悪役令嬢マニュアル発動
王立魔法学院の庭園に面した白亜のテラスは、午後の陽光を受けてきらきらと輝いていた。
遠くでは噴水が涼やかな音を立て、頭上の木々では小鳥がさえずりを響かせる。
壁際のパラソルの下、人気のない一角に、銀髪の令嬢が優雅に腰掛けている。
テーブルには湯気の立つ紅茶と、香り高いスコーン。
通りすがりの生徒たちはちらりと視線を向けるが、その距離感は自然と開く。
エレオノーラは、ここが人目を避けつつも全体を見渡せる「観察の特等席」であることを、88回目の経験で熟知していた。
入学式の喧騒を背に、エレオノーラはテラスの椅子に腰を下ろした。
その動作一つ取っても、まるで絵画の中から抜け出してきたような優雅さだ。
そっと懐に手を入れ、革張りの小さな手帳を取り出す。
金の箔押しで刻まれたタイトル――『悪役令嬢マニュアル・第88版』。
長い転生人生に寄り添ってきた相棒であり、表紙の角は使い込まれて擦れ、手に吸いつくように馴染んでいる。
(さて……今世のシナリオ、まずは整理しましょう)
銀の睫毛の奥で、サファイアブルーの瞳が静かに輝く。
エレオノーラは、香り立つ紅茶を片手に優雅にカップを傾け、もう片方の手でペンを走らせた。
革張りの手帳のページに、細やかな筆跡が次々と並んでいく。
第1週: ヒロインとの初接触 → 来週予定のお茶会で遭遇。
第3週: 小悪事発動 → ハンカチ踏み・筆記用具隠し・軽い嫌味。
最終週: 断罪式 → 王子と周囲から非難、涙の笑顔で退場。
ページを見下ろし、満足げにうなずく。
(うん、これぞクラシック悪役令嬢ルート。伝統と格式の香りがするわ)
サファイアの瞳がわずかに細まり、扇子の影でくすりと笑みがこぼれた。
背後から、控えめな足音が近づく。
黒髪をきっちりまとめ、眼鏡の奥で鋭い光を宿したメイド――モードが、銀のトレイを音もなくテーブルに置いた。
香り立つ新しい紅茶の湯気とともに、彼女は小声で問う。
「お嬢様、今世は……どのくらい派手に行きます?」
エレオノーラはペンを止め、ほんの数秒だけ考えるふりをする。
そして、サファイアの瞳にきらめきを宿し、唇の端をゆっくりと吊り上げた。
「――今回は、クラシック路線よ。扇子パタパタ、高笑い、そして涙の去り際。
……伝統芸は、時に一番効くものよ」
エレオノーラは椅子の背にもたれ、指先で扇子を軽く弾きながら宣言した。
「今回はクラシック路線よ。
扇子パタパタ、高笑い、そして――涙の去り際で幕を閉じるわ」
モードは無言で小さく頷き、手元のポットから紅茶を静かに注ぎ足す。
その一連の所作には、長年の経験で培われた落ち着きと、
「はいはい、またいつものパターンですね」という暗黙の了解が、
湯気のようにふわりと漂っていた。
エレオノーラは「悪役令嬢マニュアル・第88版」のページをぱたんと閉じた。
視線を遠くへ向ければ、庭園の小道を茶髪の少女――今世のヒロイン――が、
小鳥のような足取りで歩いていくのが見える。
(……でも、さっきの王子の反応が想定外。
少し、アドリブも用意しておきましょうか)
午後の風がテラスを抜け、手帳の栞をひらりとめくった。
まるで次のページが、彼女の運命を書き換えるかのように。