4.黒の姫君と忠犬⊕
「黒の姫君! お、俺と付き合ってください!」
一年後、陽子が魔術学院の校舎を歩いていると、突然背後から声をかけられた。
これも魔術学院にいる時の、二年になったら自分の身に起こる恒例行事だ。声の主はもうわかっている。
振り返ると、そこには緊張した様子の男子生徒が立っていた。
金髪をオールバックにし、整った顔立ちをしているが、今はその頬が赤く染まっている。
精悍な印象とは裏腹に、ぎこちなく握りしめた拳がわずかに震えていた。
ジェイムズ・ウィルソン。
未来では落ち着いたダンディな男性となる彼も、今はまだ初々しい青年に過ぎない。
「……誰?」
実際には知っている相手だが、陽子は敢えてそう尋ねる。
ジェイムズの顔が一瞬驚きに歪み、すぐに慌てたように名乗った。
「お、俺はジェイムズ・ウィルソンです! その……貴女のことが一目見た時からずっと好きでした!」
陽子は「ふーん」と気のない相槌を打ちながら、彼の様子を観察する。
背筋はピンと伸び、目には真剣な光が宿っている。
学院内でも優秀な成績を誇るジェイムズ・ウィルソンは、決していい加減な気持ちで告白しているわけではないのだろう。
だが──
「お断りします」
陽子がにっこりと微笑んで答えると、ジェイムズは信じられないという表情を浮かべた。
「な、なんでですか!?」
「だって私、お兄ちゃん以外の男の人に興味ないもん」
ジェイムズの表情が固まる。
その瞳がほんのわずかに揺らぐのを、陽子は見逃さなかった。
(まあ、ジェイムズさんの運命の人は彼の未来の部下である姫咲家の子なんだけど……)
彼の未来を知っている陽子は、少しだけ申し訳なく思いながらも、内心で肩を竦める。
しかし、ジェイムズは諦める気はないようだった。
「で、でも! 俺は貴女が好きです!」
その言葉に、陽子の瞳がわずかに冷えた色を帯びる。
「……しつこい男は嫌われるよ」
ピシャリと言い放つと、ジェイムズは肩を落とし、寂しそうに去っていった。
(えーと、あのジェイムズ君にあと何回告白されるんだったっけ?)
陽子は頭をかしげ、未来の記憶を探る。
少なくとも五十回は告白されていた気がするが、詳しい回数までは思い出せなかった。
以前の周回の時に気まぐれでジェイムズの告白を一度受けてみたこともある。
だが、その時もやはりその気にはなれなかった。
(……まあ、どうせ長い付き合いにはなるのわかってるし、揶揄って遊ぶのも面白いんだけど……)
しかし、それでも陽子の中にある想いは変わらない。
(でも、やっぱりお兄ちゃん以外は眼中にないんだよね)
小さく溜息をつくと、陽子は再び歩き出した。
◆
魔術学院での生活は、特にこれといった変化もなく淡々と過ぎていく。
学院には友達と呼べる相手もいないが、煩わしい人間関係に悩まされることもないので気楽なものだった。陽子にとって大切なのは、繰り返してきた運命の改変を実現させることであり、それ以外のことは取るに足らない些事に過ぎない。
しかし、そんな彼女に対して、熱心にアプローチしてくる相手がいた。
その中には、彼女を追いかけてエリオットのゼミに入ってきた後輩、ジェイムズも含まれている。
中でもジェイムズの告白は、もはや学院の風物詩となっていた。
彼は陽子に告白し、断られ、落ち込み、そして立ち直る——
それを、まるで儀式のように繰り返していた。
学院の生徒たちは、そんな彼を半ば面白がるように「黒の姫君の犬」と呼んでいた。
どれだけ跳ね除けられても懲りずに付き従う様子は、まるで忠犬のようで、もはや哀れみすら通り越して愛嬌のある存在になっていた。
「黒の姫君」という二つ名が学院に広まったのも、このジェイムズとのやり取りがきっかけだった。
もっとも、最初に彼女をそう呼び始めたのは若き日のジェイムズ本人だ。
しかし、その名が定着した理由はそれだけではない。
彼女の魔術は、まるで未来から答えを持ってきたかのように的確で、予測の域を超えていた。
魔術戦においても、陽子は常に相手の一手先を読むように動き、まるで盤面全体を俯瞰しているかのような精密な戦術を展開した。
その異質さは畏怖を生み、やがて「黒の姫君」という神秘的な異名が定着することとなる。
さらに、陽子に告白する者は後を絶たなかった。
名門の貴族家、天才的な魔術師、次期魔術協会幹部候補と目されている学生——学院の錚々たる面々が次々と彼女に想いを寄せた。
しかし、陽子は一貫してそれらを断り続けた。
彼女の冷ややかな態度、誰の手にも落ちない孤高の存在、魔術の才、そして普段から着ているゴシックドレス——
それらが相まって、陽子は学院内で「黒の姫君」として語り継がれるようになった。
昼食時の食堂は、学生たちのざわめきと食器が触れ合う音で賑わっていた。
そんな中、皆が聞き慣れた一つの犬の鳴き声が食堂全体に響き渡る。
「黒の姫君! 俺と付き合ってください!」
陽子は食堂で注文した昼食を受け取り、トレイを持ったまま振り返った。
食堂の入り口近くには、金髪の少年——ジェイムズが、真剣な眼差しで立っていた。
「……懲りないね、ジェイムズ君」
彼女はわずかに呆れたように眉を上げた。
周囲の学生たちは苦笑しながらその様子を見守る。
「あぁ、またか」と言いたげな表情を浮かべ、何人かはジェイムズを指さしながら笑っている。
「また黒の姫君の犬が吠えてるよ」
「懲りないな、ほんとに」
「もうあれ、ヨーコ様の儀式みたいなもんだろ」
学院の生徒たちにとって、これはもはや日常の一部だった。
ジェイムズは周囲の反応など気にも留めず、一歩前に踏み出すと大きく息を吸い込む。
「俺は貴女のことが好きです! 本気です!」
「はいはい。でも、何度告白したって答は変わらないって、もうわかってるでしょ」
陽子は淡々とした口調でそう告げた。
その声には冷たさすら感じられるが、ジェイムズはまるで懲りる気配がない。
むしろ、彼女の一言一言が彼の情熱に火をつけるのか、前のめりに詰め寄ろうとした——
しかし、その瞬間。
陽子はトレイをテーブルに置きながら、ふっと意味深な笑みを浮かべた。
「じゃあ、そんな熱心過ぎるジェイムズ君にチャンスをあげようか」
「……チャンス?」
予想外の言葉に、ジェイムズが戸惑いながら首を傾げる。
陽子は、彼の動揺を楽しむようにゆっくりと席につき、手を組んで話し始めた。
「私は君の運命の人を知ってるんだよ」
「……え?」
「でも、私はそれを教えるつもりはないし、その気もない。だけど、君は今のままじゃ私に執着しすぎているからね」
食堂のざわめきが少しだけ落ち着く。陽子の言葉に興味を持った学生たちが、耳を傾け始めているのがわかった。
「だから、賭けをしようか」
「……賭け?」
「そう。今から五分後をスタートとして、そこから食堂に入ってくる学生二十人を当てる。私が一人でも外したら君の勝ち。君の告白に応じようか」
「……逆に全部当てたら?」
「私の勝ち。その時は、君に私の言うことを二つ必ず実行してもらうよ」
陽子がさらりと言うと、ジェイムズはわずかに眉を寄せた。
「……それって、貴女は魔術を使うってことですか?」
「ううん、私は使わないよ」
「……妨害は?」
「好きにしていいよ。伝心魔術で友達やゼミの仲間をけしかけてもいいし、他の学生を買収するのも自由」
陽子が肩をすくめて言うと、ジェイムズはごくりと唾を飲み込んだ。そして、決意を固めたように強く頷く。
「わ、わかりました!」
「じゃあ、スタートね」
陽子は余裕の表情で、時計を確認しながら最初の名前を口にした。
「グリフォン寮の、デイブ・パーカー君」
すると、食堂の入り口からデイブ・パーカーがちょうど入ってきた。
「せっ……正解です!」
ジェイムズが驚きながら叫んだ。
◆
ジェイムズと陽子の賭けが始まると、食堂内は一気にざわめき立った。
「え、なになに? 黒の姫君とジェイムズが賭けしてるの?」
「黒の姫君の犬がまた無謀な挑戦してる……いや、でも今回はヨーコ様が乗ったぞ!」
「五分後に入ってくる学生を全部当てる? そんなの無理だろ……いや、あの人なら……」
学生たちは興味津々で耳を傾け、食堂の奥に座っていた者たちも次々と立ち上がり、食堂の入り口がよく見える位置に移動し始めた。誰もが、魔術も使わずに未来を見通すような陽子の実力を目の当たりにできるこの瞬間を見逃したくなかった。
「ほらほら、お前もこっち来いよ!」
「いや、俺は昼飯食ってるんだって……え、マジでやるの? しゃーねぇ、見届けるか」
陽子が一人目の名前を告げ、まさにその瞬間、デイブ・パーカーが食堂の扉を開けた時、食堂全体がどよめいた。
「おおおおお!?」
「いや、たまたまじゃね? 偶然ってこともあるし!」
だが、二人目、三人目と名前を当てるたびに、周囲の学生たちは目を丸くし、次第にどよめきが歓声へと変わっていった。
「……まじかよ」
「おいおい、これ、ガチで全部当てるつもりじゃね?」
「ジェイムズ、今すぐ賭けを取り消したほうがいいって!」
ジェイムズが必死に伝心魔術を使って食堂に入るメンバーを変えようとするが、それすらも陽子にはすべて見抜かれていた。
「ほら、また正解」
「うそだろ!? なんでわかるんだよ……」
観客たちは完全に賭けに夢中になり、今や陽子とジェイムズのやり取りに食堂全体が飲み込まれていた。何人かの学生は、状況を記録しようと伝心魔術で友人たちに実況し始める。
「陽子様、やばすぎる……」
「もはや魔術とかじゃなくて、あれは未来視だろ……」
「いや、あの予言は本人曰く魔術は使ってないらしい……根拠は不明だが、とにかく当たるんだ」
「ジェイムズ、まじで犬のまま終わるぞ!」
そして、ついに二十人目。
「二十人目。フェアリー寮の一年、ツバサ・ヒメサキ」
ジェイムズの運命の人になる姫咲かりんの叔母にあたる人物だった筈だ。だが、わざわざそんな事を伝えるまでもない。
陽子が名前を口にし、まさにその瞬間、食堂の扉が開くと、ジェイムズの顔が真っ青になった。
「せ、正解……です」
次の瞬間、食堂全体が爆発したかのような歓声と笑い声に包まれた。
「うわぁぁぁ!! マジかぁぁぁ!!」
「ヨーコ様、すげえええええ!!」
「ジェイムズ、もう一生勝てねぇよこれ!」
誰もが興奮し、机を叩いたり、拍手を送ったりする中、ジェイムズは完全に力尽きたように肩を落とし、陽子は満足げに微笑んだ。
◆
「じゃあ、約束通り……私の言うことを二つ聞いてもらうよ」
「わ、わかりました……」
ジェイムズは敗北を認め、うなだれながら答えた。
陽子は微笑みながら、指を一本立てる。
「まずは、一つ目。一年間は私への告白は禁止」
「……っ!」
ジェイムズは彼女の要求に目を見開いた。
周囲の学生たちも「おお……」とどよめいた。
「な、なんで……」
「そんなの簡単。ちょっとは他の事に目を向けて欲しいから、かな」
陽子はさらりと言いながら、もう一本指を立てる。
「そして二つ目……」
ジェイムズが固唾を呑んで待つ。
「君は学院を卒業したら奇跡管理部の構成員になること。そして、日本の名古屋に来ることになったら、私に会いに来て」
「……は?」
ジェイムズは思わず聞き返す。それに陽子が続ける。
「その頃には、私は名古屋でメイドカフェのオーナー店長してるから」
陽子の口から唐突に飛び出したワードに、ジェイムズはぽかんと口を開けた。
「な、名古屋? メイドカフェ?」
ジェイムズの間抜けな声に周囲で聞き耳を立てていた学生達がどっと笑い声を上げる。その様子を尻目に陽子は淡々と言葉を続ける。
「恋愛は無理だけど、君とは長い付き合いになるの知ってる。それに君は義理堅い男だって知ってるからね」
陽子は優しく微笑みながら、すっと手を差し出す。
「……だから、私に関わることで君を巻き込み続けるけど、これからもよろしくね」
ジェイムズはしばらく言葉を失っていたが、やがて苦笑しながらその手を取った。
「……もう、運命がどうとか、訳が分からないですよ……よろしくお願いします」
手を取るジェイムズの顔は嬉しそうだった。
「でも──」
ジェイムズが苦笑しながらそう続ける。その次に言う言葉は陽子にはもうわかっていた。
「一年後、絶対告白しますからね!」
陽子は、その言葉を聞いて、小さく笑った。
「もちろん、その時も断るけどね?」
彼女はそう言い残し、再び昼食へと向き直った。
——こうして、学院の名物とも言える「黒の姫君の犬」は、一時的にその鳴き声を封じられることとなった。




