29 千葉真琴にとって歩くこととは
年が明けて、あっという間に新学期。
一月の風の冷たさが、真琴の胸のすき間に沁みていく。
あーぁ。ため息を吐くついでに声に出す。あーぁ。
真琴は部室棟の短い階段に腰を下ろし、グラウンドでストレッチをしている集団をぼんやりと眺めた。陸上部のようだ。短距離の選手も長距離の選手も、まだばらけずにまとまって体をほぐしている。
冷えた鼻先を隠すように、抱えた膝に顔をうずめる。
以下、真琴の心情である。
あすかは、大和くんとまだ付き合ってはないって言ったけど、二人の空気感は以前とは明らかに違っている。
じれったいにもほどがある。
嬉しいはずなのになぁ。
こういうときに喜べる自分でありたいと思ってきたはずなんだけどなぁ。
等々。
なにやら複雑な感情を、真琴自身も整理できないまま持て余し気味である。
そういえば、陸上部には丹羽くんがいたはずだ、と真琴はグラウンドをざっと見渡した。
見渡したのだが──。
いない。怪我したわけじゃないよね。
真琴が目をこらしていると、
「あれ、千葉さん?」
背後で呼ばれて振り仰ぐ。立っていたのは体操着姿の丹羽。真琴は若干気持ちが引いた。ジャージではなく、半袖短パンだ。さすが脳筋。今どき、小学生だって風の子なんかじゃないというのに。
「もう部活はじまってるみたいだよ」
指で示したのに、丹羽は「よいしょ」と隣に座った。練習風景も、真琴の指も、まるで見えていないかのように。
「珍しいね、千葉さんがこんなとこにいるの。見学? 入部希望……じゃないよな。走るの嫌いそうだったし」
真琴はぱちぱちと瞬きをした。
「千葉さんも今度一緒に走る?」
「走らない」
あの会話をしたのは夏だ。季節は半回転したというのに、丹羽くんはけっこう記憶力がいいのかもしれない、と真琴は思った。学力とは別のところで、だけれど。
「あ、もしかしてマネージャー希望?」
「違います」
即答すると、丹羽はわかりやすくしょんぼりとした。もうすぐ三年になるというこの時期に、入部希望者がいると本気で思っているのだろうか。
すぐに気を取り直したのか、丹羽は背筋を伸ばし、真琴のほうへ顔を向けた。
「そういえば、千葉さんと白井さん、最近別々に帰ってるでしょ?」
嫌なことを訊かれたわけでもないのに、真琴は不意に眉間に皺を寄せた。
どうしたのだろう。新年になって、丹羽くんの観察眼は著しく鋭くなり、心の機微まで読み取れるネオ丹羽になってしまったのだろうか。力みのない表情が、かえって空恐ろしく感じられる。
「なんでわかるの?」
「だって、冬休み前からかな、部活中に見なくなったから。送迎の黒い車」
グラウンドから校門までは視界を遮るものがない。真琴とあすかが車に乗りこむ様子は、この位置からでも肉眼で見えるはずだ。
脳内に浮かんでいたネオ丹羽の文字が砂塵のように消えていく。観察眼には違いないが、あくまで物理的な意味の観察だったようだ。
「まぁ、そうだね」
「なになに。ギクシャクしてる系?」
「そうじゃない、けど」
「あ、もしかして失恋した?」
失恋。その言葉は真琴の胸にすとんと落ちた。別に恋愛として好きだったわけじゃない。経験がないから断定できないけれど、たとえば、自分の子供が成人や結婚で巣立つときに湧く、喜びのなかの一抹のさみしさのような。
あぁそうか。これは失恋の一種なのかもしれない。
「……そっか、そうだね。失恋したんだ、あたし」
「えぇぇ⁉」
丹羽の声が裏返る。
「失恋って、マジ? 俺、大和から聞いてねえし。クソ、あいつ……」
丹羽はいまだに、真琴が大和に片思いしているという盛大な勘違いをし続けていた。そんなこと、もちろん真琴は知る由もない。
陸上部はジョギングをし始めた。その流れをゆっくりと目で追いながら、真琴は「あたし」と切り出した。
「あたしね、大和くんが相応しい相手なのかどうか、認めさせてほしいと思ってた。そうすれば納得できるだろうって。でも、そうじゃなかった。あすかの想いを認めるための答えを、あすかから突きつけられるなんて思ってもいなかった」
何も知らないくせに──あすかが怒鳴ったとき、泣きだしそうになって部屋を出た。大和のことを、ではなく、あすかのことを何も知らないくせに、と言われた気がしたのだ。
完全な八つ当たり。ほとんど嫉妬だ。
思い出すと、鼻の奥がツンとする。丹羽くんがいてくれてよかった、と真琴は思う。ひとりだったら、泣いてしまったかもしれないから。
丹羽はゆっくり身をのけぞらせ、手をついて空を見上げた。
「千葉さんは、白井さんのことが本当に好きなんだなぁ」
勘違いしているせいもあり、真琴の打ち明けた内容の一割も理解していない丹羽であったが、何の気なしに放った一言は、思いがけず真琴の心を軽くした。
今の話からどうやったらその返答になるのだろう。「そうかな」と言うと、「そうだよ」と屈託なく丹羽は笑う。
「そういう感情って普通もっとドロドロしてんじゃない? なんか、千葉さんのはすごく純粋な感じがする」
「純粋なわけないじゃん。ドロドロだよ」
「そうかな」と丹羽が笑うので、真琴は「そうだよ」と腕のなかに顔を沈める。
「千葉さんは、白井さんの想いを『認められない』んじゃなくて『認めた』んでしょ。全然ドロドロしてないよ」
「……そうするしかなかっただけだよ」
沈黙のあいだを、陸上部のかけ声が近づいたり遠ざかったりする。もうだいぶ体が温まってきたころだろう。丹羽くんはこんなところで油を売っていていいのだろうか、と横目でうかがうと、
「あっ!」
急に大きな声を出した丹羽が立ち上がった。
「それってさ、あれに似てるかも」
「あれ?」
真琴が見上げると、丹羽は組んだ手を空に向かってグッと伸ばした。どうやらストレッチを始めるようだ。
「陸上やってるとさ、やっぱり自分よりすげぇ奴とか速ぇ奴がいっぱいいてさ」
いきなり陸上の話になり、丹羽の言わんとするところが真琴には見えない。ひとまず相槌を打つ。
「陸上なんて数字にもろに出るから、認めざるを得ない。じゃあ認めたあとにどうするかって。それと似てない?」
「どこが?」
「うわ。きっつ」
言葉と裏腹に丹羽は愉快そうだ。
今度は腕をググっと胸側に引き寄せ、柔軟を続けながら丹羽は言った。
「今は、脳と心が追いついてないだけだよ」
真琴はそっと目をつむる。風が止んだ。そうかもしれない。そう思えた。
「部活終わったら気晴らしにカラオケでも行きますか? お姉さん」
「行かない」
丹羽の誘いを軽くあしらい、立ち上がってスカートを手で払う。心に積もった不要な何かも、風に飛ばされていくようだった。
「じゃあ、そろそろオレは部活行こうかな」
「早く行って。今すぐ行って」
グルグルとトラックを周回する陸上部員たちがチラチラこちらを見ているのは少し前に気が付いた。視線が痛い。
「千葉さん」
歩き出そうとしたところで呼び止められた。振り向くと、丹羽は地面に座り、開脚したつま先に触れようとしている。
「また部活見に来てよ。次はオレが走ってるときに」
「気が向いたらね」
真琴は今度こそ帰ろうと、校門に向き直ろうとして、やめた。
一度外した視線を、丹羽に戻す。
「部活、頑張って!」
丹羽は前屈しながら、親指だけ立てた拳を掲げた。
オレンジに染まりはじめた太陽が、丹羽の背中を照らして輝いていた。
自分よりずっと速い選手がいても、その実力差に打ちのめされても、丹羽は決して陸上を辞めないのだろう。いや、辞められないのだろう。
真琴も同じだ。どんなことがあったって、あすかが好きだ。好きだという単純な想いのために、面倒くさい悩みを抱えたり、勝手に不貞腐れたりしている。真琴は何だか可笑しくなって笑いを噛み殺す。
それでも好きなんだから、どうしようもない。
右、左、右、左。規則正しく足を出せば、自ずと前に進んでいく。走ることは苦手でも、そのうち、脳と心は追いついてくれるかな。
真琴は足の指先で、押しだすように地面を蹴った。
千葉真琴にとって歩くこととは、
面倒な自分ごと抱きしめて成長するための、ささやかな前進である。




