26 小野寺大和にとって第二ボタンとは
「生徒会と風紀委員はお互いを高め合う相乗関係……学園生活をより高次の次元へと押し上げる正しき自主性の確立……」
大和は記事を読み上げるにつれて怪訝な顔になっていく。
新聞部発行の学生新聞は明日が配布予定日なのだが、生徒会長特権を濫用した朔がフライングゲットしたものだ。
「絶対こんな真面目なこと言ってないでしょう。言うわけがない」
「おーい、偉大な先輩に対してあるまじき口の利き方じゃねーか?」
朔は休日の大和の部屋で勝手に寝転び、持参した携帯ゲーム機に夢中になっている。
「前々から思ってたけど、絶対におかしいですよ。朔先輩の言葉、良い方に良い方に曲解されてますもん。たまに俺らと違う言語なんじゃないかって疑うレベルで」
カチカチとボタンを連打する音と同じ無機質な声で朔は答える。
「ま、それも人徳だろ」
曲解だとしても、届いた相手にとってはそれが真実だ。そういう意味では曲解させてしまう朔のカリスマ性も人徳と言える。釈然としないながらも、大和は黙って記事の続きを目で追った。
「ていうか、なんでこんなこと言ったんですか! しかも全校生徒の目に触れる学生新聞で!」
「えー? こんなことって何?」
朔はゲームの画面から目を離さずに訊いた。
「俺が来年、風紀委員長になるって、勝手に決めないで下さいよ」
「ふーん」
がばっと体を起こした朔は、大和が読んでいた学生新聞を奪い取った。灰色の紙面で塞がれていた視界が開けて、大和と朔が向かい合う形になる。
「じゃあお前はやりたいのか、やりたくないのか、どっちだよ」
そう言われて口をつぐむ。
求められたから、応える。大和の受け身のスタンスは、朔が望む正しい自主性とはほど遠い。
「……まだ決めてません」
真っすぐな視線から目をそらして呟く。
朔は大和の頭のほうへとそっと手を伸ばすと、折り曲げた指を思いきり額に向かって弾き叩いた。
「──っ痛った‼」
大和はデコピンの衝撃に思わず額を押さえた。
「急に何するんですか!」
「あ、ごめん。うまく加減できなかった。僕も爪痛い」
「加減の問題じゃないでしょう!」
朔は爪をさすりながら目を細めている。
不思議な人だ、と思う。自在に空気を重くしたり、軽くしたり、そういう芸当は自分には一生かかってもできそうにない。
赤くなっているんじゃないかと思うほどジンジンする額を押さえながら、大和はあの日の痛みを思い出していた。
以下、大和による中学時代の回想である。
初めて泣いているところを見られたのは中学二年になってすぐだった。
そのとき朔先輩は当たり前のように生徒会長になっていて、俺はその下で会計を任されていた。俺が中学一年のころから朔先輩は俺を気にかけてくれていたし、俺の家にも遊びに来ることも、朔先輩の家に呼ばれることもしょっちゅうだった。
だけど、俺の過去を朔先輩に打ち明けたことはない。
同情されるのが嫌だったわけじゃない。可哀想だと思われるのが嫌だったわけじゃない。
俺は、朔先輩の優しさを信じられなくなるのがこわかったんだ。
まぁでも、朔先輩は母さんとも仲が良かったから、いつからか俺の事情を知ってはいたんだと思う。
でもそれがいつからか、はっきりとはわからない。わからないことが俺を救っていた。
その日は両親の命日だった。
車の交通事故。珍しいことじゃない。でも、毎年考えてしまう。どうして俺は一緒に乗っていなかったんだろうって。
昼間、誰かといるときは平気なはずだったのに、夜になったらやり切れなさが溢れた。
眠れずにこっそり家を抜け出したのは、日付が変わるか変わったかぐらいの夜中だったと思う。
二人きりの静かな家では泣かないと決めていた。母さんだって、たったひとりの兄さんを失くした哀しみを俺には決して見せないのだから、俺だけが泣くのはルール違反だ。
みんなが寝静まったのを見計らって輝きだしたような星たち。見上げながら道路の真ん中を歩いた。行くあてはなかったけれど、視界の星が滲んだタイミングで行き着いた公園のベンチにひとまず腰を下ろした。
父は星が好きだった。一緒に夜空を見上げては、星座の名前を熱心に教えてくれた。
「大和の誕生日くらいの季節には、オリオン座っていう有名な星座がきれいに見えるんだぞ」
「こっちじゃあんまり見えないけど、もっとたくさんの星が空にはキラキラしてるんだ。大和が夜ふかしできるような年になったら、星がたくさん見えるところに旅行に行こうか。天の川っていう、お星さまでできた川がすごくきれいなんだ」
母はその横で優しく微笑んで、
「夜のピクニックなんかもいいかもね」
と言った。俺は星よりもピクニックの響きにすごく惹かれて、母に卵焼きをリクエストしたような気がする。
夜の思い出は、子供だった俺にとって睡魔の混じった曖昧なものばかりなのに、とてもとても幸せな記憶ばかりだ。
俺、もう夜ふかしが平気な年になったよ。
呼びかけたって応えはない。ひとりで見上げる星空は、どうしてこんなに寂しいのだろう。
止めどなく零れる涙を拭いながら、ほとんど嗚咽のようになる。それでも声を殺した。洟をすする音も、不規則に乱れる息づかいも、いつまでも消えない憤りも、俺はベンチの上で膝を抱えて、自分のなかだけに押し留めた。街灯にさえ気づかれないように。
そうしているうちに、泣き疲れた俺はいつの間にか眠ってしまっていた。
肩を揺する手が温かかったのを、よく覚えている。
「おーい、大和!」
ぼんやりした頭と重たい瞼がゆっくり起こされる。五月とはいっても深夜の空気はさすがに身震いするほど冷たくて、俺はすぐに目を覚ました。
顔を上げると、朔先輩が立っていた。
「お前凍死したいのかよ」
意識を失った相手にするように、俺の頬をペチペチと叩いている。
「え……朔先輩、なんで?」
「『なんで?』は僕のセリフだから。無性にプリンが食いたくなってコンビニ行こうと思ったら、夜中の公園に知った顔がいて驚いたのはこっちだっつーの」
「夜中にプリン……?」
「うるせーな! 夜中にパジャマ姿で星空観賞のがよっぽどおかしいだろ」
朔先輩はいつもの調子のまま、俺の泣きはらした顔については一言だって言及しなかった。
「すみませんでした。俺、一人で帰れるんで、先輩はプリン買いに行ってください」
うつむいてそう言った俺に、朔先輩はそっと手を伸ばした。
バシッ
「っ痛った‼」
額から後頭部まで貫くような痛みに、俺は一瞬何が起きたのかわからなかった。
「お前はホントに……バカバカバーカ」
朔先輩が爪をさすっているのを見たとき、やっと俺はデコピンされたのだと理解した。
額を押さえながら言葉を失っている俺に、朔先輩は手を伸ばした。
今度は、俺を立ち上がらせるための手を。
「早苗さんが心配してたよ。帰ろう」
「心配してる」ではなく、「心配してた」──その違いの意味するところに気が付いたとき、俺は、朔先輩の言葉どおり、自分がいかにバカなのかを痛感させられた。
「……朔先輩、ありがとうございます」
「はいはい。お礼はプリンでいいから」
「考えときます」
泣き笑いで差し出された手を取ると、額の痛みが夜に溶けていくような気がした。
等々。
大和が、朔にだけ弱い自分をほんの少し見せられるようになったのは、この夜が初めてだったのである。
今、目の前にいる朔はあのころよりずっと背が伸びたし、ずっと大人びた横顔をしている。だけど、大和にとって何も変わっていないようにも思う。それは、朔の代名詞とも言える黒縁のメガネやグレーのパーカーのせい、というわけでもないらしい。
「それで、今日は何でうちに来たんですか。新聞なら明日になれば嫌でも読みますよ」
「あ、そうだそうだ。すっかり忘れてた」
朔はのんびりと、脱ぎ捨ててあったダウンのポケットから何かを取り出した。
「このあいだ、ちゃんと大和の誕生日お祝いできなかったからさ」
ニコニコしながらローテーブルの上に置いたのは、二つのプリンとプラスチックのスプーンだった。
朔は毎年、大和の誕生日をプリンで祝福する。といっても、大和の誕生日はだいたいテスト期間と重なるので、必死に勉強している大和に気を遣った朔が時期をずらして祝うことが多い。
「朔先輩、本当にプリン好きですね」
「プリン嫌いなやつとかこの世界にいる?」
このやりとりも、突っ込むのを躊躇するくらいには何度も繰り返されている。
確信ではないが、朔がケーキを選ばない理由に心当たりがあった。
早苗が大和の誕生日に立派なホールケーキを買ってくるからだ。二人暮らしなのにホールケーキ。カットケーキでいいんじゃない、と大和が提言しても、毎年、当日の冷蔵庫を開けると、大きな箱が我が物顔でスペースを占領している。結果、消費期限の警告など無視して、二、三日かけて食べきる羽目になる。食べ終わるころには、もう一年はケーキを見なくてもいいと思うほどだ。
そういう事情を知っていて、朔はあえてプリンを選んでいるのだと思っている。
単に朔の好物がプリンだから、という説も否定はできない。
できないのだが──。
大和にとってはどちらだっていい。どちらだって嬉しい。
「じゃあ……いただきます」
「おう。食え食え」
すくったプリンを口に入れる。カラメルのほろ苦さに負けない甘さと卵の風味。
ふと、疑問がよぎる。
どうして、プリンは平気で、甘い卵焼きはダメなのだろう。同じもので出来ているはずなのに。
あの日のあすかの表情が浮かんで、胸がチクリと痛む。あれから、大和とあすかは表面的な会話しかしていなかった。
すべて打ち明けてしまおうと思わなかったわけじゃない。それでも言えなかった。朔のように、あすかも変わらないという保証はない。
でも、それでも──。
朔はプリンにスプーンを突き刺している。何度も、何度も。地下から温泉が湧いたように、濁ったカラメルが地表に溜まる。
この光景にも、とっくに慣れた。
変わらない人がいるから、自分も変わらないでいられる。それはとても幸せだ。けれど、その優しさに甘えたままでいるというのは、大和にとってまた別の話なのである。
「……どうやったら、変われますか?」
プリンを食べていた朔が目を丸くした。
「強くなりたいんです」
大和の切実さは届いているのか、朔は「うーん」と唸って目を閉じた。考えこんでいるようで、プリンを味わっているようでもある。
「僕はお前が泣いてるから弱いとは思わないし、泣かないから強いってわけでもないと思うんだけど」
朔はぐちゃぐちゃに混ざり合ったプリンを掻きこんだ。大和は端から丁寧にすくって食べ進めていく。
「世の中の大抵の結果は二択だと僕は思ってるんだよね。やるか、やらないか。変わるか、変わらないか。自分を好きになって終わる人生か、嫌いなまま終わる人生か。どっちがいいかなんて火を見るより明らかだろ。お前は変わらなくていいから、そのままの自分を好きになれ」
朔の声は、いつだって澄んでいて、いつだって真っすぐだ。
「お前はもっと、自分を許してやっていいんだよ」
口を引き結ぶ。わかっている。わかっているのに自信が持てない。
「俺だって……できるならそうしたいですけど」
いつか、自分の周りから誰もいなくなってしまうんじゃないかという根拠もない不安。それは、夜が必ずやってくるように大和のなかへ際限なく押し寄せる。
そのとき、朔がわざとらしく大きなため息をついた。
「ま、そうは言っても大和の事情はわかってるつもりだから、仕方ないとも思うけど……」
ごほん、と、急に咳払いをした朔に、大和もなんとなく姿勢を正す。
「僕は、たとえお前が誰かをぶん殴ったとしても、刺しちゃったとしても、何があってもお前の味方でいる自信があるよ」
刺す。言葉の強烈さに呆気に取られながら、大和は急いで言葉を返す。
「殴る、はわかんないですけど、刺したりはしません」
「そんなのわかってるって! そういう気概でいるって話だよ!」
「……ありがとうございます」
「棒読みの感謝やめろ」
「いや、だって」
「あーもう。一世一代の恥ずかしさだったんだぞ⁉ ふざけんなよ、くっそ」
ここまで取り乱す朔も珍しい。その様子がなんだか愉快で、自然と笑いが漏れてしまう。
朔は適当だ。けれど──。
「何があってもお前の味方でいる自信がある」
あの言葉はきっと嘘じゃないと信じられた。
「そうだ。あと、これもやるよ」
朔は思い出したように取り出した小さな何かを人差し指に乗せた。ピンッと親指で弾くと、それは勢いよく大和へ飛んだ。
慌てて受け止め、そっと両手を開く。なかで冷たく光るのはボタン。見覚えのある──ありすぎる、星豊学園のブレザーのボタンだ。
「なんですか、これ」
「誕生日プレゼント。僕の第二ボタン」
「……は⁉」
「僕くらい人気者だと、卒業式の当日に争奪戦になっても困るでしょ。僕は心安らかに卒業したいの。だから大和にやるよ」
「いや、普通は女の子にあげるもんでしょう」
「間違ってもそういう意味じゃねーからな! 卒業してからの僕代わりっつーか、お守り代わりっつーか」
大和の手のひらでボタンは鈍く光を返している。朔がブレザーを着ずにパーカーばかり羽織っていたせいだろうか、汚れや傷はほとんどない。無傷のボタンが、朔の自由奔放さを象徴しているように思えて、大和はボタンをぎゅっと握りしめた。
「なんか、いろんな人に恨まれそうでこわいです」
「そうだろうねぇ。プレミア間違いないもん」
「だって由恵先輩とか、どうするんですか」
「ぶっちー? なんで今ぶっちーが出てくる?」
古川朔という人間は、他人が自分をどう思っているかに関しては驚くほど鈍感だ。生徒会長として崇拝されている自負はあっても、古川朔という個人に誰かが想いを馳せるなど、おおよそ考えてはいない。
「いや、もういいです。自分でどうにかしてください」
「なんか引っかかるが……まぁいいや。ボタン、超貴重だからって売るなよ!」
「売れるわけないでしょ」
「うんうん、そうだろ。価値あるものほど手放したくないって言うからな」
そういう意味じゃないけど……、と切り返す気力も、もう残っていなかった。
新聞を読み終わっても、プリンを食べ終わっても、軽口の応酬が終わっても、朔は一向に帰ろうとはしない。
いつしか、二人は壁にもたれてうたた寝をしていた。気づけばいつもそうなっている──おなじみの光景だ。
理由もなくそばに居続ける。
身勝手な優しさがどれほど大和の心を軽くしているのか、鈍感な朔は知る由もない。
小野寺大和にとって第二ボタンとは、
もう追いつかなくてもいい背中から受け取った、優しさと自由の象徴である。




