第7話 リアルバース①
暗くなった視界の中で深呼吸。
いつもそうだが、あちらの世界との繋がりを断った途端、匂いという感覚が堰を切ったように押し寄せてくるのは一体なぜなのだろう。
スタジオ特有の人工に満ちた香りと、着ているモーションキャプチャースーツのゴムの匂い、そしてそこに混じる、自分の汗の匂い。
頭を覆うヘッドセットを両手で掴み、持ち上げる。視界に蛍光灯の明かりが弾け、ここがさっきまで居た世界ではないことを否応なく知覚する。いや、さっきどころかずっと、一秒たりともこの世界から足を離してなどはいないのだが。
「大星さん上がりでーす……」
ラフな格好のスタッフが近づいて来てヘッドセットをぞんざいに受け取り、囚人のように腰と固定柱を結んでいるチェーンを一本ずつ外す。
畳二畳分ほどのトレッドミルを歩いて降り、マット素材の床に降り立つ。スーツのあちこちに付いているマーカーを外し、まとめてスタッフの手へ。そして右腰のベルトに差している模擬刀を外し、これもスタッフに手渡す。トラッキング用センサーに囲まれた空間を出て、壁際のデスクへ向かう。
能面のような顔でPCに取り付いている男性スタッフは、「おかれーっす……」と、ほとんど唸り声と大差のない挨拶を発した後、思い出したようにデスクの引き出しを開け、
「あーそうだ大星君……またちょっと契約内容変わったからさ……これ、サインしてね。今ね」
二枚重ねの紙を取り出し、差し出してきた。
『業務委託契約更新書』という大文字の下方に、『弊社の経営状況の悪化に伴い、誠に不本意ながら下記の通り収益分配率を変更――』とまで読めたところで、男性スタッフは風のように一枚目を剥ぎ取って引き出しに戻した。
「……はい、ここね。ここサインしてね。もちろん本名ね」
二枚目には『上記内容を確認し、承諾します』の文言と署名欄だけがあった。
差し出されたボールペンと共に紙を受け取り、迷わず欄に名前を書いた。
隠岐多蒼慈――と。
「あーそんな名前だったんだ……ありがとね。じゃおつかれー」
男性スタッフはそう言って書類を引ったくり、もう用はないとばかりにPC作業に戻った。
あちらの世界では大星誠志郎、こちらの世界では隠岐多蒼慈という名の人間は、
「……お疲れ様です」
笑顔と共にそう言い残し、出口のドアに向かって歩き出した。
だがそこで、
「やあやあ待たせたな皆の衆! 平松高盛、いま戦陣より帰還したぞ!」
スタジオの重いドアを軽々と押し開け、大仰な名乗りと共に現れたのはスーツジャケット姿の壮年の男。鋭く跳ね上がった眉とぎらつく両眼から、豪放な雰囲気を放っている大男だ。
スタジオ内のスタッフ達が多少は畏まった態度で口々に挨拶を返す。
男は軽く見渡してから目当ての人間を見つけると、ずんずんと足を踏み鳴らして歩み寄り、
「おお! 久しぶりだな蒼慈君!」
隠岐多蒼慈の肩をゴム製スーツの上から強く叩いて言った。
「……二日前にお会いしましたよ、社長」
I’sプロダクション社長、平松高盛は「わっはっは、そうだったか」と豪快に笑い飛ばした後、急に神妙な顔つきになり、
「蒼慈君、先月の『侍メンタル育成アプリ』の件はくれぐれも済まなかった。せっかく良いPR配信をしてくれたのに、結局無報酬になってしまったな」
蒼慈が何か言葉を返す間もなく、平松は声を大にして、
「だがどうか、先方の企業を恨まないでやってくれ。あそこの社長とは知己の間柄なのだ。奴も私と同じように、資金難に苦しんでいる。そういう時こそ助けてやるのが義の道ではないか」
周囲のスタッフの何人かが溜め息を吐いたような気がした。
蒼慈は変わらず笑みを湛えながら、
「……僕はトロール退治ができれば、それで満足ですので」
平松は骨の音が鳴るほど強く頷き、
「その義心、まこと天晴だ! やはり君に大星誠志郎の魂を任せたのは正解だった! その調子でコスモグループさんからの委託業務を全うし、我が社の名声を高めてくれ! 高校生男子の、若く熱い情熱でな!」
蒼慈はただ、微笑を以て応えた。
―――― ◇ ――――
狭苦しい控室。
蒼慈は隙間なく詰め込まれたロッカーの一つに鍵を差し込み、扉を開けた。
中にはハンガーに掛けられた学校の制服と学生鞄。モーションキャプチャースーツを脱ごうとチャックに手を掛けたところで、ロッカー扉の内側にある鏡が目に入り、隠岐多蒼慈という人間の姿を見てしまう。
「…………」
全く、違う。
あっちはバーチャルだからという言い訳を越えるレベルで、全てが、違う。
まるでプレス機で圧縮されたように、体型が寸詰まっている。太く短い手足、ドラム缶のような胴、頭までがどことなく平たい。その頭をもっさりとしたくせ毛が覆い、どろんとした三白眼に潰れた鼻、小さなへの字口。
ためしに微笑んでみる。……キモい顔に薄気味悪さが加わった。
蒼慈は鏡から目を逸らし、急いで着替えに取り掛かった。
―――― ◇ ――――
二十二時三十分。事務所のあるビルを出て街中へ降り立つ。
十月の残暑が身体に粘り付き、建物の照明、車のヘッドライト、信号機、看板のネオンなど、俗世に塗れた雑多な光が仮想世界の余韻を奪ってゆく。蒼慈の視線はごく自然に上を向いた。
都心から湧き出る薄黄色のガスに覆われた夜空には、一粒の星光さえ見えない。それでもその向こうを見通すように目を凝らしながら、蒼慈はおもむろに拳を突き上げ、そっと呟いた。
「……今日も、守ったよ」
通行人が気味悪げな視線を寄越してくる。
蒼慈は拳を降ろし、駅へ向かって俯き加減に歩いた。
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