第8話 リアルバース②
ワンルーム、キッチン込みで七畳のアパートの一室。特徴と呼べるものは、壁一面に黒いスポンジ状の吸音材が貼り付けられていること。
シャワーを浴び、部屋着に着替えた蒼慈はローテーブルの前で正座し、丼に山と盛ったご飯を箸で丁寧に口に運んでいた。
ふと目を上げ、正面の壁を見る。そこは――異様だった。その一部分だけ吸音材が貼られておらず、代わりにA4の紙が何枚も継ぎ接ぎされ、一つの大きな画像として貼り付けられていたのであった。
3Dで表現された長身美形の侍――それは大星誠志郎の公式画像を等身大に拡大したものだった。
蒼慈は口中の米を飲み込み、据えた目で粗い画像を見つめながら呟き始めた。
「大星誠志郎……いつかの時代からバーチャルの世界に転移してきたサムライ。ステラバースの美しさと楽しさに心打たれ、新星組として仮想世界を守る決心をする。いつも笑顔を絶やさない温和な性格だが、剣を振るえば鬼の様。……好物は白米」
I‘sプロの公式サイトに記載されているプロフィール。それをご飯と一緒に摂取するかのように、蒼慈は低い声で唱えた。執念じみた意志を、胸の内に滾らせながら。
食事後はローテーブルにノートPCを置き、配信のための作業をする。
まずはサムネイルづくり。画像編集ソフトを開き、大星誠志郎の3Dモデルにポーズを取らせ、『市中見廻り雑談』や『鍛錬雑談』などのタイトルをつける。作業中、別ウィンドウにはステラバース視聴アプリの画面が表示され、さらに傍らに置いてあるスマホにも別のチャンネルの配信が流れている。Vライバーの配信を流しながら作業をするのが、蒼慈の日課なのだった。
PC画面の片隅で流れているのは、
『大会練習 【劫魔シンゲン】』
というシンプルなタイトルの配信画面。同接数4,8万人、チャンネル登録者数279万人。角の生えた少年魔王といった風情のVライバー『劫魔シンゲン』が、ステラバースでFPSゲームをプレイしている様子が映っている。
『はあ、はあ……だぁーもう! チェイスしてんじゃねーよ撃ち合えコラ! さっき食ったカレー出すぞ! いいのかコラ! リンゴジュースも上がってきてんぞ!』
戦場を再現したバーチャル空間で、小柄な体躯にアサルトライフルを抱え、長すぎるマントを揺らしながら懸命に走る劫魔シンゲン。素早い動きで銃弾の雨を掻い潜り、冴えわたるエイムで連続キルを決め、ハイトーンな声で雄叫びを上げる。
『おっしゃい! なあ下僕、今の見た!? オレすげくね!?』
一方、テーブル上のスマホの方からは、儚げながらも身体の芯を震わせるような歌声が響いている。
『歌枠【セレナディア・クィンテッサ】 十二期生ちゃんのライブも観てね』
こちらは同接数3,2万人。登録者数は438万人。舞踏会場のような華やかな大ホールで一人、スタンドマイクを手にバラードを歌い上げる、ロイヤルブルーのドレスを着た黒髪の女性。
セレナディア・クィンテッサは曲終わりをとびきりのロングトーンで締めると、艶めく赤い両眼を半分だけ開き、気だるげな声で、
『嗚呼……やっぱ良い曲。じゃ次、リクエストして。……え? もう六時間経ってる? いいじゃん歌わせてよー。明日世界が終わってもいいのー? ほらリクエストしてよー』
ステラバースで活動するVライバーの配信を流しながら、蒼慈は作業を続けた。出来上がったサムネイルを事務所のサーバーに送り、チャットアプリで業務連絡を二、三通やり取り。それらを済ませて息を吐くと、既に日付は変わって深夜一時になっていた。
立ち上がってストレッチをしつつ明日、いや今日の予定を考える。学校の宿題は早朝のロードワーク後にやるしかない。締め切りが近いシチュエーションボイス用の台本は授業中にこっそり作ろう……。学校が終わったら剣術道場に直行して……六時までに事務所に行って……
就寝の準備を進めるごとに頭の重さが増していく。部屋の電気を消し、それと同時に身体のエネルギーも切れたかのように、蒼慈はベッドに倒れ込んだ。設置してあるアームスタンドにスマホを挟んで固定し、仰向けになった状態で画面が見えるように位置を調整する。画面を操作してステラバース視聴アプリを起動。選んで再生したのは、十年以上も更新のないチャンネルの、古いアーカイブ動画。
『ライブ目前! みんなで会場の下見に行こう!』
というタイトルが躍るサムネイル画面が切り替わり、平原と夜空だけのシンプルな仮想空間を背景に、金色の髪に星型のアクセサリーを輝かせる女性Vライバーがカメラを調整している姿が正面から映る。
『あっ、みんな見えてる? 聞こえてる? こんスター! 星の彼方にGo Live! 星空アイリスでーす!』
一点の曇りもない笑顔が、ベッドに仰向けに寝ている蒼慈の両眼に反射している。
『早速だけど! みんな! 今日は何の日でしょうか! ……あ、お誕生日おめでとー! キミの素敵な日、お祝いできてうれしい! 他にはー? ……はいキミ偉い! そうです! 私の五周年記念&ステラバース初の単独ライブ『Go Live!』開催一週間前です!』
星空アイリスは表情も身振りも賑やかに動かしながら、背後にある建築物を指し示した。
『というわけでー? じゃじゃん! ライブステージが完成しましたー! ヒューヒュー! すっごいでしょ! ねえ見て! スタッフさん達天才でしょ!』
どう見ても有り合わせのプリセットを置いただけの簡素な屋外ステージの前で、アイリスは心から嬉しそうに身体を躍らせながら言う。
『はぁー、楽しみだけど緊張するなぁ。ねぇみんな、コール&レスポンス動画見てくれた? ……完璧? ありがとー! まだ自信ない? 大丈夫! 見てくれるだけで私はすっごく嬉しいよ! ……今から練習? それすっごくいい! そうしよっか! あ、でも曲は流せないから……そだ! 『Go Live』のとこだけみんなでコールしよ! いーい? いくよ?』
蒼慈は目を閉じた。星空アイリスを想う時、その笑顔だけが脳裏に浮かんでくるようにと。この配信の一週間後、彼女の身に訪れる悪夢のような結末を、思い起こさずに済むようにと。
『さーん、にーい、いーち……!』
心を波立たせるその声を断ち切るように、スマホのサイドボタンを押して画面を闇に戻す。
疲労によって意識はすぐさま暗闇の中に溶けてゆく。
願わくば、夢にてもなお仮想の世界にありますように。