10 千葉真琴にとって補習とは
千葉真琴の夏休みはまだ始まっていない。
うだるような暑さだというのに、送迎の車はなく、学園までの道を珍しく歩いている。
というのも、今日、学園に用があるのは真琴だけだ。
送迎は、令嬢であるあすかのためのもので、自分はその「ついで」に過ぎないのだと、流れる汗が教えてくる。余計なお世話だ。
不気味なほど静かな校舎で、蝉の声だけがここぞとばかりに騒がしい。
「あ、千葉さんって意外と頭悪かったんだ」
教室に足を踏み入れた瞬間、真琴は心に致命傷を負った。
扉の近くに座っていた丹羽敬助だった。
明るい口調で言われた悪口には、きっと誰も怒れない。丹羽とはそういう男だ。
「席、前から詰めて座れってさ。隣空いてるよ」
へらへら笑う丹羽が指を差す。
真琴は、教卓の真ん前よりマシか、と丹羽の隣の席に着いた。
机も椅子も同じものなのに、自分の教室じゃないというだけで居心地が悪い。窓からの景色の角度が少しだけ違って、なんだか違和感がある。
「千葉さんって、補習初めてでしょ?」
視界に入っていない丹羽が、真琴に声をかけた。
ぐ、と喉が鳴りそうになるのをこらえる。
「そうだけど」
屈辱。
いつも赤点ギリギリをなんとかキープしてきた真琴だったが、二年になると一夜漬けも通用しなくなった。受験を見据えてテストが難しくなった結果、ついに補習を受ける羽目になったのだ。
「オレ、補習については達人だから、追試の出そうな問題とか、大体わかるよ」
なんだ、補習の達人って。
学年最下位の丹羽に、追試でどこらへんが出る? なんて、聞けるわけがない。
真琴は適当に返事をした。
「千葉さん、あれから大和とはどうなの?」
「大和くん?」
真琴は小首をかしげた。
以前、大和の長所を丹羽に尋ねた。大和があすかに相応しいかを、知りたかったからだ。
そのとき、丹羽は、「大和が千葉さんに相応しい男だって証明する」というようなことを言っていた気がする。
「体育祭で、値千金の走りをしてたよね」
あの日のあすかの興奮といったら。
思い出しながら真琴が言うと、丹羽の声の音量が上がった。
「リレーすごかったよなぁ! 一位は逃しちゃったけど、バトン落としてなかったら、大和、あんな走り無理だったと思う」
「バトンを落としたから、早く走れたってこと?」
「絶対そう! バトンを落とした白井さんが責任を感じないように──って、あぁっ!」
突然、言葉を切った丹羽は、ばつの悪そうな顔をした。
真琴はわけがわからず、きょとんとする。
「いや、違う。自分がバトン落としたせいで一位になれないのが嫌だったんじゃないかな。白井さんのために走ったとか、そんなんじゃないよ、たぶん」
なにやら丹羽は慌てた様子である。
「ふうん」
よくわからないので、とりあえずの相槌を打つ。
真琴にとって重要なのは、頭脳明晰なことでも、運動神経が良いことでもない。その二つなら、大和は余裕でクリアしている。
じゃあ、自分は大和の何を持って、あすかに相応しいと認めるのだろう。
ぼんやりと考えていると、丹羽は話を切り替えた。
「てか、部活対抗リレーのオレの雄姿は見てくれた⁉」
雄姿? 真琴は記憶をさかのぼる。
そういえば、あすかたちのリレーのあとに、運動部の部活対抗リレーが確かにあった。
あったのだが──。
出番を終えたあすかに労いの言葉をかけに行ったら、盛り上がる風紀委員(主に由恵)や生徒会(主に朔)、興奮するあすかに巻きこまれ、次の種目を応援するどころではなかった。
しかし、「丹羽くんの走りすごかった~」と、どこぞの女子たちが噂していたのは知っている。
爛々と目を輝かせる丹羽。
その目の前で、見てない、と正直に言えるはずもない。
「うん。なんか、すごかった! さすが陸上部のエースなだけあるよね!」
白々しく上ずった声に、真琴自身も気がついていなかった。
もちろん、さらに気づくはずもない丹羽は「えへへ」などと笑っている。
「来年のリレーで陸上部が優勝すれば三連覇なんだ。マジ気合入るわ」
もう来年のことを考えているのか、と真琴は呆れた。三連覇以外の未来は見えていないような、その横顔を盗み見る。
「丹羽くんって、落ち込んだり悩んだりしなさそうだね」
「うっわ。その言葉に傷つくんですけど」
と、全く傷なんてついていないような笑顔を浮かべる丹羽。
「嬉しいことがあれば喜ぶし、嫌なことがあれば落ちこむし、みんな一緒でしょ」
そう言われ、真琴は黙った。
以下、真琴の心情である。
みんな一緒。そうだろうか。
だったらあたしは、どうしてこんなに悩んでいるんだろう。
世間知らずなあすかを見守るために、同じ高校に入学した。無理をして、学力に見合わない、この高校に入学した。
だけど、そうするべきじゃなかったのかもしれない。
こうして補習を受ける羽目になったのも、身の丈に合わない選択をしているからじゃないか。
このあいだの体育祭だって、あすかはもうすっかり風紀委員のメンバーと打ち解けていた。一年のころからは考えられないほど、よく笑うようになった。
あたしって、もう、あすかにとって必要がない存在なんじゃないの?
等々。
子離れできない親の気持ちでいる真琴なのであった。
そんな真琴に、丹羽は言う。
「喜ぶか、落ちこむか、二択なら絶対喜ぶのが多い方がいいじゃん」
「そんなの、自分でどうにかできないこともあるでしょ」
「だから、結果も大事だけど、自分がどうしたいかが大切だって、俺なんかは思うんだよね」
「自分がどうしたいか……」
「結果がダメで落ちこんでも、自分が決めたことなら、気持ちの落としどころが見つかるっしょ?」
真琴は思った。
この人は、勉強は苦手でも生きることが上手なひとだ、と。
「あとは、頭からっぽにして走るに限る」
「からっぽ」
丹羽の言葉をそのままなぞる。
「千葉さんも今度一緒に走る?」
「走らない」
即答されて、丹羽は少し残念そうにした。
けれど、その表情はすぐにパッと明るくなる。
「じゃあ追試も終わったらさ、頭空っぽにして、夏休み満喫しようよ! 大和と白井さんも誘ってさ!」
丹羽は、まるで寿命の長い電球みたいだ。
「うーん、それもいいかもね」
あすかのためじゃない、自分のための補習。
罰ゲームにしか思えなかった時間が、少しだけ、ほんの少しだけ、真琴にとって特別な時間に思えた。
千葉真琴にとって補習とは、
なぜか丹羽の隣に座り続けた五日間であり、ほろ苦い、でもなんとなく忘れられない、夏の一ページである。




