第五話④
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オフィリアについていった俺たちは、ジェインズの町並みの中をひたすら歩いていた。ここもダインズヴェルシュのように町が円形になっている。元が木の幹の中なのだから当然か、と思いながら、俺は空を見上げていた。
あの空は、エルフの魔法で出来た、ホログラムのようなものなのだろうか。本物と遜色ない。今は煌々と太陽のような光が降り注いでいるが、雨が降ったり、曇ったりもするのかもしれない。
「おいコタロー、オマエはまた呆けているのか? ここはオマエの根城ではないのだ。もっと警戒のひとつでもしたらどうだ」
「そんなことを言われても、俺は戦いの経験なんてないし、どう身構えたらいいのか分からねえよ」
ガークはフンと鼻を鳴らした。俺がこれまでの生涯で経験した『戦い』といえば、せいぜいサッカーの試合くらいだ。そこに生死など存在しない。いや、もしかすると運悪く、試合中に命を落としていた可能性もあったかもしれないが、死と隣り合わせの環境で生きてきた経験なんてない。これが平和ボケというやつだろうか。
やがてオフィリアは、一軒の建物の前に立ち止まった。たくさんの家を積み重ねたような造りの建物だ。一番てっぺんの屋根には煙突が生えていて、そこからもくもくと煙が出ている。あれも作りものなのだろうか。
淡いオレンジ色の灯りが、窓から漏れている。光源が陽炎のようにゆらゆらと揺れているようにもみえた。
「ここがヴェルチンシア様のお屋敷でございます」
オフィリアはそう言って、人差し指で扉の表面をなぞった。彼女の指先から、キラキラとした糸のような光が放たれて、扉の表面に吸い込まれていく。光はやがて扉全体に染み渡るように拡散されていき、ゆっくりと消えていった。
「どうぞ、お入りください」
厳かな場所は、解錠の音も荘厳なのか。鍵がひとりでに開いたあと、ギイと重い音をたてながら、自動で扉が開いた。
「我はコタローの護衛ゆえ、共に入らせてもらうぞ」
いつから俺はガークに護られる立場になったのだろうか。まあ、細かいことは気にしない。エルフの領域に入らせてもらうのに、必要な口実なのかもしれないからな。
建物の中に入ると、まず目に飛び込んできたのは、宙に浮いた蝋燭だった。何十本ものそれが燭台に乗っていて、天井の近くを浮遊している。さっき窓越しに見えていた光はこれかと合点する。
玄関という概念はないようで、靴のまま上がっても良いみたいだ。段差があるわけじゃないから、上がるもなにもないか。
ふわり、ふわりと、意思を持った蛍のように明滅する蝋燭の灯りが、俺たちの足元や顔を照らし出す。幻想的といえば聞こえはいいが、介護の視点から見ると、これは少々厄介な代物だ。
「足元が暗くなったり明るくなったりして、距離感が掴みにくいな……」
俺が独り言のように呟くと、隣を歩いていたガークが鼻を鳴らした。
「フン、エルフ共は気取った演出が好きだからな。だが、この程度の光、オレの眼には通じぬ」
頼もしい限りだが、ここで暮らしているのは二千歳を超える高齢者だ。俺たちとは感覚機能が違う。
案内されたのは、屋敷のさらに奥にある広間だった。いくつかの階段(通常なら、俺たちでも昇るのにひと苦労するほど、えらく急な造りなのだが、なんとエスカレーターのように段が動いているんだ)を昇り、最上階の廊下を歩いていく。城の天守閣の一番上に、将軍様がひかえているような感じといえば、伝わりやすいだろうか。
広間には、豪奢な安楽椅子に深く体を預け、じっと空中を見つめるひとりの女性がいた。
「ヴェルチンシア様。お客様をお連れしましたよ」
オフィリアが、こわれものに触れるような繊細な声色で呼びかける。ゆっくりと、安楽椅子の背もたれから頭が離れた。こちらを振り向いたその姿を見て、俺は息を呑んだ。美しい。皺のひとつひとつが、木の年輪のように彼女の歴史を刻んでいるようでありながら、その肌は透き通るような白さを保っている。銀色の髪は床に届くほど長く、豪奢なドレスを纏った姿は、まるで絵画の中から抜け出してきたかのような威厳と儚さを同居させていた。だが、彼女の水面のような薄い青色の瞳は、焦点が定まっていなかった。
俺たちのことを見ているようで、その向こうにある別のなにかを見ているような、そんな眼差しだ。
「……オフィリア? 誰だい、その人たちは」
声は驚くほどしっかりしていた。
「はい。コモレビノモリという場所から来てくださった、ロイメンのコタロー様と、竜族のガーク様です」
「コタロー……ガーク……コタロー……ガーク……」
ヴェルチンシアは俺たちの名前を口の中で転がすように繰り返し、それからふいっと視線を逸らした。
「そうかい。……それで、クォートレットは? 彼はまだ来ないのかい?」
オフィリアの肩が、びくりと震えた。俺の方を振り向き、困ったように眉を下げる。
——出たな、その名前。
俺は一歩前へ進み出て、ヴェルチンシアの視線の高さに合わせるように膝をついた。
「はじめまして、ヴェルチンシアさん。俺はコタローです。今日はご挨拶に伺いました」 真正面から顔を覗き込む。彼女の瞳が、俺を捉える。
「……純ロイメンかい。珍しいね、こんなところまで」
「ええ、ちょっと遠かったっすけど、良いところっすね、ここは」
純ロイメンとは、他の種族との混血ではないロイメンのことを言っているのだと解釈した。
「ふふ、お上手だこと。……でもね、わたくしは待っているんだよ。クォートレットを」 彼女はそう言うと、再び視線を俺の背後——部屋の隅のほうへと彷徨わせた。「もうすぐ陽が落ちる。そうしたら、彼が来るはずなんだ」
その時だった。ジェインズの空……あの幹の中に広がる擬似的な空の光量が、すうっと落ちていくのを感じた。外の世界と同じように、ここにも夕暮れが訪れるようになっているのだろう。
室内の明るさが変わる。それに呼応するように、天井付近を浮遊していた蝋燭たちが、一斉に位置を変え始めた。
ゆらゆらと揺れる炎。それによって生み出される影が、壁や床の上で踊りだす。 「……あ」
ヴェルチンシアが、短く声を上げた。彼女の視線は、部屋の隅にある大きな姿見の鏡の横、カーテンの影が落ちている一点に釘付けになっていた。
「そこにいるのね、クォートレット」
嬉しそうに、けれどどこか切迫した様子で、彼女は細い手を差し伸べる。
「どうして隠れているの? 顔をお見せくださいな。わたくしはずっと待っていたんだから」
そこには誰もいない。ただ、揺れる蝋燭の光が生み出した、不規則な影が伸びているだけだ。だが、彼女には見えているのだ。
——幻視だ。
ヴェルチンシア以外のやつらには見えないものを、たしかにそこに在ると認識してしまう症状。幻視の原因はいくつかあるが、代表的な原因にレビー小体型認知症だとか、統合失調症なんかがある。
壁のシミが人の顔に見えたり、置いている服が動物に見えたりする『錯視』とは違い、なにもない空間にはっきりとした人や物が存在するように見えることもある。さらに、今の状況は環境要因も大きい。環境要因とは、取り巻く周りの環境が、本人にとっては不適切であるときに発生するリスクのことで、いまのヴェルチンシアにとっては、夕暮れ時の薄暗さやこの不規則に動く蝋燭の灯りがクォートレットの姿を見せている要因となっているのだと思う。
光と影が常に揺らいでいるこの空間は、認知機能が低下している高齢者にとって、脳が視覚情報を誤認しやすい最悪の環境といえる。
「ヴェルチンシア様、そこには誰もおりません……」
オフィリアが泣きそうな声で訴える。否定したくなる気持ちは痛いほど分かる。敬愛する主が、いない誰かに話しかけている姿を見るのは、身を切られるように辛いものだ。 「何を言っているんだい! ほら、あそこでわたくしを見て笑っているじゃないか!」
ヴェルチンシアの声が荒らげられた。否定されたことによる混乱と怒り。不穏の兆候だ。
「なぜ近づいてくれないの! わたくしがこんなに呼んでいるのに! 意地悪をしないで!」
彼女は椅子から立ち上がろうとしてもがく。だが、足腰が弱っているのか、うまく力が入らず、体勢を崩しかけた。
「危ない!」
俺が支えようとするよりも早く、ガークが動いた。風のような速さでヴェルチンシアの傍らに移動し、倒れそうになった彼女の体を、太い腕でガシッと支える。
「……っ!」
ガークの顔が至近距離にあるのを見て、ヴェルチンシアは息を呑み、そして目を見開いた。
「ああ……クォートレット……! やっと来てくれたのね!」
ヴェルチンシアの細い腕が、ガークの太い首に回される。
「な、なんだ!? おい、コタロー! この老いぼれ女はなにを言っているのだ!」
ガークが狼狽して、俺に助けを求めるような視線を送ってくる。あの屈強な竜族の戦士が、老婆の抱擁ひとつで硬直している様子は、不謹慎だが少し可笑しかった。
「ガーク、そのまま! 振りほどくなよ!」
俺は鋭く指示を飛ばした。ここで無理に引き剥がせば、彼女は拒絶されたと感じてパニックを起こすか、あるいは転倒して骨折でもしかねない。
「し、しかしコタロー! この老いぼれ、力が……いや、魔力が……」
ガークが脂汗をかいている。どうやらただ抱きつかれているだけではないらしい。 「オフィリアさん、クォートレットさんってのは、どんな人だったんすか?」
俺はガークが耐えている間に、オフィリアに尋ねた。
「わたくしも存じ上げませんが……ただ、ヴェルチンシア様が若かりし頃、共に戦場を駆け抜けた殿方だと、古い日記で読んだことがあります。とても強く、逞しい方だったと」
なるほど。戦友か、あるいは恋人か。ヴェルチンシアの記憶の中で、その「強くて逞しい」クォートレットの像と、目の前にいる筋骨隆々なガークの姿が重なったのかもしれない。認知機能があやふやな人は、顔の識別ができなくなる『相貌失認』の症状が出ることがある。個人の顔のパーツではなく、雰囲気や特徴(この場合は強そうな雰囲気)で、相手を過去の誰かに当てはめてしまうのだ。
「クォートレット、どうして何も言ってくれないの? またわたくしを置いて、戦いに行くつもりなの?」
ヴェルチンシアの声が震えている。その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、ただの幻覚に対する反応ではなかった。彼女の中にある、未解決の感情……。悲しみ、寂しさ、置き去りにされたという過去の痛みが、夕暮れの不安と共に噴き出しているのだ。
ここで「違います、いま貴女が抱きついているのは、竜族のガークという少年です」と訂正するのは、事実としては正しいが、ケアとしては下策だ。彼女の「寂しい」という感情そのものを否定することになってしまうからだ。
俺はガークに近づき、小声で囁いた。
「ガーク、話を合わせてやってくれ」
「はあ!? オレにこの老いぼれ女の色恋の相手をしろと言うのか!」
「違う。彼女はいま、不安なんだ。でもガークがそばにいてくれるだけで安心するんだよ。頼む、人助けだと思って」
ガークは渋面を作ったが、俺の真剣な目を見て、観念したようにため息をついた。ガークは覚悟を決めると、ぎこちない手つきで、しがみついてくるヴェルチンシアの背中に手を回し、ポンポンと優しく叩いた。
「……ああ。すまなかったな、ヴェルチンシア。戦いは終わった。もう、どこへも行かぬ」
その声は、驚くほど低く、穏やかだった。ヴェルチンシアの肩の力が、ふっと抜けた。 「本当……? 約束よ」
「ああ。我に二言はない。……いや、この……ク、クォートレットに二言はない」
言い直したガークに、俺は心の中で親指を立てた。ナイスだ、ガーク。
ヴェルチンシアはガークの胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくったあと、安心したのか、やがてそのまますうすうと寝息を立て始めた。
興奮のあとの虚脱。あるいは、溜め込んでいた感情を吐き出したことによる安堵か。 「……コタロー。どうすればいい」
ガークが困った顔で囁く。
「ベッドに運んであげよう。オフィリアさん、寝室は?」
「あ、はい! こちらへ」
ヴェルチンシアを寝室のベッドに寝かせ、彼女が深く眠りについたのを確認してから、俺たちは居間に戻った。
オフィリアが改めて、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。あのような安らかなお顔で眠りにつかれたのは、久しぶりでございます」
「いや、俺たちはその場しのぎの対応をしただけっすよ。……ガーク、悪かったな」
俺が水を向けると、ガークは腕を組んで窓の外の偽物の夕暮れを睨んでいた。
「……気にするな。あの婆さん、抱きついてきたとき、酷く震えていた。オレのじいちゃんが暴れたときと同じだ。なにかに怯え、混乱し、助けを求めている。種族は違えど、老いた者が抱える闇は同じなのかもしれぬ」
ガークの洞察力には時々ハッとさせられる。
「オフィリアさん。少し、此処の環境を変えてみないっすか?」
「環境、ですか?」
「はい。ヴェルチンシアさんが見ていた幻覚、あれはもしかすると、部屋の明るさが原因のひとつになっているかもしれません」
俺は天井を浮遊する蝋燭を指差した。
「あの蝋燭、綺麗ですけど、火が揺れすぎます。光と影が常に動いている状態は、健康な人でも目がチカチカするし、ましてや認知機能が低下している人にとっては、影が生き物に見えたりする原因になります」
「まあ……! エルフにとって魔力で灯す明かりは誇りでもありますので、良かれと思って……」
「分かります。でも、今はヴェルチンシアさんの安心が最優先です。夕方から夜にかけては、もっと光が安定した、影のできにくい照明に変えられませんか? 部屋の隅々まで明るくして、不安な影を消してしまうんです」
「はい、すぐに手配いたします。たとえば魔石を使った固定式のランプならば、揺らぎはありません。魔力のこもったそれなら、ヴェルチンシア様の矜恃も保たれることでしょう」
「それと」俺は言葉を継ぐ。「日中の過ごしかたです。昼間、うとうとしていることが多いと言っていましたよね」
「ええ」
「昼間に寝てしまうと、夜に眠れなくなるのは当然です。それに、なにもすることがないと、余計なことを考えて不安になってしまう。……だから、俺たちのところへ、遊びに来ませんか?」
「えっ?」
オフィリアがきょとんとする。ガークも「ほう」と片眉を上げた。
「『こもれびの杜』は、要するにそういう場所にしたいと思ってるっす。昼間、家に一人でいるのが不安な人や、退屈しているお年寄りが集まって、お喋りしたり、体を動かしたり、ご飯を食べたりする。そうやって昼間に活動すれば、夜は自然と眠くなるし、誰かと関わることで気分も紛れる」
いわゆる、デイサービスの利用提案だ。ヴェルチンシアは足腰もまだ立つし、会話もできる。ただ、孤独と記憶の混乱の中にいる。ならば、社会的な交流こそが一番の薬になるはずだ。
「でも……ジェインズの外へ出るのは……それに、使い魔の方々もいらっしゃるのでしょう?」
オフィリアの懸念はもっともだ。長い歴史のはざまで出来てしまった確執。それは俺がどうこう出来るようなスケールの話ではないのかもしれない。でも……。
「そこは、俺たちが責任を持ちます。ガークもいるし、カクスケだって、ヴェルチンシアさんに危害を加えるようなやつじゃない。それに、俺のばあちゃんもいます。同じくらいの……いや、年齢で言えばヴェルチンシアさんの方がずっと先輩でしょうけど、話が合うかもしれませんよ」
ばあちゃんと二千歳のエルフの老婆が畑仕事をして、切り株の椅子の上でお茶を飲んでいる様子を想像して、俺はなんだか心がほぐれるような気持ちになった。
「……ヴェルチンシア様が、外の世界へ……」
オフィリアはかなり長いあいだ迷っていたが、やがて決意したように顔を上げた。 「わかりました。あの方が少しでも心穏やかに過ごせるなら……。一度お話しをしてみます。ご了承をいただければ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんっす! 送迎は、うちの俊足自慢のガークが担当しますから」
俺がガークを見ると、彼は「フン、もたもた歩くと置いていくからな」と言いながらも、満更でもなさそうに肩をいからせた。




