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第二輪 黒髪の男

楽しそうにおしゃべりをしながら歩く、鮮やかな色の着物を着た若い娘たち。




店を見て回る、物めずらしい洋装をした男女。






そうした身なりの人々が食事をしにきたり、買い物をしにきたりと、町は多くの人でにぎわっていた。






ここは、全国で一番の規模を誇る繁華街『神無町(かんなまち)』。




ここであれば、求めているものはなんでもそろうと言われるほど、大通りには数多くの店が軒を連ねている。






そんなにぎやかな大通りを1本挟んだ裏手の通り――。




そこに、せつなはいた。






通りが1本違うだけで、まばらになる人通り。






「さあさあ、今日もいい娘を用意してますぜ〜」






人が前を通るたびに、やる気のない呼び込みをする人買の男。






せつなは、両手は体の前で縛られ、足には重りをつけられて、地面の上に直に正座させられて売られていた。




長時間同じ格好のため小石が膝にめり込み、脚は傷だらけ。






腰には縄がくくりつけられていて、その縄は両隣にいる同じように縛られている同世代の娘たちの腰に巻きつけられている。




1人だけで逃げ出すことができないように、全員まとめて1本の縄で繋がれているのだ。






「ほほ〜う。この娘、気に入ったぞ」




「まいど!」






買われると、腰につけられた縄を切られ、ようやくこの人買に売られている娘たちの輪から抜け出すことができる。




しかし、人買から買い主に引き取られるというだけで、縄を切られたからといって自由など存在しない。






買われても、その先は地獄だ。






たとえそうだったとしても、せつなはもう今の状況を受け入れていた。




自分が売られた金が螢子の顔の治療費の足しになったのなら、こうなることも運命だったのだと。






「よってらっしゃい、見てらっしゃい〜」






やる気のない接客にやる気のない呼び込みだが、不思議なことに自然と客はやってきた。




まるで、ここで若い娘が売られていることを知っているのかのように。






次々と買われていく娘たち。






男に買われ泣き崩れる娘もいれば、こんな見せ物にされるよりはましだと思って、自ら買われるように仕向ける娘など様々だった。






ただ、毎日ここには10人ほどの娘が並べられ、ほとんどの娘はその日のうちに買われていく。




売れ残るのは、2〜3人程度だ。






そのわすがな売れ残りの中に、せつなは毎日残っていた。






せつなよりもあとからきた娘たちが先に買われていく。




悪趣味な中年の男たちに買われて泣き叫ぶ娘たちを見て、今日こそは自分の番だとせつなは毎日自分に言い聞かせて恐怖に駆られていた。






「…またお前だけかよ」






夕暮れ時。




人通りもほとんどなくなり、店じまいをしようと売上金を数えていた男がせつなに目を向ける。






早ければ売られたその日に買われることもめずらしくはないが、せつなが売りに出されてから、かれこれ一月(ひとつき)近くがたっていた。






「まあ仕方ねぇよな。首筋にアザのある傷物の女なんて、だれが好き好んで買うんだか」






せつなの顎を持ち上げ首をひねらせると、そこには沈丁花に似たアザが着物の襟から見え隠れしていた。






不気味と言われ続けてきたこんなアザ、できることならだれにも見られたくもない。




しかし、せつなには男の手を振り払う力も残されていなかった。






人買の手に渡ったせつなの扱いは人間以外。




まともな食事も与えてもらえず、日々痩せ細るばかり。






つまり、売りに出されてすぐのころが最もまともな身なりをして買い手がつきやすいのだ。




それを逃せば日に日に容姿が衰えていき、さらに買い手がつかなくなる。






今のせつなは頬がこけ、髪はぐしゃぐしゃに乱れ、見るからに不健康そのもの。




首のアザがなくとも、こんな娘をだれが大金をはたいてまで買いたいと思うだろうか。






買い手がつかなければ、人買のもとでこうして飼い殺しにされる。






せつなが売られ始めたころ、せつなの隣に縛られていた娘が突然意識を失って倒れたことがあった。




その娘は今のせつなのような汚い身なりをしていて、かれこれ一月以上買い手がつかないと人買の男がぼやいていたのを聞いたことがあった。






倒れた娘はもう1人の人買の男に連れていかれたきり、二度と戻ってくることはなかった。






死んでしまったのか。




はたまた、どこかへ捨てられたのか。






娘の処遇は、同じように売られているせつなたちにはだれもわからない。






このままであれば、きっと自分もあの娘と同じ運命をたどる。




せつなは、自分の死さえも覚悟していた。






「…ケッ!クスリとも笑わねぇ。愛想のねぇ女だな」






男に振り払われたせつなは地面に倒れる。






こんな人間以下の扱いを受けるくらいなら、死んだほうがましかもしれない。






力なく倒れたままのせつなは、起き上がる気力も体力もなかった。




すると、そのとき――。






「その娘を買いたいのだが」






そんな声が聞こえてせつながゆっくりと顔を上げると、そこには沈みゆく西日を背中に受ける長身の男が立っていた。






しわひとつない立派な深藍色(ふかあいいろ)の縦縞模様の着物姿。




西日が反射し、キラリと怪しく光りを放つ銀色の輪っかの耳飾り。




まるで闇に染められたかのような黒い髪。




その前髪から見え隠れするのは、紫水晶のように淡く輝く瞳。




せつなを見下ろす無の表情。






二十歳そこそこの男だが、その男が現れたとたん空気が変わったような気がして、せつなは息を呑んだ。






「…おっ、若旦那!いらっしゃい」






基本的に中年男性の客層が多い中、若い男がきたことに人買の男も予想外だったようだ。




愛想よくするも、内心はこの若僧は金を持っているのかと半信半疑だった。






「この娘はいくらだ?」






黒髪男のその問いに、人買の男は一瞬黙った。




そのわずかな間に、次に発する言葉を考えた。






中には、冷やかし同然の金のない若僧もやってくる。




この黒髪男も見た目は小金持ちそうだが、本心では娘を買うつもりはないと思われる。






なぜなら、無表情で無愛想ではあるが、目鼻立ちがはっきりとしていて顔は驚くほど整っている。




勝手に女のほうから寄ってくるであろうこんな顔の男が、女に飢えているわけがない。






大金をはたいてでも若い女を買いたいというのは、それでしか女と関わりを持つことができない男だけだから。






つまり、こいつはただの冷やかし。






黒髪男を見て瞬時にそう判断した人買の男は、いやらしく口角を上げて言った。






「この娘は20万円になりやす」






その言葉に耳を疑ったせつなが、驚いて人買の男に目を向ける。






売られている娘たちの値段は30万円。




せつなも初めはその値がつけられていたが、売れ残るうちに日に日に安くなり、数日前から10万円にまで値下げされていた。




それでも買われることはなかった。






そもそも、公務員の初任給は20万円とされているこの時代。




若者にも決して娘を買えない額ではないが、1ヶ月分の給料以上の金を払ってまで買う馬鹿はそうはいない。






人買の男は、せつなが1人だけ売れ残っているのをいいことに、せつな本来の下げた値は伏せ、小金持ちくらいなら買えるか買えないかの絶妙な金額を提示してきたのだ。






これでせつなが買われなければ、それはそれで構わない。




いずれどこかで安値で買い手がつくだろうから。






冷やかしを追っ払うくらいなら、これくらいの金額で十分逃げていくことだろう。






それよりも、もし黒髪男がこの値段で買うというのなら、もともとせつなに付けていた10万円よりも倍の値段で売れるわけで、人買の儲けにつながる。






まあ、物事はそれほどうまく話は進まないが。




と考えていた人買の男だったが――。






「そうか、20万か。思ったよりも安いな」






なんと黒髪男は着物の懐から紙幣の束を取り出した。




それを見て、目を丸くする人買の男。






この男――。




どうやらただの冷やかしでも、ただの小金持ちでもなさそうだ。






これまで幾人もの娘を売り続けてきた人買の男は、黒髪男の様子を見てさらにずる賢いことが頭に浮かんだ。






「すいませんね〜、若旦那。ちとオレの記憶違いで、この娘は35万円になりやす」






10万円で売られていたはずが35万円にまで釣り上げられ、突然の値上げに耳を疑うせつな。






「ずいぶんと高くなったようだが」




「そうなんですよ。ウチの自慢の娘でして、他の娘よりも高値で売らしてもらってやす」






黒髪男が20万円払ってでもせつなを買おうとした態度につけこみ、とんでもない金額を提示した人買の男。




せつなの首筋にアザがある――いわゆる“傷物”ということを隠して、人買の男は巧みに商売文句を並べる。






いくら紙幣の束を持っていたとはいえ、こんな若い男がこの場で一括で35万円も支払えるわけがない。






人買の男はそのことを頭に置きつつ、黒髪男が渋るようであればここから少しずつ値下げしていく考えだった。






20万円くらいなら支払えるということは、さっきの話でわかった。




あとは、いかにそれよりも高くで売るか。






人買の男の悪知恵が働く。






「…35万か」




「どうしやすかい?」






自分の思惑に黒髪男を誘おうとする人買の男は、必死に顔がニヤけそうになるのを堪える。




一番価値のないと思っていたせつなが、おそらく20万円以上で売れるという予想。






思わぬ利益に頬がゆるまないわけがない。






黒髪男は、35万円では首を縦に振らない。




やはり高すぎたか。






「それじゃあ、特別に今回は若旦那に免じて――」






値下げして、反応を見てみるか。




そう思いながら、人買の男が値下げ額を口にしようとした――そのとき。






「それでは、この娘はいただくことにしよう」






突然、人買の男の目の前にヒラヒラと降ってくる紙の雨。




それは、黒髪男が手のひらからまき散らした金だった。






地面に散らばった紙幣をざっと見るだけでも、35万円以上は裕に超えている。






「釣りならいらない」






度を超えた額に驚かされたのは人買の男のほうだった。




まさか適当に釣り上げた馬鹿げた金額で、こんな売れ残りの娘が売れるとは。






「なんだ?これでは不満か?」






ぽかんとして地面に散らばる金を眺めていた人買の男に黒髪男が問いかける。




その声にはっとした人買の男は、首をブンブンと横に振る。






「と…とんでもございやせん!」






人買の男は、ここでようやく悟った。






この黒髪男は、そのへんにいるようなただの小金持ちではない。




本物の大金持ちだと。






せつなの腰に縛られていた縄と、足につけられていた重りが外される。






「俺といっしょにきてもらおうか」






黒髪男のどこか冷たく見える寒色の瞳がせつなを捉える。




せつなはなにも言葉を発することができなかった。






あれだけ覚悟していたというのに、見知らぬ男についに買われてしまったということに状況が把握できていなかったから。






「こい、娘」






冷たい男の言葉に体を強張らせ、なんとか震える足で立ち上がろうとするせつな。




しかし、長時間同じ体勢にさせられていたということと栄養失調とで足に力が入らなかったせつなは、そのまま前かがみに倒れようとする。






そこへすかさず、その体を抱き起こすようにして、自分の腕の中へせつなを包み込む黒髪男。




せつなははっとして顔を上げると、黒髪男の瞳の中に怯える自分の顔が映っていた。






「…あ、あの…わたし…」






――殺される。






いきなり、買い主様の言うことを聞けなかったのだから。






黒髪男の腕から滑り落ちるようにして、地面にへたり込むせつな。




そのせつなを見下ろすようにして立つ黒髪男は、着物の懐に手を入れる。






そして、その手に握られていたものを見てせつなは息を呑んだ。






それは、黒い鞘に収められた短刀。






持ち替えると、黒髪男はゆっくりと鞘から刀を引き抜いた。






黒髪男に買われた身であるせつなは、この男になにをされようと逆らうことなどできない。




それが、人買に売られた者の宿命。






「こい」と言われて、ついていけなかった。




体を抱きかかえられ、むしろ黒髪男の手を煩わせてしまった。






相手によっては、たったそれだけのことで殺されてもおかしくはない。




現に、黒髪男はこうして銀色に鈍く光る短刀を握っている。






人買の男はというと、売れた娘に未練などあるわけがなく、好きにやってくれとばかりに知らんふり。






『死』という言葉が頭の中をよぎり、ものすごい速さで暴れる心臓。




今までに感じたことのない恐怖で、せつなは声を上げることもできなかった。






「動くな。すぐに終わる。おとなしくしていろ」






ゆっくりとせつなに歩み寄る黒髪男。




腰が抜けたせつなは、言われなくとも動くことすらできない。






短刀の切っ先がせつなに向けられる。




せつなはギュッと目をつむり、息を止めた。






――短刀がなにかを切り裂くかすかな音。






せつながおそるおそる目を開けると、短刀を鞘にしまう黒髪男の姿があった。




キョトンとしていると、せつなはあることに気がつく。






なんと、せつなの両手が自由になっていたのだ。




その下には、さっきまで手首を縛っていた縄が落ちていた。






人買に売られてから、ずっと拘束されていた手首。




そこには、血がにじむくらいの縄の跡が痛々しく残っていた。






「あとで処置をする。それまで我慢できるか?」






黒髪男はしゃがみ込むと、せつなの傷だらけの手首にやさしく触れた。




せつなは戸惑いつつも、黒髪男の問いにぎこちなくうなずく。






そんな2人のやり取りを見ていた人買の男が、頬杖をつきつまらなさそうな表情で黒髪男に話しかける。






「それにしても若旦那、そんな小汚い娘をどうするつもりで?」






さっきまではせつなのことを『ウチの自慢の娘』といっておきながら、売れてしまえばどうでもよい。




『小汚い』というのは、見たままの姿だから。






すると、黒髪男はせつなの体に腕をまわし、そのまま高く抱きかかえた。






「こいつは、『京極屋(きょうごくや)』で面倒を見ることにした」




「…京極屋?『京極屋』っていたら、麗蝶街(れいちょうがい)で最も格式高いといわれてる遊郭の名じゃねぇか」




「ほう。知っているのか」




「そりゃ、男で知らねぇやつなんかいねぇよ。死ぬまでに一度はそこの女と戯れてみたいっていうのが、すべての男の夢だろうからな」






そこまで言った人買の男が、一瞬はっとして目を見開ける。




そして、ゆっくりと黒髪男を見上げた。






「…なるほど。どうりで金回りがいいと思ったぜ。あんた…京極屋の楼主(ろうしゅ)だな?」




「“次期”…楼主だ」




「それじゃあ、その娘もいずれは京極屋で?」






そう尋ねられた黒髪男だったが、せつなを抱きかかえたまま人買の男に背中を向けた。






「それではたしかにこの娘、もらい受けたぞ」






黒髪男はそれだけ言うと、その場を立ち去った。






せつなの耳に響く黒髪男の足音は、まるで地獄へのカウントダウンのように聞こえた。




これから先、どんな生活が待っているのか。






もしかしたら、人買に売られていたときのほうがましということもありえる。






しかし、歩く体力さえもないせつなは、足に重りがつけられていなくても、この黒髪男から逃げ出すことなどできなかった。




ただ、抱えられるまま連れていかれるだけ。






さっきの人買の男との会話からすると、この黒髪男はどうやら『京極屋』という高級遊郭の次期楼主。






『それじゃあ、その娘もいずれは京極屋で?』






人買の男のあの質問に対してはなにも答えなかった。






しかし、その答えは決まっている。






遊郭で働かせる新しい娘を買いに、ここにやってきたに違いない。




つまり、いずれ自分も遊女(ゆうじょ)として働く運命になる。






「どうした?寒いか?」






せつなに声をかける黒髪男。






抱きかかえるせつなの体は、カタカタと小刻みに震えていた。






日が落ちて、気温がぐっと下がった。




ボロボロで薄っぺらい着物姿のせつなには、たしかに肌寒く感じた。






しかし、震えているのは決して寒いというわけではない。






黒髪男に連れていかれるこの先の未来が遊女だという勝手な想像に、不安の波に飲み込まれそうになり恐怖で体が震えてしまった。






そんなせつなを黒髪男はいったん下ろすと、せつなの体に自分の羽織を被せた。






「これで少しは凌げる。それに、こんな着物姿では周りから好奇の目で見られるだろう。しばらくはこうしていろ」






羽織からは黒髪男のぬくもりが伝わってきて、冷えきったせつなの体が温められる。






温かいなにかに触れたのは久しぶりだった。






たったそれだけのことですら、今のせつなにとっては身に染みるほどうれしいはずなのに――。




せつなは素直に喜べなかった。






やさしく装っているのも今だけ。




遊郭に着けば、きっと休みなく働かされることだろう。






こんな男…信じてはいけない。






警戒するも、すでに疲労困憊だったせつなは羽織の温かさにも包まれ、知らぬ間に黒髪男に抱えられたまま眠っていた。








心地よい鳥のさえずりが聞こえ、ゆっくりと目を覚ますせつな。






「…ここは……」






見覚えのない天井。




よく知りもしない部屋。






その中央に敷かれた布団の上にせつなはいた。






久しぶりの柔らかな布団の感触に、できることならこのままずっと包まれていたかったが、すぐに飛び起きる。




ここがどこかもわからない以上、安心して寝ていることなんてできない。






それにボロボロの着物だったはずが、なぜか今は寝間着(ねまき)に着替えさせられている。






状況が把握できないせつな。






すると、障子の向こう側から足音が聞こえた。




障子に人影が映り、せつなはとっさに身構える。






「起きていたのか」






部屋に入ってきたのは、せつなを買ったあの黒髪男。




手には、湯呑みがのせられたお盆を持っている。






「ここはどこだと言いたそうな顔をしているな。俺の家だ。麗蝶街の中にある」




「…麗蝶街」






『麗蝶街』という名前は、教養のないせつなでも耳にしたことがあった。






この国で最も栄え、人々が賑わう町『神無町』の一画に存在する『麗蝶街』。




ここは、数多くの遊郭が軒を連ねる国内最大の花街。






周囲を塀に囲まれ、唯一の出入口は『大門(おおもん)』と呼ばれる見張りが駐在している門のみ。






そして、その大門をくぐり麗蝶街を行き来することができるのは男だけ。






大門から自由に外に出られる女は、遊郭を生業(なりわい)としている楼主の家族と限られている。




遊郭で働く遊女たちは、麗蝶街から出ることは許されない。






つまりここは、(かご)の中。




それぞれ理由は違えど、遊女として女が大門をくぐって麗蝶街に足を踏み入れたら最後、二度と自由に大空を羽ばたくことはできない。






「それにしても、体調はどうだ?昨夜からずっと眠ったままだったから心配したぞ」






黒髪男のその言葉に、せつなは驚いて目を丸くする。






昨日、黒髪男に買われたときは夕方だったはずが、障子を通して部屋に差し込むのは白くて明るい太陽の光。




どうやらせつなは半日眠り続け、翌日の朝になっていた。






「…わたし、そんなに…」




「ほう。少しは話せるのか」






黒髪男がまじまじと見つめてくるものだから、せつなは反射的に身を引く。




怯える小動物のようなせつなの動きに、黒髪男はクスリと笑う。






「安心しろ。べつにお前を取って食おうなんて思っていない」






黒髪男はそう言うが、せつなにとってはすでにここが『麗蝶街』の中だという時点で不安しかない。






「着替えを用意していたが、なかなか起きなかったからその寝間着は使用人の女に着替えさせた」






それを聞いて、とっさに手で左の首筋のアザを隠すせつな。




着替えをさせられたということは、おそらくこのアザのことも知られていることだろう。






せっかく買った女が傷物だと知り、黒髪男はなにを思っているだろうか。




そう思ったら、せつなは顔を上げることができなかった。






そんなせつなの布団のそばに、あぐらをかいて座る黒髪男。






「俺の名前は、京極天珠(てんじゅ)。この家の隣にある『京極屋』という遊郭を営んでいる」






――『遊郭』。






それを聞いて、せつなは思い出す。




そういえば昨日、人買の男ともそんな話のやり取りがあったこと。






『こいつは、『京極屋』で面倒を見ることにした』




『…京極屋?『京極屋』っていたら、麗蝶街で最も格式高いといわれてる遊郭の名じゃねぇか』






麗蝶街には数え切れないほどの遊郭があるが、その中で最も風格があるのが、この『京極屋』。




一般の男では、その顔すら拝むことができないような最高級の遊女が多数在籍している。






せつなは、覚悟を決めるしかなかった。






連れてこられたのは、決して外へ出ることは許されない籠の中――『麗蝶街』。




そして、京極屋の次期楼主に買われたということは、ここで遊女として働くしかないのだと。






「お前、名前は?」






その問いにせつなは抵抗の意思として、少しだけく唇を噛んだ。






「…言わなければなりませんか?」






反抗的なせつなの目に、天珠は口角を上げる。






「見かけによらず、生意気な娘だ。しかし、勘違いするな。お前の買い主は、この俺だ。いやなら、今すぐお前を買った35万円を支払え。そうすれば、自由にしてやる」






天珠にそう吐き捨てられ、なにも言い返すことができないせつな。




せつなには、そんな大金を返せるわけがなかった。






天珠もそれをわかっていて、そのような無理難題を突きつけてくる。






悔しいが、主従関係は明らかだった。






「…せつな…です」






せつなは消え入るような声で名前を発した。






「そうか。せつなか」






天珠はせつなの名前を聞くと、満足そうに微笑む。






天珠の笑みは穏やかで、つい気を許してしまいそうになる。




しかし、せつなは隙を見せてはいけないと気を引き締める。






「あの…聞いてもよろしいでしょうか」




「なんだ?」




「どうして…わたしを買われたのでしょか。わたしの首筋にはアザがあります。…これまで周りは、このアザを見ては気味悪がってきました。こんな傷物のわたしが、遊女として働けるとは思えません…」






なにも、見逃してほしいと言っているわけではなかった。






あの人買のところでなくても、若い娘を売っている場所はいくらでもある。




初めはアザのことを知らなかったとしても、容姿が重要な遊女なら、なぜ自分のような小汚い娘を大金を出してまで買ったのだろうか。






ただ純粋な疑問だった。






すると、天珠の右手がそっとせつなの左の首筋に触れる。




そこには、せつなが隠したがっている沈丁花の形をしたアザがある。






「俺は、この花に引き寄せられた」






せつなの寝間着の襟から少しだけのぞかせるアザを、なぜか天珠は愛おしそうに見つめていた。




しかし、愛おしい中にもどこか切なげな表情をしている。






「目覚めてさっそくだが、これを飲め」






ふと畳の上に置いていたお盆に目を移した天珠が、そこにのせていた湯呑みを手に取りせつなに手渡す。




手渡された湯込みの中には、なにやら緑色に淀んだ怪しげな液体が入っている。






天珠が部屋に入ってきたときに、湯呑みをのせたお盆を片手に持っていたことに気にはなっていたせつなだが、見るからに不審なその飲み物に表情をゆがませる。






「これは……」




「薬だ。食前に飲むといい」




「…薬」






薬と言うが、毒かもしれない。




できることなら口にはしたくないが、主人の命令は絶対。






ごくりとつばを呑み、そっと湯呑みに口をつけた。




覚悟して飲んだせつなだったが、見かけほど苦くはないことに驚いた。






「これを飲まなかったらどうしたらいいものかと思ったが、ひとまずよかった」






飲み干して空になった湯呑みを取り上げた天珠は、やさしくせつなの頭をなでる。




まるで子どもをあやすように。






そのあと、薬を下げにいった天珠が再び現れると、温かい食事が置かれたお膳を手にしていた。






「朝食はここに置いておくが、1人で食べられるか」




「は…はい」




「それでは、また食べ終わるころに見にくる」






それだけいうと、天珠は障子を閉めて出ていった。






人買のところにいるよりもひどい扱いを受けるかもしれないと思っていたが、予想外の対応に拍子抜けするせつな。




さっきの薬で油断させて、この朝食には今度こそ毒が盛られている可能性だってある。






しかし、空腹のせつなの鼻には炊きたての白米の香りは拷問だった。




腹の虫が鳴き、口の中でよだれがあふれる。






おそるおそる箸に手を伸ばすと、茶碗を持ち、震える手でご飯を口へと運ぶ。






その瞬間、せつなは涙があふれた。




こんなにおいしいお米を食べたのは久々だったから。






毒が入っているかもしれない。




そんなことなどもうどうでもよくなって、焼き魚と煮物にも箸を伸ばした。






「見事きれいに平らげたな。うまかったか?」






しばらくして、部屋にやってきた天珠にそう笑われてしまい、赤くなった顔を隠すようにして背中を向けるせつな。






目の前にいるのは、人をまるで物のように金で買うような男。




決して馴れ合ってはいけない。






時折天珠のやさしさを垣間見るも、せつなは簡単に心を開かないようにと自分に言い聞かせた。






「せつな、こっちへこい」






座布団の上にあぐらをかいた天珠がせつなを呼ぶ。




見ると、天珠の前に置いてある座布団へ座るようにと促している。






「…はい」






小声で返事をすると、せつなはその座布団へと座った。






「どうだ?少しは体が楽になったか?」






天珠がせつなの顔色をうかがうように、顔をのぞき込む。






楽になったもなにも、ただ朝食を食べただけ。




そんなすぐによくなるわけがない。






と思っていたせつなだったが――。






「あれ…。そう言われてみれば…」




「薬の効果があったみたいだな。さっき飲ませたのは、疲労に効く薬だ」






人買の手に渡ってから、まともに横になって寝かしてもらえず、飢えにも耐えてきたせつなの体はずいぶんと疲弊していた。






毎日気だるく、起き上がるのがやっとだった。






それがまるで、全身にのしかかっていた重しから解放されたかのように体が軽く感じたのだった。






「…ですが、こんなすぐに効く薬があるわけ――」




「残念ながらあるんだな。俺が調合する薬は最強だからな」






自慢げに笑みを浮かべる天珠。






しかし、せつなにとってはどこか胡散臭く見えて。




自分よりも少し年上というだけの男が、調合ができるほど薬に詳しいとも思えない。






世間では、一時的に疲れを忘れて気分を高揚させる妙な薬もあると聞く。




それを飲まされたのではと疑ったせつなだったが、ふと自分の腕が視界に入り驚いた。






人買に縛られていて、血がにじむほど縄の跡がくっきりと残っていた両手首。




その傷が跡形もなく消えていたのだった。






手首だけではない、足首にあった同じような傷までもなくなっていたのだ。






「これは…」




「言っただろう?俺が調合する薬は最強だと」






せつなは、まるで狐につままれたような感覚だった。




疲労が回復したように感じたのは気のせいだったとしても、さっきまであった傷が治っているのは説明がつかない。






「これは…、なにかの妖術ですか…?」






天珠が人間ではなく、妖怪というのなら納得がいく。




なぜならこんなこと、普通の人間が出来うる範疇(はんちゅう)を超えている。






険しい顔をしてぽかんと口を開けるせつなに、天珠はクスクスと笑う。






「妖術か。おもしろいことを言う」




「でなければ、説明が――」




「そうだな。種明かしをすれば、これは妖術でなく“異能”と呼ばれる力だ」




「“異能”…!?」






目を丸くして驚くせつな。




異能や異能者の存在は当然知っていたが、実際に異能者を前にするのは初めてだった。






異能者といえば、白髪の老人や宝石が連なる長い首飾りをつけた怪しげな女などと勝手に想像していたせつな。




だからこそ、どこにでもいるような普通の男が異能者だとはにわかに信じられなかった。






「そんなに驚くことか?」




「は…はい。これまで、異能者の方を見たことがなかったので…」






せつながそう言うと、なぜか天珠はキョトンした顔を見せた。




そして、思いもよらない発言をする。






「なにを言っている。お前も異能者だろう」






一瞬、自分のこととは思えなかったせつな。




しかし、この場にいるのは天珠とせつなのみ。






つまり、天珠が話しかけている相手はせつなしかいない。






――ということは。






「…え。……え?わたしが…異能者……?」






ゆっくりと自分の顔を指さすせつな。




その仕草に、天珠はうなずく。






「やはり、気づいていなかったか」






突拍子もない天珠の言葉に、せつなは頭が混乱した。






異能者といえば、帝からもその力を称えられるほどの名誉ある存在。




異能で財を成した異能者とその家族の暮らしは、実に裕福なものだと耳にしたことがある。






せつなのように、毎日生きることに精一杯な暮らしなどとは程遠い。






「わたしが異能者だなんて、そんなはずありません…!」




「異能者の俺が言うんだ。見間違えるわけないだろ」




「…ですが、これまで異能のような力など――」




「力なら、すでに発動している。今このときも、ずっと…な」






今現在、せつなの異能が発動しているというが、せつなにはまったく変化は見られなかった。






手のひらと甲を交互に見返してみたり、体に目を向けて探してみるも、せつなは自分の異能を見つけることができない。




そんなせつなに、天珠が歩み寄る。






「異能の核となるのは、…これだ」






そう言って、せつなの左の首筋をなぞる天珠。




そこにあるのは、沈丁花の形をしたアザ。






「沈丁花という花は知っているな?沈丁花の香りは、遠くにまで漂うと言われている。…そして、このアザも同じ。“あるもの”にとっては、たまらなく求めたくなるほどの甘い香りを遠くまで発している」




「香り…ですか?」






せつなはアザに手のひらをこすりつけて匂ってみるも、なんの香りもしない。






「人が嗅いでわかるものか。その香りは、“あるもの”にしかわからない」




「その…、“あるもの”というのは…」




「“鬼”だ」






まさかとは思ったが、想定していたとおりの言葉が出てきて、せつなは今までのことを振り返った。






幼いころは、こんなアザなどなかった。




ちょうどせつなの両親が亡くなったころに、せつなの左の首筋にアザが浮かび始めた。






それからだ。




たびたび鬼を見かけるようになったのは。






親戚の家を転々とするも、行くところ行くところに下級鬼が顔を出した。




まるで、せつなを狙っているかのように。






そして、螢子の事件が起きた。




螢子は、せつなの香りに誘われてやってきた鬼たちによって、せつなに間違われて襲われたのだった。






「異能も、様々な種類があるからな。自覚がなくても、なんら不思議ではない」






そう語りかける天珠だったが、当の本人であるせつなは上の空だった。






すると突然、首筋のアザを掻きむしり始める。




爪を立て、何度も何度も。






「どうした、せつな…!?」




「こんなアザ…!このアザさえなければ…!!」






――螢子があんなことに巻き込まれることもなかった。






みみず腫れができ、血の跡がにじんでもせつなは掻きむしり続けた。






「そのくらいにしておけ」






我を忘れて自らを傷つけるせつなの手首を天珠がつかむ。






「…離してくださいっ。できるこのなら、こんなアザ…切り刻んでしまいたいくらい」




「アザがあるのは首筋だぞ。そんなことをしたら、お前が死んでしまう」




「…いいのです。どうせ、すでに死んだようなこの命なんて――」






すると、紫水晶のような色をした透き通った天珠の瞳がせつなを捉える。






「お前を買った時点で、お前の命は俺のもの。


勝手に死ぬことは許さない」






出会ったときはどこかおそろしく感じたその瞳だったが、今は思わず見入ってしまうほどに美しい。






「そんなに嫌いか?そのアザが」






天珠の問いに、こくんとうなずくせつな。






「まあ…そうだろうな。好き好んで、鬼を呼び寄せたいやつなどいない」






唇を噛みしめるせつなの頭を天珠はやさしくなでる。






「だから、俺がここにいる。俺なら、そのアザを消すことができる」






その言葉に、はっとして顔を上げるせつな。






「この…アザを…?」




「ああ。俺の薬でな」






天珠は、先程のものとは色の違う湯呑みを手にする。




おそらく、その中にも薬が入っているのだろう。






「異能には、異能でしか対抗できない。そのアザも同じ。この異能薬(いのうやく)で、お前のアザの異能を打ち消すことができる」






湯呑みの中には、透明な液体が入っている。




さっきの緑に淀んだ薬と違って、実に飲みやすそうだ。






それをせつなに手渡すのかと思いきや、なぜかせつなの目の前でその異能薬を飲み干す天珠。




空になった湯呑みを畳の上へ置いた――そのとき。






天珠はせつなに口づけを交わした。






突然のことで、なにが起こったのか理解できず、口づけをされたまま固まるせつな。




しかし、すぐに我に返ったせつなは力いっぱい天珠を押しのける。






「…なっ、なにをするのですか…!」






寝間着の袖で口元を拭うせつな。




男と口づけを交わしたのはもちろん初めてのことで、恥ずかしくもあり、同時に怒りも込み上げ、様々な感情が入り乱れていた。






だが、目の前にいる天珠は妙に冷静。






「説明もなしにすまなかった。しかし、先に説明をしたらきっと拒んだだろうから、ああするしかなかった」




「…おっしゃっている意味がわかりません!なぜ、あのようなことをっ…」




「“薬”だ。口づけで、お前に異能薬を飲ませた」




「…薬?」






たしかに、口移しでなにかが流れ込んできた感覚はあった。




反射的に思わずせつなは飲み込んでしまったが。






「く…薬くらい、自分で飲めます…!!」




「それがそうもいかないものでな。それに、なるべく早く飲ませておきたかった」




「それは…一体どういう――」




「まあ、安静にしていろ。初めて使った薬だから、お前の体調と副作用の有無も確認したい。効果がなければ作り直す必要もあるからな。また様子を見にくる」






威嚇するようにせつながキッと睨みつけるも、天珠にはまったく効いていなかった。




まるで子猫なりの精一杯の威嚇とでも思っているのか、せつなの頭を軽くぽんぽんとなでると天珠は部屋から出ていった。






障子から天珠の影が消え、張りつめていた緊張の糸がゆるんで脱力するせつな。






疲労やケガを一瞬にして治す薬を飲ませ、食事を与え、あれくらいで手なづけたとでも思ったのだろうか。




アザを消す異能薬だと()かし、突然口づけをしてきた天珠。






あれが…本来の目的だったのか。






信用していたはずではないのに、なぜか裏切られた気分に苛まれるせつな。




天珠に対して、さらなる不信感しか生まれなかった。






『まあ、安静にしていろ。初めて使った薬だから、お前の体調と副作用の有無も確認したい。効果がなければ作り直す必要もあるからな。また様子を見にくる』






せつなのことを気遣っているとも捉えられる言葉だが、本当のところは新薬の実験体にさせられているのかもしれない。




そのために、人買から買ったに違いない。






そう考えたせつなは、おちおち眠ってなどいられなかった。






きっとこれからも実験体として使われ、自分が自分だとわからなくなるくらい薬漬けにされ、そうして死んでいくのだろう。




いくらすでに死んだような命とはいえ、わけもわからずあの男の言いなりとなって死ぬのだけはごめんだ。






恐怖に駆られたせつなは、ここから逃げ出す決意をする。






初めに飲まされた異能薬のおかげで、疲労は回復していた。




それに幸い、屋敷はしんと静まり返っていて、辺りに人の気配はない。






逃げるなら…今だ。






せつなは寝間着のまま部屋を飛び出した。




裸足のまま庭へ下り、塀伝いに小走りで逃げていくと裏口を見つけた。






急いで戸を開け、外に出る。




裏通りなのか、都合のいいことに人はほとんど歩いていなかった。






ここにいたら、いつ見つかるかもわからない。




とにかく、この場から遠くへ。






なにかに追い立てられるように、せつなは天珠の屋敷から逃げ出した。






右も左もわからない。




わかるのは、ここが麗蝶街の中ということだけ。






麗蝶街の出入口はただ1つ。




大門だ。






大門は、麗蝶街を中央で縦に半分に分けるようにしてある大通りの南に位置する。






大通りはすぐにわかった。




たくさんの遊郭の見世(みせ)が並び、男の客たちがぞろぞろと歩いている。






太陽の位置を頼りにして、せつなは大通りを南へと下った。






神無町の中にある一画だといっても、麗蝶街の中はまるで小さな町そのもの。




遊郭だけではなく、銭湯や食事処もあり、天珠のように遊郭を生業としている者の屋敷も点在する。






ただ普通の町と違うのは、歩いている人々が男ばかりだということ。






そんな中で、寝間着姿の女のせつなは明らかに目立っていた。






「おっ?こんな時間に、娘が1人でどこへ行くんだ?」




「そこのねーちゃん!こっちでいっしょに飲もうや!」






大門へと逃げるせつなに声をかける男たち。




せつなは脇目も振らず、人と人との間を縫うようにして無我夢中で走った。






――そして、ようやく見つけた。




朱色で塗られた特徴的な門を。






せつなにとっては、それが地獄からの出口のように見えた。






あそこから外に出られれば…!






せつなは、はやる気持ちで大門へと向かった。






ところが――。






「そこの娘、なにしにここへきた?」






大門のそばには、軍服を着た男が2人立っていた。




腰には刀。






大門の見張り役だ。




歩み寄ってくる見張り役の男たちは恰幅もよく、せつなが見上げるほど大きい。






「あ…あの、わたし…外へ…」




「外?なにを馬鹿げたことを言っている。ここは麗蝶街だぞ。遊女が外に出れるわけないだろ」




「でもわたし、…遊女ではありません!」




「ハッ!つくなら、もう少しマシな嘘にしろ。そんな言葉、だれが信じる」




「遊女でないというのなら、通行許可証を見せてみろ。この麗蝶街で商いをする者であれば、必ず持っているはずだ」






遊女以外の女といったら、麗蝶街で店を営む経営者や従業員、または遊郭の楼主の家族である。




その者たちには、特別に麗蝶街を出入りすることのできる通行許可証が持たされている。






つまり、それを持っていない女はみな遊女。






「ほら、どうした?早く見せろ」






そう言う見張り役の男だったが、通行許可証を持っている女は限られているため、許可証を見せるまでもなく顔で覚えている。




聞かなくとも、せつなは許可証を持っていないことくらいわかっていた。






「…その……、…持っていません」






うつむきながら、せつなが正直に言うと見張り役の男はニッと笑う。






「だろうな」




「こらこら、嘘はいけねぇぞ?お嬢ちゃん」






せつなを両側から挟むようにして、見張り役の男たちが見下ろす。






「まあ、お前のように逃げ出した遊女は何人も見てきた。どこの見世の娘だ?」




「…そう言われましても……」




「素直に戻れば、楼主には黙っておいてやるから」




「戻るもなにも、わたしはここへ勝手に連れてこられただけで…!」






せつながどれだけ訴えようとも、見張り役の男たちにはまったく響かない。




遊女の戯言だと聞き流している。






「お願いです…!ここから出してください!」




「それはできないな。オレたちは、遊女が脱走しないようにここで見張るのも仕事の内だからな」




「でも、わたし…!本当に遊女では――」






と言いかけたせつなの口を、見張り役の1人がせつなの顔ごと大きな手でつかんで塞ぐ。






「いい加減にしろ。オレたちだって、お前の嘘に付き合っている暇などない」






さっきまでの軽くあしらっていた態度から一変、このまま顔を握り潰すのではないだろうかという殺気を男から感じ、恐怖で涙があふれるせつな。






「どこの見世か吐かないというのなら、こっちで吐かせてやる」






見張り役の男たちは、せつなの両脇を抱える。






「な…なにをするんですか…!!」




「決まっているだろ。逃げ出そうとした遊女がどうなるかくらい」




「…離してください!!わたしは、遊女では――」




「わかったわかった。好きなだけ言っておけ」






全力で拒むせつなだったが男の力に敵うはずもなく、あっけなく見張り役の2人に捕まった。




せつなは必死になって振り返る。






地獄からの出口――。




麗蝶街の大門は、建物の角に消えていった。






連れてこられたのは、とある埃っぽい小屋の中。




せつなはその中に敷きつめられた(わら)の上へと放り投げられる。






「…なんだ?脱走か?」






せつなの耳に、見張り役の男たちとはまた別の男の声が聞こえる。






「ああ。こんな真っ昼間に、大門から堂々とな」




「大門から?バカなのか、こいつは」




「さあな。自分は遊女ではないと頑なに言い張っている」




「なんだそれ。嘘が下手すぎるだろ」






せつなが藁に埋もれた顔を上げると、軍服姿の見張り役の男たちとは身なりが対称的で、古びた着物をだらしなく着た無精髭(ぶしょうひげ)の男が立っていた。






「な…なんですか、この部屋は…」






ギラリとした無精髭の男の目に怯え、尻もちをつきながらよろよろと後ろへと下がるせつな。






(はり)から吊り下げられた無数の鎖。




床には、せつなが人買に売られていたときに足につけられていたような鉛色した鉄球の重り。




中央には、人の腰の高さほどある大きな水瓶(みずがめ)が置いてあった。






ただの小屋とは思えぬそのおどろおどろしい雰囲気に、身を強張らせるせつな。




そんなせつなに、無精髭の男が歩み寄る。






「ここがなにかって?見ればわかるだろ。折檻(せっかん)部屋だよ」




「…折…檻」




「遊女なら、当然聞いたことくらいあるよな?脱走を試みて捕まった遊女が、罰を受けるところだ」






『折檻』、『罰』。




その言葉だけで、せつなの背筋が凍りつく。






「それにしても、脱走なんていつぶりだ?」




「そうだな。最近は聞いたことがないな」




「ああ。オレも最近相手にしてるのは、素行の悪い男客だ。こんな若い娘、手加減できるといいがなぁ」






困ったようにせつなを見下ろす無精髭の男。






「一応、商品だ。顔に傷をつけたら、あとで楼主にうるさく言われるぞ」




「わーってるよ、そんくらい」




「見世の名前を吐けば許してやれ。これに懲りたら、二度と同じことはする気にならんだろう」






手間賃だろうか、見張り役の男から無精髭の男になにかが手渡される。






「はいよ。たしかに」






無精髭の男は受け取ったものを懐に入れると、チラリとせつなに目を配った。






「オレだってべつにこんな仕事、好きでやってるわけじゃないんだから悪く思うなよ」






そうつぶやく無精髭の男だが、頬がゆるむその顔はとても本心で言っているとは思えない。




どこか、楽しんでいるようにも見える。






「それじゃあ、こっちにきてもらおうか」




「…いや!離してっ…!」






嫌がるせつなの襟元をつかむと、無精髭の男は水瓶の前までせつなを引きずる。






水瓶の中には、水がたっぷりと溜まっていた。




その水面には、後頭部の髪を鷲づかみにされ、恐怖で顔が引きつるせつなが映っていた。






これからなにをされるのか、嫌でも想像がつく。






「それでは、あとは頼んだぞ」




「ああ」






無精髭の男にせつなを任せ、小屋から出ていこうとする見張り役の男たち。






絶望する水瓶に映る自分の顔を睨みつけるせつな。






…どうしてこんなことに。






せっかくあの黒髪男――天珠のところから逃げ出せたというのに。




事態はますます悪い方向へと向かうばかり。






そこでせつなは、水瓶の中を見てふとあることに気づいた。






乱れた寝間着の襟元から見える首筋――。




そこには、あるはずのものがなかった。






それは、沈丁花の形をしたアザ。






のぞき込むようにして凝視するが、やはりアザは見えなかった。






せつなは、あのときの天珠の言葉を思い出す。

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