしたボタンを投げつけそうになった。「だって、古川、外部を受けるって言ってたじゃん!」


「そんなこと、僕は一言も明言してないんだけど?」


 意地の悪い笑み。やられた。この人、わざと黙ってたんだ、と由恵は確信した。

 国公立は合否の発表が遅い。何も言ってこない朔に対して、受験うまくいかなかったかな、邪魔しちゃ悪いな、などと気遣っていた自分が恥ずかしくなり、怒りが湧く。


「バカ! 人の気持ち返せ!」


 叫んだけれど、その気持ちがどんなものなのかは、由恵自身もよくわかっていない。

 朔は罵声から逃げるように軽く走った。パタパタと机と机のあいだをすり抜けると、向き直って由恵に言った。


「みんな、ぶっちーを待ってるよ」


 外から「由恵せんぱーい」と呼ぶ声が聞こえた。下のほうで両手を振っているのは大和とあすかだ。

 さっきまで鬱屈としていた胸に陽が差しこんだような、不思議な感覚だった。

 そっか、私は、古川に会えなくなるのも、嫌だったのかもしれないな。

 ギュッと握った朔の第一ボタンに、じんわりと熱を閉じこめる。

 三年間の形はひとそれぞれだ。卒業証書では計り知れない重さと密度を抱えて──抱え続けて、これからも歩いていく。

 魔法から解かれたように、江渕由恵は駆け出した。卒業は終わりじゃない、と教えてくれた朔の背中を追って。


 江渕由恵にとって卒業とは、

 積み重ねた日々から次章へと続く、ひと呼吸の改行である。

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