2.英国留学前夜⊕
──これは、今回の周回が始まった瞬間からの話だ。
香月へ施したReinrevert《輪廻遡行》がついに完成した事を知り、そしてその周回は緑区にある魔術協会の邸宅で、イヴが肉体を奪われた。その後、夜咲く花々の廷の面々と生き残った魔術協会中部支部の構成員達と共に、始祖人類の肉体を奪い覚醒した魔術師に立ち向かった。しかし、圧倒的な力の前に陽子はまたしても命を落とす。
そうして二十年後の未来から意識が戻った途端、陽子は自分が再びかつて過ごした時間の中に立っていることに気が付いた。
「お兄ちゃん、朝だよ」
意識がはっきりしたのは、その言葉を自然と口にしていた瞬間だった。思わず、胸の奥が疼いたのがわかった。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、畳にやわらかい光の帯を描いている。窓の外からは、遠くで走る電車の音と、鳥たちのさえずりが聞こえていた。
見慣れた木造の天井、微かに漂う日焼けした本の香り。
すべてが、かつて確かに存在していた「日常」だった。そう、ここは静岡県にある、自分がかつて過ごした家だ。
視線を移せば、自室の前に大きなキャリーバッグが置かれている。イギリスの魔術学院へと留学するために、この日の数日前から準備を重ねていたものだった筈だ。
つまり、今回の周回は──あの旅立ちの直前から始まった、ということだ。
ふと、部屋のドアが軋んだ音を立てて開かれる。
「ん……おはよう、陽子……」
寝癖をつけたままの兄・史文恭介が顔を出した。眠そうな目をこすりながら、欠伸混じりにぼそりと挨拶する。
手にした眼鏡を徐にかけて目を細める兄の姿。この頃はセルフレームの眼鏡をつけていた。そんな若い兄の姿は陽子にとってこの上ない──
一番好きな兄の姿だ。
(……懐かしい)
心の中で、何かがぶわっと込み上げてきた。
未来の彼は、父親として落ち着いた雰囲気を纏い、鋭さと優しさを併せ持つ顔つきに変わっていた。
だが今目の前にいるのは、まだどこか幼さと頼りなさを残す……世間的にはよく居る普通の大学生だった。それでもこの時期の兄は陽子にとっては「特別な時間」の中にいる存在だ。
たった数秒のやり取りだけで、涙腺が危うくなるのを感じる。
この頃の兄は、すでに恋人と付き合っていたが、まだ結婚はしていない。
未来を知る彼女にとって、この時間は儚く、そして尊いものだった。
(──本当は、もっと、ずっと一緒にいたかったんだ)
しかし、それは叶わぬ願いだ。
彼には彼の人生がある。それに、陽子には果たすべき使命がある。
未来で起こる出来事を変えるために、この周回でより自分の魔術を洗練させなくてはならない。
──だからこそ、今だけは。
陽子は、ごく自然な口調で言った。
「お兄ちゃん、また夜更かししてたでしょ? ちゃんと寝ないと、お肌荒れちゃうよ〜?」
兄は軽く苦笑しながら、頭をくしゃりとかいた。
「まあな……でも、お前の旅立ちが今日だから、ちょっと考え事しててさ」
「え?」
「やっぱり寂しくなるなって思って」
──やめてよ、そんな顔しないでよ。
兄の優しさが、言葉以上に伝わってきた。その表情を見ただけで、胸が締めつけられる。
(……この顔、もう未来では見られなかったんだ)
彼は、大切な人と共に歩を進めていく。
幾度となく周回が繰り返されようとも、兄の人生は定まっているのだ。
だからこそ、せめてこの「今」だけは──全力で甘えたかった。
陽子はクイッと兄の腕を掴んで、笑顔でねだる。
「ねえ、お兄ちゃん。私も寂しいからお兄ちゃんの物、何か頂戴!」
「ん? 何が良いんだよ?」
どこか呑気な返事を聞いて、陽子はふふっと笑う。そうして、いけしゃあしゃあと要望を口にする。
「じゃあ、お兄ちゃんの脱ぎたてのパンツ!」
「……は?」
「だーかーら、お兄ちゃんの匂いがたっぷり染み込んだパンツ! それがあれば、イギリスでも寂しくないから!」
「いや、何言ってんの?」
「ジップロックに入れて真空パックにして、枕の下に仕込んで寝るんだよ! 辛いことがあったら取り出してクンカクンカスーハースーハーするの!」
「やめろ変態!!」
兄が慌てて距離を取るが、陽子は真剣な顔で続ける。
「じゃあ、お兄ちゃんが今履いてる靴下で!」
「なんでそこにいくんだよ!!」
「だって、それでもお兄ちゃんのエキスはあるんだもん!!」
「やめんかい、この変態!」
兄が全力で拒絶するが、陽子は一歩も引かない。
「えー! ケチ! いいじゃん! どーせどこかのタイミングで脱ぐんだから、今脱いで私にくれてもいいじゃん!」
「いや、そういう問題じゃないわ!」
こんなやり取りをしているが、彼女は至って理性的な思考を持っていた。
未来を知り、冷静に物事を判断し、時には非情な決断も下せる。
だが──兄に甘える時だけは、根元の理性などやはり吹き飛んでしまう。
冷静に、しかし兄が大大大大大好きであるという走る気持ちに任せて、彼を揶揄い、彼に我儘を言い、甘えるのだ。
陽子はバッと兄に向かって両手を広げた。
「じゃあ、せめてハグさせて!」
「……それくらいなら」
兄が渋々了承すると、陽子は勢いよく飛び込んだ。
彼の体温、鼓動、微かな清涼感のあるシャンプーの香り、ほんの少しだけ感じる寝汗の臭いも。
すべてがあの頃の兄だ。人形じゃない、本物だ。
(──ああ、これだ。私が欲しかったのは)
思わず兄を強く抱き寄せて、その胸板に鼻を擦り付けるようにして息を深く吸ったり吐いたりしてしまう。
そう、これは叶わぬ恋なのはわかっている。兄の運命の相手はもう知っているから。
それでも、いつまでも続くような時の無限回廊を進み続ける辛い道中で、ひと時の癒しを求めることくらい許されるはずだ。
ただ、こうして甘えられる体験があるだけで──
陽子は満足そうに目を細めながら、思った。
(……でも、お兄ちゃんの使用済みパンツはあったら嬉しいな。今回の周回、それだけで頑張れると思うんだけどな……)
そんな妄想を抱きながら、兄の履いてるズボンを下ろそうとそっと手を伸ばした瞬間──
「お前、何やってんだぁぁぁ!!!」
思い切り怒鳴られた。




