12 近藤七瀬にとって参考書とは
近藤七瀬──星豊学園の一年生。風紀委員である。
七瀬は規則正しいという言葉が好きだ。
夏休み開始早々にすべての課題を終わらせ、毎朝のラジオ体操を欠かさず、きちんと二学期に向けての予習を行い、残りの時間を趣味である読書に費やし、夜九時には就寝。
規則正しい自分は正しい。そう思いたいがために、七瀬は風紀委員になったのだ。
その日、七瀬は欲しい参考書のために、大きい本屋に遠出をした。レアな宝物を探す旅のようで心がはずむ。
「あったぁぁ」
求めていた参考書を前に目を輝かせる女子高生のほうがレアな気もするが、七瀬は周囲の視線など意に介さず、嬉々としてレジに向かった。会計の列に並び、参考書の表紙に視線を落とす。
ひとつ問題を解くたび、一歩前に進んだと実感が持てる。百問解けば百歩。進んだ分だけ、七瀬は自分を肯定できるのだ。
「お待ちのお客様、こちらのレジどうぞー」
レジの前まで進んで顔を上げると、カウンターの向こうにいる人物と目が合った。その瞬間、七瀬は指先が冷たくなるのを感じた。
バサッ。
思わず手にしていた参考書を落としてしまった。
「えっ、近藤?」
七瀬は絶句する。そこに立っていたのは大和だった。身につけているエプロンには、本屋の名前がしっかりプリントされている。
「や、大和先輩……」
七瀬は規律が好きだ。
絶対的に正しいもの。そして、絶対的な物差し。規律を守れる人間は、七瀬にとって信用に値する。
それゆえ、七瀬は規律の権化である由恵や大和のことを崇拝していた。
今この時、大和の姿を見た七瀬の動揺は、驚きや緊張からくるものではなかった。
失望である。
「な、なにやってるんですか! アルバイトなんて、校則を破るなんて……先輩には幻滅しましたっ!」
星豊学園では、校則によってアルバイトは禁止されている。
七瀬は裏切られた気持ちでいっぱいになっていた。
「誤解だ! 近藤!」
すぐにカウンターから出てきた大和が落ちている参考書拾い、丁寧に汚れを払う。
「ちょっと弁解させて。あと十分でバイト終わるから」
参考書を手渡された七瀬は、ひとまず頷いた。支払いを終え、本屋の前のガードレールに寄りかかる。
買った参考書をパラパラとめくってみても、もう胸が高鳴らない。
信じていたものが崩れてしまったような気がして、全部がただの思いこみだったんじゃないかと心が沈む。
もし、バイトのことを黙っていてくれと頼まれたら、わたしはどうするのだろう。七瀬は葛藤した。
答えは出せそうになかった。大和と校則違反は、ずっとずっと遠い場所に位置していると思っていたから、簡単には受け入れることができない。
考えがまとまらずに右往左往していると、そのうち大和がやってきた。エプロン姿から着替えた私服はよく言えばシンプル。悪く言えば無個性。
しかし、それがいいのだ。華美で着飾った大和なんて、七瀬は望んでいない。
「ごめん。待たせて」
そう言って、大和はペットボトルのサイダーを差し出した。
「炭酸、大丈夫だった?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
素直に受け取った七瀬の喉はカラカラに渇いていた。
いたのだが──。
なかなか口をつけられなかったのは、このサイダーは口止め料なのではないか、という疑念が拭えなかったからだ。
大和は七瀬の横に並んで、自分のサイダーを飲んだ。聞こえないはずの炭酸のシュワシュワはじける音が伝わってきそうな気がする。
「お仕事、お疲れさまでした」
七瀬は憮然として言った。
アルバイトを容認したわけじゃない。でも、勤労はわたしにとってまだ未知の領域で、そこで一人前に賃金を得てきた先輩は、間違いなく立派だ。労うことに理由はいらない。
「あのさ、バイトのことなんだけど……」
「言いません」
反射的に言葉を遮った七瀬の手のひらに、ぎゅっと爪が食いこんでいた。
「告げ口したりしないから、ちゃんとアルバイト辞めてください。そうしたら、なにもなかったことにできます。知らなかったことにできます」
必死な訴えに、大和は呆気にとられている。しかしすぐに吹きだして、「心配してくれてありがとう」と目を細めた。
七瀬は自分を恥じた。心配をしたわけではなく、勝手な理想を大和に押しつけただけなのに。
黙っていると、大和はうつむきながら言った。透明なサイダーが揺れている。
「アルバイトは、原則、禁止」
大和が意図的に区切った言葉を、七瀬も繰り返してみる。
「原則……」
「事情があれば、特例的にOKってことだよ」
「特例ってことは、許可は取ってるってことですよね⁉」
食い気味に尋ねた。七瀬にとって重要なのは『特例の理由』ではなく、『校則違反をしていないか否か』である。
「もちろん」
大和は柔らかく答え、「でも」と続けた。
「知ってる人は知ってるけど、風紀委員がバイトって、大々的に知れ渡るとよろしくないから、広めないでもらえると助かる」
じんわりと胸が熱くなる。七瀬は風紀委員としての大和を思い返していた。
校門で遅刻者を注意していた真剣な横顔。親身になって生徒たちの相談にのる優しい口調。
入学してまだ数か月。それでも信じるには充分だった。
先輩は嘘をつくような人じゃない。
七瀬はそう確信して、勢いよく立ち上がった。
「広めるわけないじゃないですか!」
七瀬の視界は滲んでいた。今度は晴れやかな意味で。
以下、七瀬の心情である。
大和先輩は裏切ってなんかなかった。
やっぱりこの人を信用し続けてきたわたしは間違ってなかった。
事情って、きっと経済的にってことだよね。
普段、先輩はそんな苦労なんて微塵も感じさせない。素晴らしい先輩だ。
やっぱり、規律を守る人間は尊い。
由恵先輩が卒業しても、大和先輩が風紀委員長に選ばれれば安泰間違いなしだ。
そんな二人に少しでも近づくために、二人のあとを継ぐものとして、わたしも日々邁進しなければ!
等々。
七瀬は謎の情熱を胸にたぎらせた。
そして、サイダーを半分ほど一気飲みした。
口止め料なんかじゃない。これは、先輩の誠実さだ、と七瀬は思った。
サイダーの炭酸は清涼感にあふれて、心を洗い流してくれる。
「先輩。バイトのこと言わないから、おすすめの参考書、あったら教えてくださいよ」
七瀬は大和に笑いかけた。再び本屋に向かう足どりは浮き立っている。
近藤七瀬にとって参考書とは、
正解を得るための道具であり、同時に、そこに載っていない正解の存在を教えてくれる、羅針盤のようなものである。




