1 小野寺大和にとって秘密とは
星豊学園──都内有数の進学校として知られるこの高校には、選ばれし生徒のみが所属を許される組織が、二つ存在する。
ひとつは言うまでもなく、生徒会である。
星豊学園では、他薦、それも複数人からの後援がなければ、候補者になることすら叶わない。
すなわち、生徒会役員選挙で当選するのは、厚い人望と人徳を兼ね備えていると認められた者だけなのである。
そして、
生徒会と同様の選考基準を持ち、同じく高い格式を誇るもうひとつの組織。
それが──風紀委員である。
「おはようございまーす」
朝陽が照らす校門に立ち、風紀委員の務めである挨拶運動に励む男子生徒がいる。
小野寺大和である。
「大和―っ! あとで相談したいことあるから、早く教室戻ってきてくれよー」
「小野寺先輩と挨拶できる朝って、それだけで気分あがるよねぇ」
「あなたたちが生徒の模範でいてくれるから、先生たちも助かるわ」
等々。
この学園における風紀委員への信頼は、絶大を通り越して圧倒的、絶対的な空前絶後なのである。
そのなかでも小野寺大和は、一年生の頃から風紀委員に選出され、今年が二年目。次期、風紀委員長と噂されるほどに品行方正であり、成績も入学時から学年トップを維持し続けている。
世間一般のモブとはかけ離れた存在の、いわゆる『とてつもなくいけ好かない男』なのだ。
──なのだが。
本人はそれを鼻にかけることもなく、驕ることもなく、ひたすらに謙虚である。結果的に、大和が周囲の敬意と憧れを集めるのは、もはや必然であり、自然の摂理とも言えるだろう。
そんな大和が頭を悩ませている人物がいる。
それは不登校者でも、問題児でもない。
だが、大和にとっては、それよりも厄介な存在かもしれなかった。
白井あすか──同じ風紀委員に所属している同級生だ。
大和は悩みの種をチラリと窺う。
「ざーす」
何語か判然としないが、「ざーすざーす」と繰り返しながら、あすかは堂々と仁王立ちをしている。
「あの、白井さん」
「え?」
肩にかかる髪を揺らし、彼女はおもむろに振り返った。
「挨拶、もう少しハッキリ発音したほうがいいかも」
「あ、そう? わかった」
やんわり指摘すると、あすかは素直に頷いた。
「なぁ丹羽」
教室に戻った大和が話しかけると、クラスメイトの丹羽敬助はきょとんとした様子で顔を上げた。
「『おざーす』って何語?」
「日本語」
「どこが⁉」
「『おはようございます』の略だろ」
「あぁ……なるほど……?」
わかったようでわからない。
「ハッキリ発音したほうがいい」と促した結果、「ざーす」は「おざーす」に変化した。
けれど、この学園において挨拶を略す風紀委員なんていないし、そんな不届きを見過ごすなんて、あってはならない。
次はどうやって注意すれば伝わるんだろう。
大和が考え込んでいると、丹羽が興味津々に訊いた。
「『おざーす』って挨拶する奴を風紀委員で引っ立てて、更生させようって話?」
「いや、白井さんが」
「白井さんが言ってんの⁉」
丹羽は机をバンバン叩いて笑いだした。
「笑いすぎ。こっちは真剣に悩んでるのに」
「だって、『極道の娘』って言われてる人が『おざーす』って……」
通学は黒塗りの車での送り迎え。
人とは群れず、常に隣にいるのは同級生に扮した付き人。
昭和の不良少女を彷彿とさせる、足首まで隠す丈の長いスカート。
真偽のほどは定かではないが、『極道の娘』と噂されるには充分すぎるほど、あすかはそれらしい要素を持ち合わせ、それゆえに近寄りがたく、謎で満ちていた。
もちろん、大和もその噂を鵜呑みにしているわけではない。
しかし、問題は、
「俺が悩んでるのは、どうして白井さんが、風紀委員に選出されたんだろうってことだよ」
「レジスタンスっしょ」
きっぱりと丹羽は言った。
「レジスタンス?」
「今は多様性の時代だろ? 学力至上主義の学校なら、頭髪や服装なんかの規則は自主性に任せているところが多い。そういう意味じゃ、うちの高校は時代遅れなんだろ」
「要するに、校則を壊したい派閥がいるってこと?」
「そういう連中が一定数いるっていうのは確かだと思うし、風紀委員を内部から崩すために、レジスタンスが刺客を送ってきたとしてもおかしくないんじゃねぇ?」
「刺客……」
……でも、刺客が「おざーす」を広めてなんになるんだ?
大和はため息をついた。
「制服を廃止させろ、とかそのうち言いだすかもな。オレは服考えるの面倒だから、そうなったら毎日ジャージで登校するわ……まぁ、大和に速攻で注意されそうだけどな」
丹羽の言葉は冗談か本気かわからないが、制服の廃止なんて悪夢のようだ。大和は眉間に皺を寄せる。
「多様性、ねぇ……」
放課後、大和は風紀委員の活動拠点である生活指導室に入り、後ろ手に扉を閉めた。
活動日ではないため、電気も点いていない部屋は薄暗く、静けさだけが張りつめている。
大和はその場にへたりこみ、膝を抱えた。
膝部分の布地が、じわじわと濡れていく。
驚くべきことに、大和は号泣していた。
以下、大和の心情である。
多様性ってなんだよ。そんなの、個性があるやつの主張だろ。個性もない量産型の人間は、人知れずに埋もれていくだけじゃないか。
青春は、キラキラ輝く星夜ばかりじゃない。
大して光るものがない輝きの弱い星は、暗闇に紛れて、だれの目にも留まらない。
そうなれば、青春なんて、ただ真っ暗な夜でしかない。
必死に学年トップの成績を取ったって、体裁を保つために風紀委員になったって、俺自身にはなんの価値もないのに──多様性が認められたら、風紀委員なんて必要とされなくなったら、俺はどうやってこの場所で生きていけばいいんだよ。
等々。
大和は、一見、華やかな人生を歩んでいると思われている。
──いるのだが。
謙虚さは自己肯定感の低さ。
驕らないのは、立場にすがっているから。
小野寺大和という人間は、その実、劣等感に支配されながら生きている。
だから時折、こうして一人で泣いている。
それはだれにも知られてはならない、大和の『最大の弱み』であった。
しかし、
そのとき、だれもいないと思っていた部屋の奥で、衣擦れの音がした。
「うーん……人が寝てるのにぃ……」
仕切りの向こうからの声に、大和は肩を震わせた。人の気配がないからと、奥のソファまで確認しなかったことをすぐに後悔した。
「もう、うるさいなぁ」
顔を拭う暇もなかった。
涙越しに目が合ったのは──白井あすかだった。
「えっ、小野寺くん?」
「あ、うん。寝てるの邪魔してごめん」
気まずさに押し黙ると、あすかも黙った。
沈黙に耐え兼ねた大和は、大きく息を吸い込んだ。
「あの、白井さん、申し訳ないんだけど、他の人に言わないでもらえるかな」
「え?」
「俺が、その……泣いてたってこと」
「あ、う、うん」
なぜかあすかはたどたどしく返事をした。
それから、
「言わない。絶対言わないから」
そう告げると、大和が何か言うよりも早く、逃げるようにあすかは部屋を飛び出した。
大和は、足音が遠ざかるのを確認し、再び膝を抱えて視界を塞いだ。
終わった……もう、終わりだ。あの白井あすかに弱みを握られるなんて──。
「おざーす」は蔓延の一途をたどり、俺は彼女に泣いていたことをネタに脅され、風紀委員の役目を全うできず、生徒からも教師からも失望の眼差しを向けられ、卒業まで肩身の狭い思いをすることになるだろう。
劣等感というのは、必要以上にネガティブな思考を脳に強いる。大和のそれは、後ろ向きや悲観的という言葉では足らず、出口のない絶望そのものだった。
「明日、どんな顔で白井さんに会えばいいんだよ……」
大和は余計に泣きたくなってきた。
小野寺大和にとって秘密とは、
劣等感と泣き顔を隠すための、鉄壁の仮面である。