23 小野寺大和にとって卵焼きとは
期末テスト初日、屋上で寝転んだ大和の視界には灰色の雲が垂れこめている。
午前の死闘を終え、明日のテストに備えて早々に帰っていく生徒たち。遠くから聞こえるその声をぼんやり聞くと、自分だけが取り残されたような気持ちになる。
そもそも、震えるほどの寒空の下、屋上で過ごそうなどと考える人間は普通はいない。
いないのだが──。
大和にとっては、むしろそのほうが好都合だった。テスト期間特有の張りつめた空気や、鞭打つような厳しい気温のおかげで、勉強に集中することができる。
いつも、大和は何かに追われるように、心をすり減らしながら教科書の内容を頭に入れる。
けれど、近ごろは「一位を取らなければならない」という強迫観念じみた考えが薄まってきたようにも感じていた。
あの体育祭からだ。
ダメだったのに、二位だったのに、なぜか風紀委員のメンバーはみんな笑っていた。
「……変なの」
思わず呟いたが、今は悩んでいる暇などない。
もう少し勉強してから帰ろう。英単語と意味が書かれたカードをかじかんだ指でめくっていく。
ギィ、と音を立て、屋上の扉が開いたのはそのときだった。
「あっ、やっぱりここだったね」
顔を出したのはあすか。いつだったか、前にも同じことがあった。
「どうしたの?」
体を起こして訊く。ベンチがあるにも関わらず、あすかは大和に合わせて冷たいコンクリートに腰を下ろした。
「うん……あのね」
あすかは後ろ手に持っていたバッグを勢いよく大和の前に差し出した。
「誕生日! おめでとう!」
「……へ?」
「大和、今日誕生日でしょ?」
「あ、そっか……ていうか、俺、誕生日なんて教えたっけ?」
「ううん。会長に聞いた」
「朔先輩に⁉」
以下、大和の心情である。
先輩はいったい何を考えているんだ。そもそも、あすかと朔先輩って付き合いあったっけ?
そんなことよりも、あすかは謎のバッグを突きだしたままだ。意気揚々としているようで、どこか緊張しているようにも見える。
顔より一回りは大きいトートバッグ……何が入ってるんだ?
等々。
大和はおずおずとバッグを受け取った。
見た目からは想像できないほどの重量感に、手首の筋がピキッとうめく。
まさか筋トレグッズとかじゃないよな……。
「これって……誕生日プレゼントってこと?」
あすかは嬉しそうに頷いた。
「今日はテスト午前中だけだし、学食もやってないから、ちょうどいいと思って」
ちょうどいいって、何がだろう? 大和は首をかしげた。
「開けてみてもいい?」
「もちろん」
持ち手近くのジップを引く。なかから姿を現したのは、二段重ねのお弁当箱だった。
「大和の誕生日を一緒にお祝いしたくてお弁当を作ってみた。物だと何がいいのかわからなくて……ごめん」
長方形の箱には、傷が一つだってついていない。まるで夜空のような紺色がピカピカと光を反射している。
「いや、嬉しいよ。嬉しいけど……」
「けど?」
「あすか、今日テストは大丈夫だったの?」
「そこ、心配する?」
「だって、弁当作るなんて大変だったでしょ」
「はいはいはい。いいから一緒に食べよう!」
あすかは自分用にもお弁当を用意していた。中身が同じお弁当箱が二つ並んでいるだけなのに、どうしてこんなに気恥ずかしいのだろう。
「いただきます」
唐揚げに卵焼き、和え物や煮物まで。冷凍食品なんて使われていないのは、料理をしない大和にだってすぐわかった。
所狭しと詰められた料理たちは彩りも豊かで、見ているだけで頬が緩む。作るだけでなく、準備の段階からあすかが一生懸命に計画してくれていたのがひしひしと伝わってくる。
野菜から食べるよう心がけている大和は、まずミニトマトを口にした。すると、
「おいしい?」
あすかが心配そうにうかがってきたので、つい吹きだしそうになってしまった。
「おいしいよ」
冷えきっていた指先から始まり、食べ進めるにつれて胸の奥までも、じんわりと温かさが広がっていく。
「あの、い、一応たしなみとして料理は昔からやってたし、不味くはないと思うんだけど……」
「うん。お世辞じゃなくて、本当においしい」
「本当⁉ よかったぁ」
本当は味なんてどうだっていいのだ。
誕生日を覚えていてくれた。忙しいなかでも祝おうとしてくれる。その気持ちが嬉しくてたまらない。
こんな気持ちはいつぶりだろう。
空腹も相まって、箸の往復がどんどん速くなる。
なるのだが──。
「これ……」
突然、大和の動きが止まった。
甘さの波が口の粘膜を侵食する。
「あ、だし巻き卵? 大和はしょっぱい派って言ってたけど、うちは甘い派で。つい癖で砂糖多めに入れちゃったんだ。ごめん。口に合わなかった?」
あすかは眉を下げた。けれど大和は言葉を返すことができない。
「平気だよ」「おいしいよ」そう言って笑ってあげたいのに、できない。
甘い卵焼き。
その味を最後に食べたのは、いつだっただろう。
「えっ、嘘。大和?」
途端にあすかの表情が曇っていく。どうしてそんな顔をするんだろう、と思ったときにはもう遅かった。
大和は、自分の目から涙があふれていることに、ようやく気が付いたのだった。
料理たちを守るように手をかざすと、手のひらに涙の粒が落ちてきた。
止まれと願っても、卵焼きを飲みこんでも、涙は止まらなかった。次から次へと落ちてくる。
「え、なんで? どうしよう。大丈夫? お腹痛い?」
驚きのあまりパニックになっているあすかを気遣う余裕もない。
どうしてこんなに情けない姿ばかり目撃されてしまうのだろう。
大和は一度だけ、袖でグイッと目元を拭った。それから食べた。涙であすかの料理を汚してしまわないように、急いで、けれども確かに味わって、お弁当を綺麗に平らげた。
「大和、大丈夫……? 不味かった? ごめん、ごめんね」
今度はあすかが泣きそうな顔をしている。
そうじゃない。そんな顔をさせたいわけじゃない。
「違うよ。泣いたのは、お弁当ともあすかとも関係ないんだ」
大和は空になったお弁当箱を慌てて片付けると、トートバッグごと通学用カバンに押しこんだ。
「あすか、今日はありがとう。本当においしかった。それから、ごめん。お弁当箱とバッグは洗って返すから!」
一方的に伝え、逃げるように背を向ける。あすかに名前を呼ばれたような気がしたけれど、大和は振り返らなかった。
階段を駆け下りる。
ほとんどの生徒がいつの間にか下校していて、校舎のなかはひと気がない。大和は胸を撫でおろした。
それでも、そのまま下駄箱へは向かえなかった。滲んだ視界のままでは、自転車に乗って帰ることができない。
いつもなら、泣くのは決まって生活指導室だ。けれど今日は、心配したあすかが居場所を突き止めるとも限らない。
大和は不本意ながら、ある人物の顔を思い浮かべていた。
扉を細く開ける。大和の予想通り、生徒会室に鍵はかかっていなかった。
八人掛けの長机、その一番手前に座っている朔が顔を上げた。ひとりで勉強していたのだろう。手元には教科書とノートが広げてある。
「珍し……ていうか、お前、泣いてんの?」
目を丸くした朔を無視して、大和は斜め向かいの席に突っ伏した。
ノートを滑る朔のペン先が、リズムを取るように弾んで聞こえる。
「嬉しいねぇ、最近大和が泣いてるところ見れてなかったからなぁ」
「悪趣味すぎるでしょう」
「可愛い後輩が頼ってきたら、助けてあげたいと思うのが先輩ってもんだろーが」
「頼ってません。逃げるのにちょうどいい場所がなかったから、少し居させてもらおうと思っただけです」
「はいはい。手がかかる子ほど可愛いってね」
それ以上、朔は何も言わなかった。傍若無人に見えて、実際には真逆。長い付き合いだからこそ、朔の気遣いは痛くて心地が良い。
蛍光灯の低い唸りが、静けさの糸を張る。涙の最後の一粒を押しだすように、大和は深く目を閉じた。
小野寺大和にとって卵焼きとは、
甘いはずなのに、しょっぱい涙の味がする、遠い過去の記憶である。




