88回目の目覚め
――暗い。静かすぎる。
その中で、ふわりと鼻先をくすぐるのは……薔薇の香り。
ゆっくりと光が差し込み、ぼやけた視界が形を結ぶ。
そこにあったのは、金糸のレースがたっぷりあしらわれた豪華な天蓋ベッドの天井。
(あー……はいはい、またこのパターンね。天蓋+薔薇の香り=貴族令嬢ルート確定)
まぶたを瞬かせ、眠気を払いながら記憶の引き出しを探る。
(で……今回は何回目だったかしら……ああ、そうそう。八十八回目、悪役令嬢としてお目覚めです)
ため息は出ない。ただ、もう慣れた。
バンッ!
突然、扉が勢いよく開く音が部屋に響いた。
「お嬢様! お加減は!? お顔色が……!」
長年仕えてきたであろう老紳士の執事が、血相を変えて飛び込んでくる。
その後ろからは、真新しいエプロン姿の侍女二人が慌てて駆け寄った。
枕から顔だけ出した私は、ゆっくりと瞬きをして、落ち着き払った声で告げる。
「ええ、大丈夫。――転生酔いは、もう慣れていますわ」
ぴたり、と時が止まる。
侍女たちが同時に首をかしげ、「……てんせい?」と小声で繰り返す。
だが、私は気にも留めない。八十八回目ともなれば、この程度の反応は想定内だ。
(はいはい、初回説明の顔、いただきました)
執事と侍女の慌てふためく声を背中で聞き流しながら、私はふらりとベッドを降りた。
部屋の奥、壁一面を覆うほどの大きな姿見の前に立つ。
映ったのは、銀糸を束ねたような長髪。
光を受けてきらめくサファイアブルーの瞳は、夜明け前の湖のように澄んでいる。
ドレスは……ふむ、レースと宝石をこれでもかと散りばめた、まさに“高級感MAX”仕様。
(ふむ……今回は〈高級感重視〉のデザインね。自己評価――Aランク、合格)
口元に自然と微笑みが浮かぶ。
これなら、入学初日の“悪役令嬢としての顔見せ”にも不足はない。
と視線を横にやると、ベッドサイドテーブルに金文字で装丁された小冊子が置かれていた。
表紙には、やたら荘厳な書体でこう記されている。
『転生の心得:悪役令嬢88期用 執筆・女神フェリシア』
(……はい出ました、女神様の事前マニュアル)
ページを開く前に、私はため息ひとつ。
「チュートリアルは――飛ばします」
バリッ、と豪快に破り、そのままゴミ箱へ投下。
(どうせ『断罪に備えましょう』とか『王子ルートに注意』でしょ? 既読八十八回目です)
こうして、今回も“自己流”で物語は始まる。
執事モードの老紳士が、恐る恐る口を開いた。
「お嬢様……本日は学院の入学式ですが、その……ご準備は?」
私はにやりと唇を吊り上げる。
「もちろん。――悪役令嬢としての第一印象は、入学式が勝負ですから」
その言葉に、背後の侍女たちがこっそり視線を交わす。
(……何の話?)(悪役……令嬢?)
部屋に漂うのは、薔薇の香りと、説明不足のまま暴走を始めるお嬢様のやる気だった。