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14 江渕由恵にとっていつもどおりとは

 まだ朝に染まったばかりの校舎。

 久しぶりに袖を通した制服。

 しばらく喧騒から遠ざかっていた廊下はしんとしている。

 夏休みが明けた始業式の朝、江渕(えぶち)由恵(ゆえ)は誰よりも早く教室に足を踏み入れた。

 きれいに整列している机をすり抜け、自分の席に荷物を置く。

 今日は風紀委員全員で挨拶運動を行う。

 委員長として、誰よりも先に校門に立っていなければならない。

 けれど、その使命感だけが由恵にとんでもない早起きをさせたわけでもない。

 教室の窓を開ける。朝の匂いがする。

 あと何日、こうして過ごせるのだろう。

 あと何回、風紀委員として校門に立てるのだろう。

 由恵は挨拶運動が好きだ。生徒が笑顔で校舎に向かうのを見ると、学園全体が幸せで満たされていく気がする。そして、その幸せをできるだけ守りたいと思う。

 実際の学園生活は楽しいことばかりじゃないのも理解している。

 みんなの様子をうかがい、異変を察知するのも由恵にとって重要な仕事だ。

 そんな風紀委員長としての日々も、残りわずか。

 三年の二学期ともなれば、否が応でも受験モードに突入してしまう。

 もちろん由恵だってそうだ。これからは何事においても受験が優先であるし、委員会を気にかける余裕なんてないかもしれない。

 心配なのは、受験に向けて風紀委員の役目を終えた自分が、定年退職したあとのサラリーマンのように、心にぽっかりと穴が開いてしまうのではないか、という問題だ。

 ため息をそっと外に逃がしてから窓を閉めると、うしろから聞き慣れた声で名前を呼ばれた。


「あれ、ぶっちー早いねぇ」


 軽薄な口調。軽率な笑顔。

 相も変わらず飄々とした空気感の古川(ふるかわ)(さく)が廊下から手を振っている。


「会長こそ、珍しく早いんじゃないですか?」


 威嚇の意味をこめた笑顔で答えると、距離が離れているせいか、朔にはまったく通じなかったようだ。

 そのまま朔は自分の教室ではなく、由恵のいる窓際までずんずんと進んできた。


「なっ、なに?」


 黒縁メガネのレンズ越しに見下ろされた由恵が動揺していると、朔は淡々と言った。


「今日、僕も一緒に挨拶運動やるから」


 由恵は一瞬、言葉を失った。


「……は? なんで? 風紀委員の仕事なんですけど」


「みんな新学期には生徒会長のご尊顔を拝みたいじゃないかなーと思ってさ」


「そんな人いないでしょ」


 ぼそっと呟いたが、声を大にして反論できないのが悔しいところだ。朔は外面の良さゆえに人気が高い。そうでなければ生徒会長になんて選ばれないのだから当然といえば当然だが……自覚もあって謙遜もしないその態度が、由恵にはどうにも鼻につく。

 朔は由恵がさっき閉めた窓を再び開けて、


「ぶっちーはさ、内部進学すんの?」


 と訊いた。視線は窓の下にあるグラウンドよりもずっと先を見つめているようだった。

 ふわっと風がカーテンを揺らしたとき、「あ、この人は遠くに行っちゃうのかもしれない」と、予感が走った。

 星豊学園では、ほとんどの生徒は内部進学をする。内部進学といっても、内申点や面接での受け答えはもちろん結果に影響するし、希望する学部によっては競争率が激しい。

 内部進学をしないのは、よほど成績の芳しくない生徒、もしくは、国公立を狙うような成績優秀な生徒。朔は間違いなく後者だ。

 その横顔にいつもの軽々しい雰囲気はない。


「古川は……外部を受けるんだ?」


「訊いてんのは僕なんだけど?」


 笑った朔に、威嚇する気力すら奪われた。なんだろう、この気持ちは。外を見ている朔に表情を悟られないよう、由恵は窓枠に背中を預けた。


「そっか。古川は頭いいもんね。そうだよね」


 朔に言っているのか、自分に言い聞かせているのか、わからない。風船がしぼんでいくみたいに、心が小さくなっていく。


「えっ、もしかして、ぶっちー……さみしいとか思ってくれてる?」


 試すような物言いなのに芯を食っている。


「まさか、清々するわよ」


 堪らずムキになって返した言葉に、いつもの熱量はない。


「……外部受験して、なにかやりたいことでもあるの?」


 しおらしい由恵を見下ろしたあと、朔はぷっと吹き出した。なにがおかしいのかわからず、訊かなければよかったと唇を尖らせる由恵。


「あっても、ぶっちーだけには言わねぇ」


 馬鹿にしているのか、信用されていないのか。腹が立った由恵は「あっそ」とそっけなく返した。


「だって、僕がもし弁護士になるって言ったら、ぶっちーは検察目指すとか言いだしそうだもん」


「はぁ⁉ 弁護士と検察って……そんなわけないでしょ! 古川が被告人で私が検察なら可能性あるかもしれないけどね!」


 のせられた由恵がいつもの調子を取り戻すと、朔は声を上げて笑っている。

 なにがそんなに楽しいのだろうか。怪訝な顔のまま、「そろそろ校門行こうよ」と朔に背中を向けると、ふいに由恵は肩を掴まれ、ぐいと後ろに引っ張られた。

 両肩に、朔の手だけの重量より、もっとずしりとした重さがのしかかって、手足の先まで支配されたように動けなくなる。

 その重さに呼吸まで制されたように息ができない。


「お前さ……」


 向かい合っている朔が神妙な顔で口を開くと、その声が聞き取りづらくて、由恵は自分の心音のせいだと気が付いた。


「肩肘張りすぎ。もっと楽に生きろよ」


 笑った朔はポンポンと由恵の肩を叩いた。

 一瞬ぽかんとして、じんわりと熱を持っていた両肩が急速に冷えていく。


「……っ余計なお世話!」


 朔の手を振り払うようにして、今度こそ踵を返して教室を抜け出すと、やっと深い呼吸が肺を満たしていく。

 以下、由恵の心情である。


 なんなの。わけがわからない。

 真剣な話をしてたかと思ったら、やっぱりいつもどおりちゃらんぽらんだし。

 それ以上にわからないのは──自分だ。

 なにを期待した?

 なにを待っていた?

 いや、忘れよう。なかったことにしよう。

 こんな不毛な感情、持っていたって仕方がない。


 等々。

 熱を失ったはずの両肩が、今は微弱な電流でも流されているみたいにジンジンする。

 それだって時間が経てばなかったことにできる。

 できるのだが──。

 朔が外部受験をすると打ち明けたとき、もう、この軽口の応酬もできなくなってしまうのか、と思った本音は消せそうにない。

 心と裏腹に、トントンと軽快なリズムで階段を下りると、朔の足音も輪唱のように遅れてトントンと響いてくる。

 革靴に履き替えているとき、下駄箱の向こうから姿の見えない朔の声だけが届いた。


「あと半年ちょっとなんだよなぁ。早ぇよな」


 なんのことかはすぐにわかった。きっと、三年生なら誰もが同じように感じている。


「そうだね」


 力のない返事は朔に聞こえなかったかもしれない。そのまま昇降口を降りて校門のほうへ歩いていくと、自転車に乗って登校してきた大和(やまと)がちょうどやって来た。


「おはようございます。委員長、早いですね」


「おーい、生徒会長を無視するなんていい度胸だな、大和。今日は僕も朝の挨拶一緒にやるから、ありがたく思えよ」


「うわ、最悪……」


 ぼやきながら自転車のペダルをグッと踏んだ大和のうしろ姿に、由恵は「急がなくていいからねー」と声を張った。誰よりも上下関係に敏感な大和なら、荷物を置いて校門にくるまで全力疾走して、朝から体力を使い果たすくらいはやりかねない。


「うん」


 ふいに、なにかを納得したような朔のうなずき。疑問符を宿したまま由恵が顔を上げると、朔の視線は駐輪場に消えた大和のほうへまっすぐに伸びている。


「やっぱり、いつもどおりのままが好きだ」


 その言葉に、由恵は自然に、深く頷いた。


「そうだね」


 残りの期間を、特別にしたいわけじゃない。哀愁を漂わせたいわけじゃない。

 いつもと同じ朝。

 いつもと同じおはよう。

 いつもと同じ笑顔。

『いつもどおり』を積み上げたいんだ。高く、高く。

 生徒会長としての朔が守りたいものも、きっと自分と同じかもしれない。

 由恵は片目を閉じて、眩しさに負けないように太陽を見上げた。


 江渕由恵にとっていつもどおりとは、

 守るべき日常、守りたい幸福である。

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