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第一輪 鬼を呼ぶ娘

「せつな!せつな!」






昼食時。




居間から厨房にまで響く金切り声。






しかめっ面で声を上げているのは、この屋敷の当主、田沼繁(たぬましげる)の妻である喜代(きよ)だ。






椿油で光る黒髪を束ね、唇には真っ赤な紅。




歳のわりには派手な柄の着物に身を包んでいる。






喜代は箸を置き、せつながやってくるのを苛立ちながら待つ。






「せつな!いないの!?」




「…は、はい!ここにおります…!」






喜代に呼ばれ、そそくさとすり足でやってきた小汚い古びた着物姿の女中。






細い腕にあかぎれだらけの手、血色の悪い肌。




見るからに貧相なこの若い娘が、せつなだ。






「奥様、…いかがいたしましたでしょうか」




「あなた、さっきわたくしの食事を運んでいたわよね?」




「…はい。それがなにか――」






とせつなが言いかけたとたん、その顔に突然味噌汁をぶっかける喜代。






「あつっ…!!」






湯気が上がる味噌汁の熱さに驚いたせつなはその場に崩れ落ちる。




そんなせつなを椅子に座ったまま、横目で見下ろす喜代。






「まったく白々しい!もし、わたくしの口にでも入ったらどうするつもり!?」




「な…なんのことでしょうか、奥様…」






せつなには、味噌汁をかけられる理由がわかるなかった。






「あなた、わたくしのお味噌汁に髪の毛を入れたわね?」




「髪の毛…?」




「ええ。長い髪が1本入っていたわ。あなたが食事を運ぶときに入れたのね」




「ち…違います!わたしは決して――」




「おだまりなさい!!身寄りのないお前を拾ってここで働かせてやっているというのに、こんな幼稚な嫌がらせなんかして」




「本当にわたしは、そのようなことはいたしておりません…!」




「あなた以外に、他にだれがやるっていうの!?…あ〜、本当に不愉快!」




喜代は手を払うように合図すると、別の女中に残りの食事を下げさせる。






「なにが入れられているかわからない食事なんて食べれたものじゃないわ。早く作り直して」




「す、すぐに…!」






喜代の食事を下げた女中は慌てて厨房へと戻っていく。






「あなたも口にしないほうがよろしいんじゃないかしら」






そう言って喜代が目を向けるのは、黙々と食事を続ける田沼家当主の繁。






「もう遅い。すでに食べ終わってしまった」






繁はそれだけ言うと、喜代を残して先に席を立った。




繁の相変わらずの口数の少なさに不満の表情を見せる喜代は、すぐそばで絨毯に染み込んだ味噌汁の拭き掃除をするせつなに目を向ける。






「まだやっていたの?早く終わらせてちょうだい」




「…はい。申し訳ございません…」






うつむくせつなの左頬は、味噌汁をかけられたことによるやけどでじんわりと赤くなっていた。




その頬を見て、鼻で笑う喜代。






「あら。ちょうど血色がよくなってよかったわね。それに、首のアザと比べたらそんな軽い程度のやけど、どうってことないでしょ」






その言葉に、せつなは着物の襟から少しはみ出て見える首のアザをとっさに手で隠す。






どれだけひどい言葉を浴びせられようと、せつなはじっと耐えていた。




こんなことは日常茶飯事だから。






実際に、髪の毛がせつなのものかどうかはわからない。




女中はみな、同じような髪型をしているから。






それに、本当に髪の毛が入っていたかもわからない。




味噌汁はすでに器の外で、確かめようがない。






しかし、その髪の毛がせつなのものでなくても、ましてや実際に髪の毛が入っていなかったとしても、咎められるのはいつもせつな。






名家育ちのプライドの高い喜代は、女中である使用人のことを見下し、普段から当たりはきつかった。




その中でも、とくにせつなは喜代の攻撃対象であった。






というのも、せつながこの田沼家にやってきてから、不吉なことがたびたび起こるようになった。




すべてはせつなのせいだと気味悪がった喜代は、せつなを忌み嫌っていた。






すぐにでも屋敷から追い出したい喜代だったが、当主の繁はせつなの使用人として働きぶりをそれなりに評価していた。






喜代の感情だけで手放すには惜しい。




しかし、なにか問題を起こせばすぐに切り捨てる。






それが繁の考えだった。






もともとせつなは、心やさしい両親のもとに一人娘として生まれ、大事に愛情たっぷりに育てられてきた。






ところが、その両親はせつながまだ幼いころに流行り病にかかり亡くなってしまう。




そこから、せつなは親戚中をたらい回しにされた。






その理由としては、『せつながきてから鬼もくるうようになった』と言われているから。






鬼とは、太古の昔より人間とともに時代を歩んできた生き物。




人間ほど数は多くはないが、鬼は脅威として恐れられてきた。






野生動物と同じように野山で暮らし、本能のままに動く知能のない小動物ほどの大きさの四足歩行の鬼を『下級鬼(かきゅうおに)』。




鬼全体の中で、最も数が多い。






次に多いのが『中級鬼(ちゅうきゅうおに)』。




下級鬼に毛が生えたくらいの知能を持ち、成人女性ほどの大きさの二足歩行の鬼だ。






そして、鬼の中でも最も数が少ないが最もやっかいなのが『上級鬼(じょうきゅうおに)』。




人間と同じ知能を持ち、同じ言葉を話し、姿形も人間にそっくりな鬼。






このように、鬼は3つの階級に分かれている。






その階級に生まれた鬼は、階級が下がることもなければ上がることもない。




与えられた階級で、死ぬまでの一生を過ごす。






また、階級によって鬼の危険度も異なる。






下級鬼は獰猛な小型の動物くらいの危険度で、大人の人間であれば農具で撃退できる。




中級鬼になれば、熊を狩るのと同じくらいで、大人数の大人が鉄砲を使うことで仕留めることができる。






だが、上級鬼ともなれば話は別。






上級鬼は、特殊な力『異能(いのう)』を扱うことができ、普通の人間がたとえ殺傷能力の高い武器を持っていたとしても手も足も出すことができない。




それどころか、返り討ちにあい命を落とすこともあるだろう。






危険な上級鬼を滅する方法は、鬼と同じ異能を持つ『異能者(いのうしゃ)』が対峙するしかない。






異能は、すべての上級鬼が持つ力で、人間であれば限られた者にのみ宿るとされている。




異能者同士の結婚により、その子どもが異能を引き継ぐと言われているが、必ずしもそうとは限らない。






火や水や風などを操る者もいれば、ケガや病気を治す力を持つ者、遠く離れた場所の出来事を見ることができる者など、異能の能力は数知れず。




人知を超えた力であるため、その仕組みは解明されていない。






異能があれば、下級鬼や中級鬼であればたやすく撃退することができる。




上級鬼にも対等に渡り合える力であるが、だれでも異能が使えるわけではない。






せつながこれまで転々としてきた親戚の家はそうだった。




むしろ、異能を宿していないのが一般的。






だからこそ、せつながきてから鬼がうろつくようになり、せつなを引き取った親戚たちは気味悪がった。




下級鬼ならまだしも、中級鬼ともなれば人が襲われればただでは済まない。






せつなは親戚中から『鬼を呼ぶ疫病神』と呼ばれ、2年前に行き着いたのが今の田沼家であった。






田沼家にも異能者はいない。




しかし、経済的に裕福な田沼家は異能者を外部から呼び寄せ、屋敷を囲うように結界を張らせた。




これで、鬼は屋敷の中へ入ってくることはない。






そして、家族には異能者の念が込められた鬼よけのお守りを持たせた。




このお守りを常に身につけていれば鬼は寄ってこない。






せつながきてからたしかに屋敷周りでの鬼の目撃情報は増えたが、田沼家にとっては結界と鬼よけのお守りがあるため、たいした問題ではなかった。






無事に喜代が昼食を済ませ、女中たちが後片付けをしていると玄関の引き戸が開く音がした。






「ただいま」






帰ってきたのは、麻の葉模様の着物に小紫色(こむらさきいろ)の袴をはき、絹のような美しく長い髪が特徴的な若い娘であった。




女学校を終え帰宅した、この家の一人娘の螢子(ほたるこ)だ。






「おかえりなさい。螢子」




「ただいま戻りました、お母様」






にこりと喜代に微笑みかける螢子。




せつなと接するときとは別人かのように、喜代は目尻を垂らして微笑む。






螢子の笑みは無垢でかわいらしく、まるで花のようだ。






もちろんそれだけではなく、だれもが振り返って二度見するほどの美しい顔立ち。




女学校でも優秀な成績を修め、物わかりもよく素直で聡明。






そんな螢子が、繁も喜代も自慢の娘だった。






ただ1つ、喜代には気に食わないことがあった。




それは――。






「せつな。学校でおもしろい本を借りてきたの。あたしはもう読んじゃったから、せつなも読んでみたら?」




「よろしいのですか、お嬢様」




「もちろん!学校の友達の間で流行ってるの。きっとせつなも気に入るはずよ」




「…ありがとうございます!」






喜代が嫌うせつなと仲がいいということだ。






せつなが田沼家にきたとき、同じ15歳ということで螢子からせつなに興味を持った。




せつなは自分は使用人の身であるからと距離感をわきまえるも、分け隔てなく平等に接する螢子は自らせつなに歩み寄る。






たくさん持っているかんざしの中からせつなにプレゼントしたり、めずらしいお菓子を買ってきてはせつなに分け与えたり。






ひとりっ子の螢子にとっては、せつなは姉妹のような存在だった。






そんな純粋な螢子に徐々に心を開いていったせつな。




これまでだれからも相手にされてこなかったせつなにとって、こんなに自分によくしてくれるのは螢子が初めてだった。






そして、2年の月日がたった今でも、せつなと螢子は姉妹のような友達のような関係を築いていた。






螢子といっしょにいる時間がなによりも心穏やかに過ごせる時。




だからこそ、喜代になんと言われようともこの家にいられるならとせつなは我慢できた。






せつなを追い出したくても追い出せない理由は、かわいい一人娘の螢子が懇願するからということが一番大きく関係していた。






――そんなある日。




事件は起こった。






その日は、秋晴れの心地よい柔らかな日差しが降り注いでいた。






家の中にいるのはもったいないくらいの気持ちのよい昼下がり。




螢子が、庭で掃き掃除をしていたせつなのところへやってきた。






「せつな!」




「はい。いかがいたしましたでしょうか、螢子お嬢様」






今日の螢子の服装は、洋装の淡い黄色のワンピースに、螢子の華奢な両方がすっぽりと収まるようなつばの広い白の帽子を被っていた。






「仕事はそのあたりにして、少し休憩を挟まない?お茶しましょうよ」




「お言葉はありがたいのですが、まだ掃除が終わっておりませんので」






加えて、さっき喜代に別の仕事も追加されたところだった。




とてもではないが、螢子に付き合っている時間はない。






「またお母様ったら、せつなばかりに用事をお押しつけて…!」




「かまいません。これがわたしの仕事ですから」






螢子は文句ひとつもこぼさず、せつなに微笑みかけてみせる。






「それでは、わたしは向こうの掃き掃除へ向かいます」






せつながそう言って螢子にお辞儀をすると、螢子はせつなが握っていた箒を取り上げた。






「お…お嬢様!お返しください…!」




「いやよ。せつながあたしと付き合うと言ってくれるまで返さないわ」




「お嬢様…!困ります…!」




「困るのなら、少しの時間でいいからあたしとお茶してくれない?」




「し…しかし――」




「大丈夫!お母様にはあたしから伝えておくから」






螢子は、せつなが首を縦に振るまでは箒を返さないことだろう。




それくらい、螢子はせつなと優雅なひとときを楽しみたかったのだ。






「…かしこまりました。それでは…少しだけ」




「やったー!」






螢子は無邪気に喜ぶと、自らお茶の用意をしに厨房へと向かった。






しばらくしたのち、螢子は大きなお盆の上にティーポットとティーカップ、お茶菓子のクッキーが盛られた器をのせて戻ってきた。






「お待たせ、せつな」




「…お嬢様、わたしがお運びいたします!」




「いいの、いいの。これくらい1人でできるわ」






そう言って、庭に設けてあるテラス席にせつなを招く螢子。






「おいしい紅茶を手に入れたの。いっしょに飲みましょ」






螢子は、使用人のせつな相手に自らティーポットから注ぎ、茶葉の香りが漂う紅茶の入ったティーカップをせつなの前へと差し出す。






「ありがとうございます、お嬢様」




「もう、せつな。2人だけのときは、“お嬢様”はやめてっていつも言っているでしょ」




「…しかし」




「あたしがいやなの。だから、はい!おしまいねっ」




螢子はパチンと手をたたいて、せつなにウインクしてみせる。




その愛らしい仕草に、せつなは自然と笑みがこぼれる。






「わかったよ。じゃあ、今だけね。“螢子ちゃん”」






せつながそう言うと、螢子は満足そうに笑った。






他愛のない話をし笑い合う2人の様子は、今時の女の子そのものだった。




このときだけは、雇用主と使用人という立場を忘れてて、螢子とせつなは自由になれる。






そんな2人の様子を喜代は縁側から目を細めて見つめていた。






「螢子ちゃん。おいしい紅茶、ごちそうさま」




「あたしこそ、話を聞いてくれてありがとう」




「そろそろ、仕事に戻らないと…」




「そっか。わかったよ」






せつなが席を立ちティーカップを片付けていると、螢子もいっしょになって手伝う。






「できれば、ずっとこうしてせつなちゃんといっしょにいられたらいいのにな…」






ぽつりと螢子がつぶやく。






「わたしは、仕事があるからずっとは無理だけど…。でも、螢子ちゃんがいいならまた――」




「違うの」






うつむく螢子。




ティーカップに残った紅茶の中には、涙を堪えるような螢子の顔が映っている。






「…あたし、女学校を卒業したらお嫁に行くの。そうなったら、この家を出ていくことになるの」




「お嫁に…」






息を呑む螢子。




17、18で嫁ぐことはなんらめずらしいことではなかった。






しかし、心の拠り所であった螢子がお嫁へ行く――。




嫁いでしまったら、きっと気軽に実家に戻ってくることはできないだろう。






つまり、この螢子との関係にも期限が迫っていることを意味していた。






「だけど、こんなあたしでもお嫁にもらってくださる方がいることに感謝しないとね」




「こんなだなんて…そんなことないよ!螢子ちゃんはだれにでもやさしくて、あたたかく寄り添ってくれる。そんな人、めったにいないよ」




「ありがとう、せつなちゃん。来月、初めてのお見合いをすることになったと、この前お父様から聞かされて。ちょっと気持ちの整理がつかなくて、ついせつなちゃんに愚痴っちゃった」






笑ってみせる螢子だったが、せつなには無理しているのがひしひしと伝わった。






当然だ。




生涯を添い遂げる相手をこの歳で選ぶのだから。






――いや、親が事前に選んだ相手と会うのだから。






「でもお嫁に行くって言っても、まだ少し先の話だしね。お見合い終わったらまた話聞いてよ、せつなちゃん」




「うん。こんなわたしでよければ、ぜひ」






そのとき、2人の間を強い風が吹き抜ける。




とっさにワンピースの裾をおさえた螢子だったが、風は螢子の白の帽子を攫っていく。






高く舞った帽子は、塀を越えて屋敷の外へと落ちていった。






「あ〜あ。外にいっちゃった…」




「螢子ちゃん、わたしが取ってくるよ」




「いいのいいの、あたしが取ってくる。せつなちゃんは、ここ片付けておいてくれる?」




「わかった」






うなずくせつなだったが、やはり螢子のことが気になる。






「螢子ちゃん。屋敷の外に出るなら…お守りは持った?」






せつながいう“お守り”とは、屋敷から外へ出るときには必ず身につける鬼よけのお守りのことだ。






「お守りは部屋に置いてる鞄の中だけど…。大丈夫だよ!だって、すぐそこまでだし」




「でも、一応持っておいたほうが…」




「平気平気!」






そう言って、せつなに手を振る螢子。






のちにせつなは、このときのことを一生後悔することとなる。




なぜもっと強く、鬼よけのお守りを持つように言わなかったのかと。






「キャーー…!!」






螢子の悲鳴が聞こえたのは、螢子が屋敷を出てすぐのことだった。






驚いたせつなは、思わず片付けていたティーカップをテーブルから落としてしまった。




破片となって庭に飛び散る螢子が使用していたティーカップ。






「…螢子ちゃん!」






胸騒ぎがしたせつなは、慌てて屋敷の外へと飛び出した。






そこで見た光景に、せつなは息をするのも忘れる。






なんと、地面にうつ伏せになって倒れる螢子の体に、折り重なるようにして大量の下級鬼たちが群がっていたのだった。






「「キッキッキッ」」






まるで笑い声にも捉えられるような下級鬼の鳴き声が不気味に響く。




初めて鬼を目の当たりにしたせつなは、恐怖で足がすくむ。






しかし、鬼たちに噛まれ身動きが取れない螢子を助けるために、足元に転がっていた太い木の枝を震える手で握りしめた。






「…螢子ちゃんから離れなさいっ!!」






木の枝を振り回し、下級鬼たちに立ち向かうせつな。




すると、なにかを察知したように一瞬動きを止めた下級鬼たちは、飛び出そうなほどの大きく丸い眼球を一斉にせつなに向ける。






「「キーーッ!」」






束になってせつなに飛びかかる鬼たち。




なんとか木の枝ではたき落とすも、数が多すぎてせつなだけでは鬼を追い払うことも螢子を助け出すこともできなかった。






――そこへ。






「…いやああぁぁぁあああ!!…螢子ぉ!!」






絶叫が響き、振り返ると地面に膝から崩れ落ちる喜代がいた。






「あなた…!!早く早く!!」






泣きじゃくる喜代のすぐあとに、息を荒げ刀を握りしめた繁が現れる。






「おのれ、この…ゴミ共がっ!!」






次々と下級鬼を斬りつけていく繁。




斬られて絶命した鬼は、体が灰となって消えていった。






繁によって容赦なく斬られる鬼。




それに恐れをなして逃げ出す鬼。






やっとのことで、螢子は鬼から解放される。




しかしその体には、痛々しいくらいに鬼の噛み跡が残されていた。






「…螢子!しっかりしろ!!」




「いやぁぁぁ…。螢子ぉぉぉ…」






意識のない螢子の体を抱き起こす繁。




その隣で、ただただ泣き崩れる喜代。






「…旦那様、奥様!いかがなさいましたでしょうか!?」






喜代の声を聞いて駆けつけた女中たちだったが、螢子の変わり果てた姿を見て、思わず息を呑む。






「…お前たち、すぐに医者に連絡を!!車を出す!」




「は…はい!すぐに!」






女中にそう指図すると、繁は螢子を抱きかかえて屋敷の中にある車庫へと向かった。






その場に残されたのは、足の力が抜けてへたり込むせつなと、涙と鼻水で顔の化粧がドロドロに溶けた喜代。






「ほ…、螢子ちゃ――」






とつぶやきながら、徐ろに繁のあとを追いかけようとしたせつなの左頬に突然鋭い痛みが走る。




同時に衝撃が加わり、せつなは顔面を地面にたたきつけられるようなかたちで倒れ込む。






「こんの…疫病神がっ!!」






見上げると、般若のような形相でせつなを見下ろす喜代がいた。






熱を帯び、ピリピリと痛む左頬。




大きく肩で息をする喜代の赤くなった右の手のひら。






それでようやく、せつなは悟った。




喜代に打たれたのだと。






「螢子になにをしたの!?答えなさい!!」






喜代はせつなの首を絞め殺す勢いで荒々しくつかむ。






「く…苦しいです、…奥様」




「苦しい?螢子の痛みは、…こんなものじゃないわよ!!」






今度は、せつなを塀に向かって投げ飛ばす喜代。




堅い塀に頭を思いきりぶつけられ、せつなの頭からは血が流れる。






頭を打ったせいで、クラクラして立ち上がることができないせつな。






「できることなら、お前をこのまま放置して鬼に食われて死なせてやりたいところだけど、それくらいじゃわたくしの気が収まらないっ!」






喜代は塀を背にして力なく横たわるせつなに近づくと、その髪を鷲づかみにした。






「お前を殺すのは鬼ではない。この…わたくしよ!!」






まるでナイフのような喜代の鋭い視線から逃れることができないせつなは、力なくつぶやいた。






「…殺してください」






もともと生きている意味など見出せていなかった。




しかし、とくに死ぬ理由も見つからずこの歳まで生きていた。






そんな暗いせつなの人生に、螢子という存在だけがせつなを照らす光だった。






だが、その螢子は自分のせいでこんなことに巻き込まれてしまった。




責任を取る方法は、もはや死をもって償うしかない。






下級鬼にたかられる螢子の衝撃的な姿が脳裏に焼き付いているせつなは、今はそのような考えしかできなかった。






虚ろな目のせつなを睨みつける喜代。




そんな2人のもとへ、女中が慌ててやってくる。






「…奥様!旦那様は螢子お嬢様をお乗せになって、先にお医者様のもとへ向かわれました!奥様のお車もご用意ができましたので、お嬢様のところへお急ぎください…!」






女中の声に我に返った喜代は、つかんでいたせつなの髪を離す。






「…螢子…!!」






せつなには目もくれず、喜代は呼びにきた女中とともに用意された車のもとへと向かった。






田沼家の3人がいない屋敷は、不気味なくらい静かだった。






繁と喜代はしばらくの間家を空け、入院した螢子に付きっきりだった。




たまに繁が車に乗って、螢子の着替えを取りに戻ってくる。






「…聞いて聞いて!螢子お嬢様の件」




「なにかわかったの?」




「ええ。先程、旦那様から教えてもらったのだけれど、お嬢様、屋敷の外へ飛んでいった帽子を拾いにいったときに…鬼に襲われたそうよ」




「…まあ、かわいそうに。そういえば、せつなといっしょにいるときだったかしら…」




「そうよ。使用人のくせに、どうしてお嬢様に取りにいかせるようなことをしたのかしら。せつなが取りにいけば、こんなことにはならなかったのに」






女中の中で、せつなへの噂はあっという間に広まった。






もともと、同じ使用人とはいえ仲のいい間柄ではなかった。




螢子は他の女中たちにも等しく接していたが、その中でも特別扱いを受けるせつなを女中たちは密かに妬ましく思っていた。






「ほんと、噂どおりの疫病神ね」






本人にわざと聞こえるように、女中たちはせつなを蔑んだ。






そして、螢子が鬼に襲われてから半月がたったころ――。




無事に退院した螢子が、繁と喜代とともに屋敷へ戻ってきた。






「「螢子お嬢様、おかえりなさいませ!」」






女中たちは、螢子の帰宅を歓迎する。






実際、螢子のいない田沼家の雰囲気は、雲がかかったようにどんよりとしていた。




それが、螢子が帰ってきただけで一瞬にして家の中が明るくなる。






「ただいま。お父様とお母様がいない間、屋敷を守ってくれてありがとう」




「滅相もございません!女中として当然のことをしたまでです!」




「そうだ、これ。帰りに街で買ってきたの。人気のお饅頭だそうよ。あとでみんなで食べてください」




「…よろしいのですか?」




「ええ」






螢子が微笑むと、その後ろにいた繁と喜代もうなずく。






「「ありがとうございます!」」






螢子からの思いがけないプレゼントに喜ぶ女中たち。






退院したばかりの螢子に負担をかけまいと、いつも以上に気配りをして部屋まで案内する。




せつなはその様子をただ後ろのほうから見ていることしかできなかった。






本当なら、せつなはすぐにでも螢子へ謝罪したかった。




しかし、帰ってきた螢子を見て足に鉛がつけられたかのように動けなくなってしまったのだ。






なぜなら、いつもと変わらない花のような螢子の笑顔の右半分が、白い包帯で隠されていたから。






どのようなケガでその包帯が巻かれているかはわからない。




そんなこと、聞けるはずもない。






一番気にしているのは螢子のはずだが、螢子はなにも語らずにいつもどおりに振る舞っている。




せつなに対しても、これまでとなんら変わらずに接した。






「せつなちゃん。あたしの部屋にきてくれる?病院では暇してたから、話し相手になってよ」






螢子がそう声をかけてきてくれたのがうれしくて。




せつなは、仕事の終わった夜に螢子の部屋へと向かった。






緊張な面持ちで、螢子の部屋のドアをノックするせつな。






「せつなちゃん!どうぞ、入って」




「し…失礼いたします」






部屋に入ったせつなはすぐにくるりと振り返ると、ドアを閉めようとしていた螢子に向かって土下座する。






「…螢子お嬢様!この度は、取り返しのつかないことをしてしまって、本当に申し訳ございませんでした…!!」






額が絨毯にこすれるくらい深々と。






こんなことで、螢子の傷が癒えるわけではなかった。




しかし、せつなにはこれくらいしか謝罪の意を示す方法が思いつかなかった。






「頭を上げて、せつなちゃん。せつなちゃんはなにも悪くないよ!」




「でも、わたしがあのとき――」




「あたしが自分で取りにいくって言ったんだから。それに、2人のときは“お嬢様”はやめてって言ってるでしょ?」






そう言って、笑ってみせる螢子。




螢子はせつなを抱き起こすと、部屋のソファへと座らせた。






「…でも、大ケガしたんじゃないの…?だから、半月も入院して…」




「ううん。幸い、鬼に噛まれたところはたいしたことないの。だから、ほら。なんともないでしょ?」






着物の袖をめくり、白い腕を見せる螢子。






せつなが助けに入ったときは、螢子の腕には無数の歯形がつけられていた。




それがきれいさっぱりなくなっていた。






「異能って本当にすごいのね。異能者に診てもらったら、鬼につけられた歯形なんて一瞬にしてなくなっちゃった」






螢子は繁に運ばれた病院先で、治癒に特化した異能者から異能の治療を受けた。




そのおかげで、鬼に噛まれた傷跡は跡形もなく消え去っていた。






下級鬼に噛まれたとしても、動物に噛まれたときと対処法は同じで傷は自然に治る。




とはいっても、傷が残る恐れを感じた繁と喜代は、大金をはたいて特別に異能者の治癒を受けさせた。






一般人ならこうはいかず、自然治癒に任せることだろう。




裕福な田沼家だからこそ、それが可能だった。






こうして、螢子は鬼に襲われたその日のうちに傷は治癒した。






しかし、治ったのは鬼の噛み跡だけ。






「半月も入院してたのは、このケガを治すためで…」






そうつぶやきながら、螢子は顔の右半分を隠すようにして巻いていた包帯を取り始める。






露わになった久々に見る螢子の素顔。




そこには、左の眉頭から右頬にかけて1本の鋭い傷跡が残されていた。






「その傷…」






美しい螢子の顔を斜めに裂くようにしてつけられた傷に言葉を失うせつな。






「…鬼の爪でつけられた引っかき傷。これだけ傷が深くて…消えなかったの。これでもきれいになったほうなんだけどね」






笑ってみせる螢子だが、その表情は今にも泣き出しそうなほどに目が潤んでいる。






この顔の傷を消すために、繁と喜代は異能者に何度も何度も治癒の異能を試させたが、半月かけても傷は薄くなるのが限界で完全に消えることはなかった。






「あたしの傷も、せつなちゃんの首筋のアザのようにお花みたいだったらよかったんだけどね」






と言って、眉を下げながら冗談っぽく笑う螢子。






美しい絵画を汚すようにつけられた一筋の傷。




どうしてそれを、こんなにも心やさしい螢子の顔に。






せつなは胸が締めつけられた。






「…本当に、ごめんなさい……」






なぜあのとき、捨て身で螢子を助けにいかなかったのかと。




後悔してもしきれない思いが涙となってあふれ出すせつな。






「…泣かないで、せつなちゃん!この傷も今回の異能者の方では治らなかったけど、探せばもっと腕のいい異能者もいるそうなの。だからきっと、いつかは消えるはずだから」






螢子は、決してせつなを責めたりしない。




せつなはなにも悪くないと螢子は理解していたから。






「それにね、この顔の傷がついて…よかったこともあるんだ」




「…よかったこと?」




「うん。来月のお見合いね、なくなったの」




「え…」






それを聞き、呆然とするせつな。






「向こうからお断りの連絡をいただいて。傷物の花嫁はいらないみたい」




「…そんなっ」




「でもいいの。お見合いがなくなったということは、あたしの結婚も先延ばしになったってことでしょ?だから、せつなちゃんともう少し長く、この家でいっしょにいられる」






螢子が嫁がず、まだこの田沼家にいるということはせつなにとってもうれしいことだった。




しかし、素直に喜べる話ではなかった。






「あたしはべつに、まだ結婚なんてって思ってたからちょうどよかったのだけれど」






そうつぶやきながら、ゆっくりとうつむく螢子。






「こんな顔でも…あたしをお嫁にもらってくださる方が、…今後現れるのかしらっ…」






消え入るように小さく、震える螢子の涙声。




それは、これまで気丈に振る舞ってきた螢子が内に秘めていた思いだった。






「…あ。な…なんか、急に湿っぽくなっちゃってごめんね…!」






我に返った螢子が細い指で目元をはらう。






「せつなちゃん、明日も早いんだよね。こんな時間まで付き合わせちゃってごめんね」




「…ううん、わたしはいいの」




「まあ、そういうことだから。これからも変わらずよろしくね、せつなちゃん」






せつなを見送る螢子のその表情は、またいつもの笑顔に戻っていた。






そんな螢子だけを見ると、鬼につけられた傷跡なんかには負けず、前向きに歩もうとしているように見える。




しかし、閉まったドアの向こうから聞こえたのは、螢子のすすり泣く声だった。






せつなは奥歯をぐっと噛みしめる。






螢子が責めずとも、あの顔の傷をつけたのは自分。




本来であれば、喜代が言っていたように、名家の大事な一人娘に大ケガを負わせたとなれば、殺されてもおかしくはなかった。




おそらくそうならなかったのは、螢子が繁や喜代を説得したからであろう。






守らなければいけないはすが、螢子に守られていると知ったせつな。






せつなは固く誓った。




今後は自分の命をかけてでも、螢子を守ろうと。






あの日を境に、螢子の人生は変わってしまったといっても過言ではない。




螢子の振る舞いは変わらないが、顔の傷はずっと隠していて、女学校へも行かない日もあった。






ところが、変わったのはそれだけではない。




螢子が退院してきた日から、せつなへの喜代の嫌がらせがピタリと止んだ。






せつなにとっては、何事もない穏やかな日々がむしろ不自然に感じるくらい。




しかしそれは、嵐の前触れに過ぎなかった。






深夜遅く、せつなが眠る畳2畳ほどしかない物置き同然の部屋に、突然繁と喜代が押し入ってきた。






「せつな、起きなさい」






せつなを蹴り起こす喜代の後ろでは、ろうそくを持った繁が見下ろしている。




寝ぼけたまま状況が把握できていないせつなの腕を喜代が荒々しくつかむ。






「きなさい。迎えがきてるわよ」




「む…迎え…?」






目をこすり足をもつらせながら、喜代に引っ張られていくせつな。






みなが寝静まっているこんな夜更けに、当然灯りなどはなく、繁が持つろうそくの火だけが不気味に廊下を照らす。






せつなが連れてこられたのは、屋敷の裏口。




そこで、まるでゴミを放り投げるかのように、喜代はせつなを手放す。






地面に倒れるせつな。




前日の雨のせいで、せつなの顔に泥が跳ねる。






「…言っていたのは、この娘ですかい?」






突然、暗闇に響いた低い声に、驚いて体を起こすせつな。




見上げると、せつなを見下ろす3人の男がいた。






「そうよ。さっさと連れていってちょうだい」






喜代がそう吐き捨てると、2人の男がせつなの両脇を抱える。




生あたたかい体温と気色の悪い吐息にせつなは体を強張らせるも、なんとか出せる力で抵抗しようとする。






「…お、奥様!これは一体…どういうことですか!?」




「どうもこうも、ゴミを処分するのに理由なんて必要かしら?」






雲の切れ間からもれ出た月明かりに照らされた喜代の表情は、無そのものだった。






「せつな、今までよく働いてくれた。しかし、“遠い親戚”という(よし)みだけで引き取ったお前を、螢子を傷つけられてまでこの家に置いておく義理などない」






普段は口数の少ない繁がせつなに語りかける。




冷たい目をして。






やはり繁と喜代は、静かにせつなへの憎悪を煮えたぎらせていた。






そして出した決断は、せつなを屋敷から追い出すこと。




しかも、ただ追い出すだけではない。






「まいど!それじゃあ、この娘はこっちで引き取らせてもらいやすぜ」




「ええ。好きにして」






男から金銭を受け取る喜代。






そう。




せつなは人買(ひとかい)に売られたのだ。






「感謝しなさい、せつな。本気で殺してやろうかとも思ったけど、命は取られずにこうして売られるだけなのだから。まあ、首筋のアザのせいでたいした()ではないけれど」






喜代は不満をもらしながらも、月明かりの下で受け取った金を数える。






「…旦那様、奥様!どうかお考え直しください…!!螢子お嬢様のことは、心よりお詫びいたします…!ですから、わたしのこの命をもって今後は螢子お嬢様にお仕えを――」




「螢子のためなら、素直に買われなさい。こんなはした金でも、螢子の顔の治療費の足しにしてあげるわ」






腕のいい異能者を見つけるには、その分金がかかる。




そして、運よく見つかったとしても、その異能者から治療を受けるとなれば、さらに莫大な金が必要となる。






田沼家といえど、財産は無限ではない。




せつなを売って得た金はすずめの涙ほどでしかないが、ないよりはまし。






それでせつなも屋敷からいなくなるのであれば、これに越したことはない。




繁と喜代は話し合い、そういう結論に至ったのだった。






たしかに、自分の命をかけてでも螢子を守ろうと固く誓ったせつなだったが――。




このようなかたちで、自分の命をかけようとしたわけではない。






「さっさと連れていって!こんな疫病神、顔も見たくない!」






喜代は、顔をしかめて背中を向けた。




その背中が振り返ることは、もう二度となかった。






「…奥様!奥様!」






せつなが悲痛な叫び声を上げても、まったく動じない。






「旦那様…!お願いです…、わたしをお助けくださいっ…」






祈る思いで繁を呼び止めるも、一瞬憐れみのまなざしを向けただけで、一切言葉を発することなく喜代のあとに続いて暗い屋敷の中へと消えていった。






愕然として、その場に崩れ落ちるせつな。






「お前は売られたんだ。諦めな、娘」






抵抗する気力もなくなったせつなは、人買の男たちによって縄で縛られる。




こうして、繁と喜代以外には知られることなく屋敷から連れ出されたのだった。






これまで、親戚の家を転々としながらひどい仕打ちを受けてきたせつなだったが、人としての最低限の暮らしは保証されていた。






しかし、人買に売られてしまったら最後――。




“人”ではなく、“物”として扱われる。






それを悟ったせつなの瞳からは、螢子という存在によってわずかに残っていた光でさえも失われてしまっていた。

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