5.因果律の回廊の中で
「いやー、相変わらず盛り上がるね。陽子君とジェイムズ君の賭けは」
エリオットが、机の上に無造作に置かれた書物の山を避けながら椅子に腰を下ろし、楽しげに言った。研究室には古い紙とインクの香りが漂い、窓から差し込む柔らかな午後の陽光が、乱雑な本や資料の間に温かな影を落としている。
「見てたんですか、師匠。結果は既に知ってる癖に今回も見物に来てるなんて」
陽子は、手にしていた本を閉じながら呆れたように言った。それはエリオットが密かに書いた、暗号化された彼の時魔術が記された魔術書だった。
それは全てを理解するのに五百年、その全てを完全に会得するのに更に五百年はかかりそうな代物だ。周回を繰り返して千年以上の時を生きていても、まだ全てを解き明かせていない。
「勿論だよ。この周回する三年間で起きる出来事ってのは大体覚えているが、食堂での君とジェイムズ君の賭けはいつ見ても楽しいと感じるよ」
「……私があのジェイムズ君と付き合うのに期待してたりしません?」
陽子が冷たくあしらうように言うと、エリオットは肩をすくめた。
「ありゃりゃ、今回も付き合う気が無いんだな陽子君は。つまらないねえ」
「師匠も懲りないですね」
エリオットの研究室で、陽子は師匠の揶揄いに呆れながらそう返す。
「でもねえ……ほら、君の話だとジェイムズ君って他の女の子と付き合ったり別れたりもしながらも結局歳を取って性格が落ち着くまでは一年に一回くらい君に迫って来る未来になるんだろう? だったらさ、一回くらい付き合ってあげれば彼も満足するんじゃないかな? 未来にはあまり影響しないんだろう?」
「またそうやって無責任に面白がって……ハッキリ言って彼は何だかんだモテる方ですから。逆を言えば付き合わなくても、彼は義理堅く私に協力してくれる未来に辿り着くんですよ」
「なるほど。じゃあ、とりあえず一回くらいデートだけでもしてあげれば良いじゃないか? ほら、恋愛は無理でも遊びに行くくらいは良いんじゃないかなあ?」
「……私の精神年齢、今1000歳を超えてるんですよ? 今のジェイムズ君は18歳です。今の私の国だと彼は未成年なんです。いわば子供ですよ。おばあちゃんとひ孫感覚を軽く超える犯罪臭ですよ?」
「でも、未来の日本では成人扱いなんだろう? それに彼、イギリス人だから18歳はもう成人だよ。ほら、君も今は19歳だろう? 久しぶりのティーンエイジを楽しむのも悪くないんじゃないかい?」
「余計なお世話です。本当、師匠はこの手の話になるとあー言えばこー言うんだから。……そんなに私の事が好きですか?」
「ああ、好きだよ。君は私の人生の中にで最高の生徒で最強の弟子だからね。陽子君ほど優秀な魔術師は他にいない」
「……そうですか」
陽子は溜息をつくと、研究室の窓の外へと視線を向けた。そこには、広々とした魔術学院のキャンパスが広がっている。学生たちが芝生の上で談笑したり、魔術の訓練をしている姿が見えた。青々と茂る木々の間を風が吹き抜け、光の波が葉を揺らす。
「あの、師匠……」
陽子が言葉を漏らす。
「ん? なんだい?」
エリオットが答えるのに、胸の中でつかえていた思いを思わず吐露する。
何度なく聞いたあの質問だ。
「師匠は……やっぱり自らの死の運命は回避しないんですか?」
「ふーむ……?」
聞かれ、エリオットが机の上の資料から視線を上げて天井を見上げる。
「そうだねえ、未来で君が開くっていうメイドカフェ? っていうのには興味があるんだけどね」
笑って、言う。
「でも、私が生きていたら君は多分日本に戻らないんだろう? それじゃあ、どうしても私は君の開いたお店に行けないからねえ」
「それはそうですけれど……。だったら、幽霊にでもなって私のお店にご帰宅してくださいよ」
「それじゃあ、やっぱり私は死んじゃった方が良いのかなあ。君が日本に帰ってくれるからね。あ、それだと君にケチャップで絵を書いて貰った──アレだ。ほら、オムレツを乗せた奴さ」
脳裏で言葉を探そうとするエリオットに陽子が口を挟む。彼には馴染みの無い食べ物だ。無理もない、あの料理は日本発祥の洋食だからだ。
「オムライスですね」
「そう、オムライス。そのオムライスとやらが私は食べられないじゃないか。それとも今から作ってくれて、『萌え萌えきゅん』っておまじないをやってくれるのかい?」
「随分と未来的な発言ですね。師匠が生きてる内に作ってあげる気も無ければおまじないをする気もあんまり無いですよ? アレはそういうエンターテインメントなんで。……まったく、師匠は時々めちゃくちゃな事を言いますよね。楽しんでるんですか? 命は大事にしてください」
「それを言ったら僕らはお互いにそうなんだけどねえ。ほら、君は何回僕の葬式を見送ったか、君は未来で何回死んだかって話になってしまいそうだしね」
「……それはそうですど」
陽子は溜息をついて、椅子の背にもたれた。窓の外には、夕焼けが差し込んでいて、キャンパスの木々が朱色に染まりつつある。
「……こうやって、師匠とくだらない話をできてても、今回の周回でもあの日になったら……またできなくなるんですね……。そう思うと、少し寂しいです」
その言葉は、冗談めかした先ほどまでのやり取りとは違い、ぽつりと心の奥底から零れ落ちたような声音だった。
エリオットは少しだけ視線を外し、静かに笑う。
「まあね。……私は約六年間を繰り返してるだけだから、君のように本当に本当に長い年月を過ごしてから周回が終わるわけじゃない。次の周回が始まっても多少の日々を過ごしてればまた君に再会できる。でも、君はここからが長いからね。……そうだな、そう思うと寂しいよ」
「大丈夫ですよ。だって、師匠は私に会えるのなんて周回が始まったらせいぜい多くて二年後くらいじゃないですか。それに私にとって、二十年後は意外とあっという間の感覚ですよ」
「……そうだな。君にとっては、二十年なんてあっという間か」
エリオットはそう呟くと、陽子の頭を撫でた。
「じゃあ、僕が死んだらまた次の周回でもちゃんと会ってくれよ?」
その言葉に、陽子は小さく笑った。けれどその瞳には、どこか影が差していた。
窓の外で、風が吹いた。木々がざわめき、落ち葉が舞う。陽子は目を細めた。
今から三年半後。
陽子が正式に魔術協会の研究職となり、再びこの研究室に戻ってきてから半年後──エリオットは何者かによって殺される。
それが、どの周回でも変わることのない未来。どれだけ足掻いても、避けられなかった運命だった。
何度もその死を止めようとした。あらゆる可能性を潰してきた。それでも──結末は、いつも同じだった。
因果律が、彼の生存を拒んでいるのだ。
「……師匠」
陽子はゆっくりと、視線を戻す。
エリオットは窓から差す光に照らされながら、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
まるで、自分の死すら受け入れているかのように。
「何だい?」
エリオットが軽く首を傾げる。陽子は一瞬、迷った。だが、口にしてみる事にした。
「未来では、教授と呼ばれる幹部魔術師……エドワード・クロウリーが黒幕だという事が聞き出せたという話は前の周回で話したと思うんですが……」
「ああ」
「このエドワード・クロウリーという男に心当たりありますか? その、師匠が殺されてしまう事に……」
エリオットは一瞬考え込み、そして静かに首を振った。
「名前は知らない。でも、教授と呼ばれた幹部魔術師ならば、かつて協会に存在していた」
陽子の目が細まる。
「彼の名は……いや、記録から抹消されたか。だが、禁忌魔術を研究し、魔術協会にとって最大の異端とされた男だった」
「その人物とエドワード・クロウリーに何か関係が……?」
「わからない。でも、もし私の知る彼と繋がりがあるのなら──陽子君、君の戦いは想像以上に厳しいものになるだろうな。そんな気がするよ」
エリオットの言葉が、静かな研究室の中で重く響く。
「それはどういう──」
陽子が言いかけるが、それを止めるようにエリオットが人差し指を唇に当てる仕草をすると言った。
「時の周回を繰り返してるとね、必要以上に知らなくて良い事も知ってしまうだろ。僕は君のノイズになりたくないのさ」




