17 近藤七瀬にとって『恋100』とは
制服が夏服から冬服に替わり、西の空へ沈む夕日も少しずつせっかちになってきた。
長引いた終礼がやっと終わると、近藤七瀬はパタパタと、でも走らないように留意しながら、まるで競歩のように急いだ。
生活指導室の扉を開けたとき、すでに二人は談笑していた。由恵にからかわれていたのか、大和の眉間に皺が寄っている。
先輩を待たせるなんて、後輩としてあるまじき行為。
「お待たせしてすみませんでした!」
自分を殴ってやりたい衝動に駆られながら頭を下げると、二人は気にしていない様子で椅子を前に引いた。七瀬も慌てて席に着く。
江渕由恵、小野寺大和、近藤七瀬──それぞれの学年の風紀委員代表である。
議題は、文化祭について。
「えーと、文化祭当日の仕事の割り振りは、今渡した予定表の通りです」
由恵は面接官のように、大和と七瀬の向かいに座っている。
プリントにザっと目を通してから、すぐに大和が顔を上げた。
「三年生の仕事量、多くないですか?」
隣で七瀬もうなずいた。
「そうですよ。ただでさえ受験勉強で忙しいのに……それに、三年生には裏方でなく、最後の文化祭を楽しんでほしいです」
由恵は両手で頬杖をつき、にっこりと微笑んだ。
「最後だから、だよ」
そう言われて、大和と顔を見合わせた。予定表に視線を落とす由恵はどこか寂しそうだ。二年後にわたしもあんな表情をするのだろうか、と七瀬は少し切なくなる。
「まぁ確かに量は多いけど、楽な仕事ばっかりだし、やっぱり一緒に作り上げる方が楽しいと思うからさ」
「……委員長がそう言ってくれるなら、俺らは心強いですけど」
「指示出しとか、肝心なところは全面的に二年に任せてるからね。三年はあくまで補佐ってことで」
由恵が明るく笑うと、七瀬も握り拳をつくった。
「わたしたち一年も、全力でサポートします!」
連絡事項を伝え終わった由恵が「お先に~」と手をひらひらさせて帰っていった。彼女の明るさが消えた分だけ、部屋はしんと静まり返る。
大和と七瀬で簡単な打ち合わせを済ませると、窓の外はすっかりオレンジの夕焼けに染まっていた。
「じゃあ今度の全体会議での説明、近藤に任せてもいい?」
「はいっ」
尊敬している大和に頼られると、七瀬は小躍りしたくなるほど嬉しい。その喜びようは、飼い主が投げたボールを全力疾走で追いかける小型犬にどことなく似ている。
しかし、従順な七瀬でも、大和に対してのわずかな疑念が胸の奥でくすぶっている。
せっかく二人きりなのだし、訊いてみようか。横並びなら、訊ける気がする。
「大和先輩は……来年も風紀委員、やりますよね?」
大和が空気を読まず、思いきり真横を見たので、七瀬は小さな身体をさらに縮めてうつむいた。
「自分がやりたくても、選挙で選ばれるかはわからないけどね」
「大和先輩なら絶対当選します。でも、辞退はしないですよね?」
「期待してもらえるなら辞退はしたくないけどね」
「私はっ、大和先輩が風紀委員長になるなら、全力で支えます!」
驚いているのが伝わってくる張りつめた沈黙。そのあとで、大和はぷっと吹き出した。
「まさか近藤にそんなふうに言われると思わなかった。ありがとね」
笑ってくれた大和にホッとした七瀬だったが、訊きたいのはそれだけではない。
「……白井先輩も、でしょうか」
「あすか?」
大和は不思議そうに首をかしげている。
以下、七瀬の心情である。
どうしてあの人が風紀委員になれたのか、わたしにはとても理解できない。
風紀委員になりたての春、足首までのスカートを揺らしながら、「おざーす」とふざけた声を響かせていた白井先輩。
大和先輩のおかげか、それらはすでに直ったけれど、言われなきゃわからないような人に星豊学園の風紀委員が務まるわけがない。
等々。
七瀬は白井あすかを快く思っていなかった。
「白井先輩も、来年も風紀委員を続けるんでしょうか」
悶々としているうち、ふてくされたような顔をしていた七瀬。それに気づいた大和は子供を相手にするような口調で言った。
「近藤は、あすかが苦手なんだ?」
「苦手というか、認められないんです。風紀委員らしくないというか……」
「最初は俺もそう思ってた」
大和が机の上でトントンと書類を揃えた音は、どこか笑い声のような響きを含んで聞こえる。
「あすかは世間知らずなだけで、真面目でいい子だよ。でも、学年違うとあんまり関わりもないし、わかんないよな」
真面目。どこがだろう。
七瀬はにわかに信じられなかった。大和と別れ、教室に戻っても、校門を出たあとも、あすかの真面目な部分などひとつも浮かんでこなかった。
体育祭のときは真面目に走っていたかもしれないが、それで風紀委員の理想像に近づけるわけではない。
あすかの素養の問題だけなら、七瀬はここまで悩まなかった。
「大和先輩の隣は、あの人には相応しくない」
不意に独り言が声に出る。
かといって、七瀬は「自分なら」と思っているのでもない。
「もう考えるのやめよう……」
文化祭という一大イベントが迫っているというのに、来年のことまで悩んでいたら神経がもたない。七瀬は思考を切り替えて、下校途中で本屋へと向かった。
本を買い、自動ドアを抜けた七瀬はすっかりご機嫌になっていた。さっきまでの悩みなど忘れ去られている。
七瀬は参考書マニアだが、少女マンガも大好物だ。勉強は学生の本分で、胸キュンは別腹──ということらしい。
今日は愛読している少女マンガ『恋に届くまで100メートル』の発売日。
このマンガは、高校の陸上部で繰り広げられる恋の物語である。今、主人公の歩美は、同級生の男子部員と、他校のエースのあいだで揺れているのだ。
続きが気になる七瀬は、家に帰るまで待てず、公園のベンチでページをめくり始めた。
遊具もなく、犬の散歩くらいしか人が訪れないひっそりとした公園は、マンガを読むのに最適だった。
『俺が今度の大会で優勝したら、もう歩美にちょっかい出すのやめろよ!』
『受けて立ってやる。そのかわりオレが勝ったら歩美はオレのもんだ!』
歩美の気持ちなど全力で無視しながら火花を散らす二人のやりとりに七瀬がハラハラしているタイミングで、
「きみ、星豊の生徒だよね?」
と声がした。七瀬はマンガに夢中になっていたので、声をかけられたのが自分だと気づくのに時間がかかった。
目線を上げると、男子高校生が三人。隣の高校の制服だ。
制服の襟をだらしなく開け、ニヤニヤと笑うその顔に、風紀を乱す人間性がにじみ出ている。けれども他校の風紀に口を挟むわけにもいかない。七瀬は再び、歩美を巡る闘争の行く末を見守ろうとした。
したのだが──。
「ねぇねぇ、暇ならどっか出かけない? カラオケとかカフェとかさぁ。俺らおごるし」
今は歩美の恋路でそれどころではない。
と、七瀬は言い返したかったが、それで相手の神経を逆なでするのもよろしくないだろう。パタンと勢いよく本を閉じ、ベンチから腰を上げた。
「えぇー? どこ行くのー?」
「帰ります」
一言だけ言い捨てると、三人が七瀬の前に立ちはだかる。ひと気のなさがあだになった。
「いいじゃん、ちょっと遊ぶだけだって」
そのうちの一人が七瀬の手首をぐいっと引き寄せた。抱えていたマンガが落ち、側面のページが土に汚れる。
「やめてください」
大声を張り上げるつもりだったのに、喉から出たのは掠れて頼りない声。
こわい。
ぎゅっと目をつぶった。そのときだった。
「私の後輩に触らないで!」
突然、柔らかい感触が視界を覆う。抱きしめられている? 違う。守られている。
顔を上げると、七瀬は驚いた。
「白井先輩……?」
そこにいたのは、あすかだった。
けれど相手が女だからか、相手はニヤニヤを増しただけでひるむ様子はなかった。
獲物を狙う目つきをした三人は、背後から忍び寄る気配には気づいていない。
「もしもしー? 警察ですかー? 女子高生が乱暴されてますー」
わざとらしいほど大きな声。
スマホを耳にあてた千葉真琴が立っている。
絶体絶命の場面に現れた二人の姿は、正義のヒーローそのものだった。
「七瀬ちゃん、大丈夫?」
あすかの送迎車の後部座席で、七瀬は差し出されたペットボトルを受け取った。キャップをひねり、ゆっくり口をつける。ほんのり甘い、ホットのミルクティー。
あったかくて、ほっとする。
あすかは心配そうに七瀬の顔を覗きこんでいた。その奥でスマホをいじる真琴は涼しい顔をしている。通報はどうやらフリだったようだ。
「すみません。ご迷惑おかけして……」
「なに言ってるの。迷惑なんかじゃないよ。七瀬ちゃんに何もなくてよかった」
あすかは笑顔で言った。その屈託のなさが、七瀬には心苦しい。
ついさっきまで、先輩のことを悪く言っていたのに──。
不意に、七瀬の頭をあすかが撫でる。優しく、何度も。
そうされて初めて、七瀬は自分の頬を伝う涙に気がついた。
「こわかったよね。もう大丈夫だよ」
声にならず、ただ涙がこぼれる。
こわかった、それもある。だけど、本当は情けなかったのだ。あすかの内実など知りもしないのに、疑って、決めつけて、勝手に忌避した。
やっぱり大和先輩の言葉は正しい、いつだって。そう思いながら、七瀬は泣いた。
「家まで送っていただいて、本当にありがとうございました」
七瀬がぺこりと頭を下げると、あすかは一冊の本を差し出した。
「七瀬ちゃんも『恋100』読んでるの?」
手渡されたのは『恋に届くまで100メートル』、略して『恋100』。七瀬が公園で落としたマンガだった。
「えっ、まさか先輩も……⁉」
「そうそう。今日発売日だったでしょ?」
「わたしもこのマンガが一番好きです!」
七瀬はやや興奮気味に声を荒らげた。
「じゃあ、今度一緒に『恋100』について語ろうよ」
「ぜひ!」
威嚇ばかりしていた保護犬が心を許すよりもずっと早く、七瀬はあすかに懐いてしまった。
あすかと真琴を乗せた車が見えなくなったあとも、七瀬はしばらく立ち尽くしていた。なんだか胸がいっぱいで、歩美の恋路どころではなかったのだ。
受け取った本の違和感に気づいたのは、夕食を取り、お風呂も済ませて、やっと心も落ち着いて、続きを読もうとページに手をかけた瞬間だった。
「あれ?」
七瀬はハッとした。土で汚れたはずのページは、新品のように白く滑らかだった。
「もしかして、これって──」
指がかすかに震える。
『今日発売日だったでしょ?』あすかの声を反芻する。
これは、先輩が買ったほうの本だ。
つるりとした表紙をそっと撫でると、また泣きたい衝動が押し寄せる。悲しくて、ではなく、嬉しくて。
ひとを思いやる気持ち。
その優しさこそが、風紀委員に何よりも必要な資質。
あすかへの誤解が、すっとほどけていく。
「早くあすか先輩と『恋100』談義したいなぁ……」
明日が待ち遠しい。七瀬は胸を弾ませながら続きのページをめくった。
近藤七瀬にとって『恋100』とは、
白井あすかの思いやりの象徴である。




