第二部 序章②
ツヴァルザランの「主さま」が住んでいるのは、ダインズヴェルシュの居住区にある屋敷だった。
時計塔のある広場を通り抜け、街の北側まで歩いていく。元いた世界には、ヨーロッパという地域があったが、ダインズヴェルシュは、その中世の街並みを具現化したような建物が並んでいる。三角屋根の建物は縦に長く、観音開きの窓がいくつも並んでいる。
屋根裏部屋でもあるのだろうか、屋根の部分にも窓がついている。あれはたしか、「ドーマー」とよばれる設備だったか。ドーマーは採光、通気などの目的から設置されるもので、雨水の侵入を防ぐために、窓部分は地面と垂直に作られることが多く、屋根の一部を拡張したような見た目になると、本で読んだことがある。
「ありがとう、ここよ」
ツヴァルザランは一件の屋敷の前に立ち止まった。水色の壁、白い屋根。窓枠も白く、他の建物よりも太陽の光を浴びて輝いているようにみえる。
「うわあ! 綺麗な家ですね!」
カクスケは、建物を見上げて声をあげた。色彩的に、カモメと海を連想させるような屋敷の扉には「アマドキア」と表札が掲げられていた。
「よろしければ、御礼にお茶をご馳走いたしますわ」
ツヴァルザランが言った。この世界でも、なにかをしてもらった御礼に軽食を出すという習慣が根付いているのだと思うと、ちょっとおかしかった。
「かたじけない。ありがとうございます。コタロー殿、お言葉に甘えましょう」
「あ、ああ、そうだな」
俺たちはツヴァルザランに屋敷の中に招き入れられた。部屋の真ん中あたりにあった、テーブルに案内される。カクスケは本をテーブルの上に置き、俺のために椅子を引いてくれた。
テーブルは広く、椅子も八脚ある。それなのに、屋敷の中には人の気配が感じられない。なのに——。
「ツヴァルザランさん」
俺はキッチンに立ち、茶器を台の上に並べているツヴァルザランに呼びかけた。
「なにかしら」
「あなたの主さま……は、お年寄りですか?」
ツヴァルザランの手が止まる。不思議そうな顔をする。「ええ、それがなにか?」
さっきから屋敷内に漂っている臭い。——それは、尿臭だった。
聞けば、ツヴァルザランが仕える主、アマドキアは、寝たきりの老人だという。この屋敷はアマドキアのもので、彼の幼い頃から、ツヴァルザランはここに仕えていたらしい。
「主さまは普段から奥の部屋でお過ごしです」
俺の言葉でいえば、今いる場所はこの屋敷のリビングにあたる場所だろう。ここには靴を脱ぐ習慣というものはなさそうだから、上がり框はない。玄関扉から段差のない床が続いていて、奥にキッチン、そしてその隣の壁に扉がついている。ツヴァルザランの言った、奥の部屋とは、あの扉の向こうのことを指しているのだろう。
「さあ、お茶がはいりましたよ。お菓子もありますから、召し上がっていってくださいな」
コトリと食器とテーブルの触れ合う音がする。俺とカクスケの前に出されたのは、紅茶によく似た飲み物だった。
「いただきます」
俺とカクスケは、茶を飲んだ。温かい。ちょうどいい温度だ。カクスケは皿に並べられたクッキーに手を伸ばした。
「これは、ツヴァルザランさんがお作りに?」
クッキーは美味かった。ありがちな表現だが、外はサクサク、中はしっとりとしていて、口の中で甘さがほぐれていくようだ。
「ええ、主さまのおやつに……と思ってね。でも、たくさん作り過ぎちゃって、どうしたものかと思っていたけれど、良かったわ」
「御婦人、料理の腕が一段と上がりましたね」
「あら、そうかしら」
ツヴァルザランはまんざらでもない笑みを浮かべている。
「ええ、拙者も、コタロー殿に食事を作って差し上げたいのですが……、如何せん拙者にはそのような技量はなく……」
カクスケ……そんなことを考えていたのか。最近は筒原さんやばあちゃんが飯を作ってくれているし、俺も料理は出来るから、正直あまり必要としてはいないのだけれど、カクスケの気持ちが嬉しかった。
「ツヴァルザランさん、ごちそうさまでした」
お茶を飲み終えると、カクスケがせっせと食器を下膳してくれた。一息ついたところで、俺は立ち上がる。
「アマドキアさんに会うことはできますか? 折角ですから挨拶をしたいなと思って」
ツヴァルザランは食器を洗う手を止め、そうねと呟いた。
「主さまに確認を取って参ります」
ツヴァルザランが奥の部屋に引っ込んだあと、俺はカクスケに耳打ちをした。
「なあ、なんか匂わないか?」
「……それは、事件の匂いと仰りたいのですか?」
「ちげえよ! もっと現実的な匂いだよっ!」
「ハッ、たいへん失礼致しましたっ!」
ツヴァルザランたちに聞こえないようにと小声で囁いたのに、カクスケが大きな声で言うものだから、たぶん、奥の部屋にまで丸聞こえだ。
「変な匂い……というか……うーん」
「ロイメンの尿の匂いでしょうか」
「おい、けっこうはっきり言うんだな」
「言葉を濁していては、伝えたいことも伝わりませぬ」
それはそうだが。
「この屋敷に入ったときから、拙者の鼻には、尿の匂いが漂っていました。……しかし、拙者共使い魔が人様の家のことを自分から口にするのは禁じられておりまする」
カクスケは剥き出しの腿のうえに握りこぶしを作り、背筋を伸ばしたまま気まずそうに顔を伏せた。
ツヴァルザランが戻ってきたのは、そのときだった。
「皆様、主さまが、ぜひお目にかかりたいと」
こちらですと、ツヴァルザランが手招きをしたほうへカクスケと共に歩いていった。
「おお、ようこそおいでくださいましたな」
ベッドの上に仰向けになっているのは、爺さんだった。白髪頭で、顔中皺だらけ。ずっと寝たきりだからなのか、枯れ木のように痩せ細っている。体には布団をかけられていたが、手の先と足の先が隙間から覗いていた。
やはり部屋には、尿臭が漂っていた。それもけっこう鼻につく。それよりも壁一面の本棚が、まず目についた。読書が好きなのだろう。枕元にも何冊もの本が積まれている。
「わたしがアマドキアです」
アマドキアは、好々爺という言葉がぴったりの雰囲気だった。寝たきりでなければ、上質なジャケットを着て、ハットを被り、杖をついて街中を歩いていそうな、そんな幻覚がみえたような気がした。
「アマドキア殿、拙者は使い魔のカクスケです。こちらは拙者の主さま、コタロー殿であります」
カクスケが俺の代わりに自己紹介をしてくれたので、俺はアマドキアに向かってぺこりと頭を下げるだけにとどまった。
「ご主人さま、この方々はわたくしが噴水広場で転倒してしまったときに助けてくださったんですよ」
「そうですか、そうですか。いやあ、それなら、ツヴァルザランの命の恩人、というわけですな」
「そんな大袈裟なもんじゃないっすよ」
「大袈裟なもんですよ。コタローさんがあそこを通りがからなければ、わたくしはいまもあそこに尻餅をついたままだったかもしれませんからね」
たしかに、立ち上がるのもままならない状態であったから、俺たちが駆けつけなければ、しばらくはあのままの状態で放置されていたかもしれない。
「まあなんにせよ良かったよ。怪我もないようで」
「それがねえ」
ツヴァルザランはそう言って、腰のあたりをさすり始めた。「なんだか少し腰が痛いのよ」
「それいけませんっ!」
俺よりもはやく反応したのは、カクスケだった。
「最初はなんともないと思っていたんだけどねえ、時間が経つにつれて、段々と痛みはじめたんだよ」
「立っていてはだめです、すぐに横になってください!」
慌てふためくカクスケに気圧されて、ツヴァルザランはすとんと椅子に座った。
「最初は大丈夫だと思っていても、症状があとからでてくることもある。結果的になにもなかったとしても、いまはしばらく安静にしておくにこしたことはない」
ツヴァルザランは転倒したとき、あの体勢をみるに尻餅をついたに違いない。地面は硬い石畳だ。もしかすると、折れてはいなくとも腰の骨にヒビが入っているかもしれない。
「でも、わたくし……主さまのお世話もあります……」
途端にしおしおとしぼんでしまったように元気がなくなるツヴァルザランに、俺はひとつの提案をする。
「ツヴァルザランさんが療養しているあいだ、俺たちが代わりにその役割を担うというのはどうでしょうか」




