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24 小野寺早苗にとって小野寺大和とは

 一方そのころ──。

 大和を追いかけようと腰を浮かせたあすかであったが、すぐに遠くなった足音に絶望し、再びその場に座りこんだ。

 隣に残ったかすかな温度さえ、北風がさらっていく。

 以下、あすかの心情である。


 どうして泣いたんだろう?

 なにが気に障ったんだろう?

 原因がわからないから、どうするべきだったのか正解がわからない。

 泣いている大和を今日は可愛いと思えなかった。泣き顔を見るのが苦しかった。

 私のせいで、泣いてしまった。

 大和の誕生日を、台無しにしてしまった。


 等々。

 あすかは冬の空のように鬱々としていた。


「関係ない、か」


 大和はそう言った。泣いたのは、あすかともお弁当とも関係ない、と。


「はぁ……」


 ため息をついたところで、胸のつかえは晴れない。落としてしまった箸を拾い、残っていたおかずを口に運ぶ。

 さっきまであんなにおいしいと思えたのに。

 あすかは卵焼きの最後の一切れを見つめた。

 卵焼き。

 そういえば、泣く直前、大和は甘い卵焼きに反応していた。確かに甘いが、泣くほどに甘すぎるというわけではない。

 考えても考えても答えが出ない。

 昨日はお弁当を渡すことで頭がいっぱいだった。もちろんテストは惨敗。こんな調子では、明日のテストも目に見えている。

 完食したあすかは立ち上がり、再び大きなため息をついた。

 その夜、あすかは大和にメッセージを送った。何事もなかったように、いつも通りを装って様子をうかがうためだ。


『お弁当箱とバッグ、洗って返すって言ってたけど、あれも大和への誕生日プレゼントだから返さなくて大丈夫だよ。重ね重ねになるけど、本当に誕生日おめでとう』


 何度も読み返してから送信ボタンを押す。

 返事が届いたのは、テスト勉強に集中できないあすかがベッドに潜ってすぐだった。

 内容は実に簡潔。


『わざわざメールありがとう。今日はすごく嬉しかった。明日もテスト頑張ろう』


 胸がチクリと痛む。先に何事もなかったようなそぶりをしたのは自分なのに。

 突然引かれた境界線に阻まれ、踏み出そうとしていた右足が宙ぶらりんになったような気がした。

 あすかはテストよりも難解な問題に頭を抱える夜をなんとかやり過ごした。

 やり過ごしたのだが──。

 テスト期間が終わり、風紀委員の挨拶運動や放課後の集まりで顔を合わせても、大和は何事もなかったように接してきた。

 いつもの笑顔。いつもの穏やかさ。いつもの優しさや気遣い。

 いつも通りのようで、どこか距離を置いているように感じる。単刀直入に訊いてしまいたいのに、自分が泣かせてしまった負い目がそうさせるのか、あすかの勇気はすぐにため息へと変わってしまう。

 ほわっと色づく白い息。もう冬なんだなぁと昇降口から鈍色の空を見上げる。

 あすかはここのところ、車での送迎を断っていた。図書室で勉強したいから、と嘘をついたが、本音は落ちこんでいるのを真琴に悟られたくないからであった。

 このまま冬休みに入ったら、ずっと気まずいままなのかもしれない。考えるだけで足取りが重くなる。

 うつむいているあすかの視界に、黒いパンプスが颯爽と入りこんできた。

 パッと顔を上げると、チェック柄のロングコートを着た女性が目の前に立っていた。


「こんにちは」


「こ、こんにちは」


 戸惑いながら挨拶を返したあすかに、彼女はニカッと歯を見せて笑いかけた。


「いきなり話しかけてごめんね~。訊きたいことがあってさ、あなた何年生?」


「二年です」


「ちょうどよかった! あのね、二年生の白井あすかちゃんって子、知ってるかな? 知ってたら紹介してほしいの!」


 思いがけず出てきた自分の名前に、あすかは唖然とした。


「し、白井あすかに何か御用でしょうか……?」


 用心深く尋ねると、女性は思い出したように「あっ」と声を漏らした。


「ごめんごめん。不審者すぎるよね。私、ここの生徒の保護者なんだけどね」


 彼女は胸ポケットからカードケースを取り出し、その中から一枚抜いてあすかに見せた。

 覗きこんだ運転免許証の名前欄には、こう記載されている。

 小野寺早苗。


「小野寺大和って知ってるかな? その大和の母です」


「────ええぇぇぇぇっ⁉」



 適当な場所が思いつかなかったあすかは、早苗を学食へ連れて行った。昼時には人波に埋もれてしまう何台もの自販機が、この時間にはのびのびと存在感を放っている。

 早苗は自販機でペットボトルの緑茶を二本買うと、片方をあすかに差し出した。


「良かったらどーぞ、急に話しかけちゃったお詫び」


「ありがとうございます。いただきます」


 二人掛けのテーブルで向かい合う。ごくりとお茶を飲むと、早苗は「ぷはー」とビールでも飲み干したようなリアクションをした。

 大和の母親だと信じられなかったのはこの天真爛漫さだけではない。

 早苗の若さだ。肌のハリ、髪のツヤ、言動も目元の輝きも、とても四十代には見えないほど若々しい。

 三十五才なら……まぁありえなくはないか……?

 あすかが回らない頭で逆算していると、早苗はにっこりしながら言った。


「いやー三者面談の時間までに会えたらいいなーと思ってたけど、まさか最初に話しかけた子があすかちゃんなんて、なんか運命的だわ」


 三者面談。なるほど。てっきり怪しい人かと警戒してしまった自分が恥ずかしい。


「最初、ちゃんと名乗れなくてすみませんでした……」


「いーのいーの! こっちが悪かったんだし。知らない人が自分のこと知ってたら怖いよねぇ。あっ、あすかちゃんのことはね、朔くんから聞いたんだよ」


「会長に?」


「うん。朔くんとはわりとご近所さんだからね。大和、あのお弁当箱、誰にもらったか訊いても教えてくれないんだもん」


「あっ」


 頬が一気に熱くなる。誕生日にお弁当を作るなんて、特別な意味があると思われても仕方ないかもしれない。


「お弁当、大和の誕生日に作ってくれたんでしょう?」


「は、はい」


 小さく答え、あすかはうつむいた。


「なんだー大和めっちゃ青春してるんじゃん。家じゃいつもつまんなさそうな顔ばっかりしてるからさぁ」


 ケラケラと笑う早苗を見て、あすかの胸に申し訳なさが滲む。膝に置いた手をギュッと握る。


「……でも、泣かせちゃったんです」


「泣かせた? 大和を? あすかちゃんが?」


「……はい」


 早苗は口元に手を当て、思案するようなポーズを取った。


「罵詈雑言系? それとも直接的パワー系?」


「はい?」


「原因はお弁当の味に難癖つけられたからとか? あの子舌バカだからね」


「違いますっ!」


「あ、そうなの?」


 本気なのか冗談なのかわからない。早苗と向かい合っていると、朔と対峙しているときに似た妙な緊張感がこみ上げる。

 もういっそ相談するような気持ちで、あすかはゆっくり目を伏せた。


「たぶん、卵焼き……大和って卵が苦手なんでしょうか?」


「卵焼き? あぁ、なるほど」


 早苗は合点がいったらしく、パン、と軽く手を叩いた。


「その卵焼き、けっこう砂糖入れたんじゃない?」


「あ、そうです」


「やっぱり。そっかぁ……まだ無理なのかぁ」


 無理、という言葉とは裏腹に、早苗が深刻そうな顔を見せないので、あすかは心の置きどころがわからないまま黙りこんだ。


「うん。こんなに大和のこと心配してくれてるんだもんね」


 誰に言うでもなくそう呟いた早苗は、ペットボトルのお茶を両手で握りしめた。


「私は隠す必要はないと思ってるんだけど、大和は絶対自分から言わないだろうしね」


 あすかの目の前で、緑の液体が揺れている。


「──私はね、大和の本当の母親じゃないの」


 ゆらゆら揺れる。


「大和の両親は……昔、事故で二人とも亡くなってね。私は大和の父親の妹、叔母さんにあたるんだ」


 想像を絶する告白に、あすかは何も言うことができない。そんな息苦しさを溶かすように、早苗はフッと口角を上げた。


「もう十年も前なんだけどね。私が引き取ったときはまだ小学生だったんだよ。なのに、あの子全然泣かないの。お父さんとお母さんがいなくなったのなんか信じないって顔してさ」


 聞いているだけでこんなにもつらいのに、大和は想像すら及ばないような痛みをひとりで抱えていたんだろうか。ずっと、ずっと。


「でもね……二人で暮らし始めてすぐ、学校の遠足から帰ってきた大和が泣きながら喚いたのよ。初めてだった。そのときの泣いた理由も、お弁当に入れた卵焼きだったの」


「甘い、卵焼き……」


「そう。大和ね、『本当のお母さんの味じゃない!』って言ったの。義姉の親族に訊いたらね、お義姉さんの卵焼き、すっごい甘かったらしくて。だから大和、甘い卵焼きを食べると思い出しちゃうんじゃないかな。両親のこと、もうあの味は食べられないんだってこと」


 あすかは項垂れて、下唇をギュッと噛んだ。その頭を早苗がそっと撫でる。


「大丈夫。あすかちゃんのせいじゃないよ。むしろ私は安心した。それ以来、大和が泣いてるのなんて見たことなかったから」


「……え?」


「え?」


 あすかと早苗は顔を見合わせる。

 そうか。大和は誰にも心配をかけたくないから、いつもひとりで泣いていたのかもしれないな。

 普段は穏やかな笑顔でみんなに頼られている大和も、

 みんなから隠れて膝を抱えて泣いている大和も、

 強くて弱い。だから私は大和のことを──。

 と、思ったところで自分に待ったをかける。

 何⁉ 私いま、何を考えてた⁉

 ひとりでに赤面し、頭をブンブン振っているあすかを見て、早苗は楽しそうに頬杖をついた。


「朔くんとかあすかちゃんとか、ちゃんと想ってくれてる人がそばにいるんだから、大和はきっと幸せ者だね」


 ずっと遠くの空に届けるような、真っすぐな声で早苗は笑った。



 三者面談の時間が近づいて早苗が席を立つと、あすかは大和と遭遇しないようにしばらく学食に留まった。

 早苗から貰ったお茶を一口飲む。口全体に広がるのは苦味。それなのに後味は清々しくて、どこか甘い。

 窓の外では、雲のすき間からわずかに光が差し始めている。

 早苗さんに会えてよかった。あすかはそう思った。

 早苗の明るさと優しさこそが、今の大和を象っているのだと知ることができたから。


 小野寺早苗にとって小野寺大和とは、

 たったひとりの、大切な息子である。

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