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22 江渕由恵にとって夕焼けとは

 文化祭が終わって数日経つと、余韻の熱もすっかり引いて学園に日常が戻ってくる。

 間近に迫った期末テストという現実から目を背けるように、執行猶予めいた時間が静かに流れていた。

 風紀委員による文化祭の反省会が行われたのは、そんなある日のことだ。


「じゃあこの反省を活かして、来年はより良い文化祭にしていってください」


 風紀委員長である由恵の締めの言葉で反省会は終わった。ひとり、またひとりと部屋を出ていくのを横目にホワイトボードの文字を消す。窓からの夕焼けが目に眩しい。


 文化祭も終わってしまうと、以降は目ぼしいイベントもなく、三年生は受験一色の生活になる。

 センチメンタルな夕日。

 由恵(ゆえ)は感傷に浸りそうになっていた。

 いたのだが──。


「えー、じゃああすか先輩はどのシーンが一番好きですか?」


「そんなのいっぱいありすぎて決められないよ! でもやっぱり三巻の終わりも良かったよねぇ」


 振り向くと、一向に机から立ち上がろうとしない女子二人組がマンガをめくりながら盛り上がっていたのであった。

 白井あすかと近藤七瀬だ。


「あすかと七瀬の取り合わせって珍しいね。仲良かったっけ?」


 由恵の問いに答えたのは七瀬だった。


「少し前に仲良くなりました!」


 その笑顔にダブって、小型犬がものすごい速さでしっぽを振っている幻覚が見える。

 決まった人間以外には必要以上の笑顔を振り撒かない七瀬が珍しい、と由恵は驚きを隠せなかった。


「私たち、このマンガが好きで意気投合したんです。由恵先輩はマンガって読みますか?」


 見上げてくるあすかの柔らかい表情にも由恵は目を丸くした。

 どこか浮いていて、人付き合いがいいとは言えなかった二人は、いつの間にこんなに変わったのだろう。それとも、私だけが知らなかったのだろうか?

 思わず由恵は笑みをこぼした。


「マンガはあんまり読まないけど、それって『恋100』だよね? 名前は知ってる」


『恋に届くまで100メートル』はアニメ化もされており、女子中高生のあいだで絶大な人気を誇っている。普段マンガに触れない由恵でさえそのタイトルを聞いたことがあるほどだ。


「みんな読んでるよね。おもしろいの?」


 訊き終えるより早く、七瀬が声を上げる。


「読んでくださいっ貸しますっ!」


「あの、私一応受験生なんだけど? 受験落ちたら七瀬のせいにしてもいいのね?」


「由恵先輩は落ちません。逆に『恋100』が適度な息抜きになって受験勉強が捗りますっ」


 自信満々で言い切られると妙な信憑性があるが、実際にはそんなわけはない。


「主人公の『歩美』は陸上部なんですけど、同級生で同じ陸上部員の『駿』と切磋琢磨しながら成長するんです」


 あすかのあらすじ紹介に、由恵はふむ、と頷く。


「なるほど。それで色々あって二人は恋に落ちる、と」


「そう思いますよね⁉」


 食い気味に返したあすかの勢いにたじろぐ。なんだかこの子たち、このマンガのこととなると人格が変わってる気がする。


「ところが他校のエース『風太』が実は歩美の昔の幼なじみで、三角関係になっちゃうんです!」


「どっちと結ばれるかわからないハラハラ感がすっごく良いんです!」


 二人の熱弁は続く。


「陸上大会で優勝した風太が歩美を抱きしめて告白するシーン良かったよねぇ!」


「でも、それに嫉妬した駿が部活の帰り道に歩美の手をつなぐところもキュンとしました!」


「それも良かったー! あとあと、歩美にキスしそうになった風太が寸止めして『この続きは全国大会で勝ったらしてもいい?』って訊いたときは死ぬかと思った!」


「わかります! でも駿も簡単に引き下がらずに、風太に勝つために我慢して歩美と距離を取るのがまたいじらしいんですよねぇ」


 等々。

 由恵はネタバレの数々にめまいがしそうになった。


「うん……。そんなに言うなら借りてみようかな」


「ぜひ!」


 二人のキラキラした瞳の圧力に屈し、由恵はマンガを受け取った。

 表紙には華奢で可愛い女の子とイケメン二人が描かれていて、パステルカラーの色合いから、いかにも少女マンガという雰囲気が醸しだされている。


「二人は、マンガみたいな恋に憧れてるの?」


 ポツリと尋ねると、


「そんなわけないじゃないですか」


 即答したのは七瀬だった。


「だって、本人の同意もないのに手をつないだり、抱きしめたり、キスできるくらい顔を近づけたら普通は犯罪ですよ?」


 突然の七瀬の落差に、由恵は呆気に取られていた。


「これは非現実だからいいんですっ。某テーマパークと一緒です」


 七瀬の言うとおりだ。

 言うとおりなのだが──。

 急に抱きしめられるくらいのロマンチックはあってもいいでしょうっ!

 マンガを読まない由恵のほうが現実によほど夢を持っていた。


「そ、そうなんだ。まぁそうだよね。でも、相手が大和なら七瀬も悪い気はしないんじゃない?」


 モヤモヤしながらも、由恵は先輩として相手の意見を受け入れた。けれども大人になり切れず、七瀬を言葉の棘でつついてしまう。


「大和先輩、ですか?」


 七瀬は首をかしげた。


「だって、七瀬は大和に懐いてるでしょう」


 そう言うと、答えは平板な声で返ってきた。


「大和先輩を尊敬してるのは確かですが、そこに恋愛感情は微塵もありません」


「えぇ⁉ そうなの⁉」


 なぜか驚いたのは由恵ではなくあすかのほうだった。


「そもそも、わたしは風紀の模範としての大和先輩を尊敬してるので、本人の同意なしで接触してくるような先輩は風紀委員失格です。そんな大和先輩は大和先輩じゃありません」


「えぇ……『恋100』語ってるときと別人じゃん、七瀬……」


 由恵がドン引きしても、七瀬は容赦せずに続けた。


「勘違いされているようなのでハッキリ言います。大和先輩を認めているのはビジネスパートナー、上司、先輩としてだけです。顔もわたしのタイプではありませんし、性格も、わたしは自分と対極にいるような、わたしに足りないものを補ってくれるような人が好きです!」


 あすかと由恵は顔を見合わせ、大和に対する憐憫を共有した。南無。

 心のなかで合掌していると、あすかが突然、


「由恵先輩は好きな人とかいないんですか?」


 と訊いてきた。


「なに急に」


「卒業式に第二ボタン貰ったりとかあるじゃないですか。先輩にはそういう相手いないのかなぁと思って」


 星豊学園はブレザーを採用している学校では珍しく、卒業式にボタンをもらう行為には特別な意味がある。人気のある生徒ともなると、ブーケトスをする花嫁のように、集まった群衆へボタンを投げこむのが毎年の名物になっている。

 もちろん、前もっての予約も常套手段だ。


「ほとんどは内部進学だから、大学行ってもキャンパスで顔合わせるでしょ。第二ボタンなんて貰ったら黒歴史になりそうでこわいよ」


 現実的な答えで返すと、あすかは「そっかぁ」と残念そうに相槌をついた。それを見た七瀬が言う。


「生徒会長あたりは成績優秀だから国公立目指すんじゃないですか? 相手が外部受験なら黒歴史になりませんよ」


 第二ボタンと聞き、ポンと浮かんだ一人を言い当てられたような気がして、由恵は激しく動揺した。


「だ、だからってなんで私が会長の第二ボタン貰う必要があるの?」


「だって、由恵先輩って生徒会長のこと嫌いじゃないですか」


「嫌いならいらないでしょ。第二ボタン」


 七瀬はチッチッチッとでも言いたそうに人差し指を振った。


「貰う理由は好意だけじゃないですよ。人の私物があれば、その人を呪うことだってできるんですから」


「発想がサイコパス!」


 由恵がすかさず突っこむと、隣であすかは声を上げて笑っている。

 その空気感があまりに和やかだったから、

 まだ終わらないで。

 ふと、そんなふうな思いがこみ上げる。

 けれどオレンジ色をした夕日は沈んで、遠くの空に紺色の闇が迫ってきていた。


「そろそろ帰ろうか」


 受験とか将来とか、考えなきゃいけないことは山ほどある。

 あるのだが──。

 とりあえず今日は、『恋100』を一冊だけ読んでみよう。


「読んだら感想伝えるね」


 由恵がそう言うと、


「はいっ。由恵先輩も、どこが好きだったか今度一緒に語りましょうね」


 と、可愛い後輩二人が笑うので、ますます後輩が可愛くなってしまう由恵なのであった。


 江渕由恵にとって夕焼けとは、

 青春の終わりをそっと予感させる、けれども終わらないでほしいと願わずにはいられない黄昏時である。


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