1.輪廻を越えて
時系列は時の回廊編第23回の直後のお話です。
陽子の回想エピソードとなります。
これは、古代魔術師が始祖人類の先祖返りの肉体を奪うことを阻止され、香月たちによってその野望が打ち砕かれた──まさにその当日の話だ。
ジェイムズからの報せを受けて、陽子は保護していたイヴを香月の事務所へと送り届けた。その後、自身の魔術工房でひとり静かに、遠くを見つめていた。
「……そうか。少年はちゃんと未来を変えてくれたんだ」
小さく、しかし深く噛みしめるように陽子は呟いた。
それは、長い年月を賭してようやく繋がった希望が、次の世代へと渡された瞬間だった。
かつて、魔術学院の研究職に就いていた頃、彼女は師であるエリオット・ペンデュラムからある魔術を託された。
それは未完成の大魔術Reinrevert《輪廻遡行》──意識のみを過去に遡らせるという、因果律に干渉する禁断の術式だった。
師の死後、陽子はイヴが肉体を奪われて世界が崩壊を迎える未来を回避するのに尽力する傍らでその術を自らの手でどうにか完成へと導いた。だが、その代償は余りにも大きかった。
試行錯誤を繰り返す中で、陽子は五十回以上、二十年分の時間を何度もやり直してきた。その体感時間はすでに千年を超えている。
もし、「大神香月」という因果律に縛られにくい特異点を見つけられなかったら。
もし、彼に施した試験段階のReinrevert《輪廻遡行》が失敗していたら。
幾度も繰り返された年月の中で、陽子の精神が保たれていた保証はどこにもなかった。
実際、香月が存在しない世界線は数えきれないほどあった。
それでも、陽子は諦めなかった。信じ続け、賭け続けた。
そして今、その魔術が初めて他者に成功し、希望が現実となった──イヴの肉体が奪われなかった世界線。それが今であるという事実が、陽子の心を救っていた。
だが、まだ終わりではない。
世界の崩壊に繋がる火種は、なお各地にくすぶっている。ようやく真に頼れる協力者を見つけただけにすぎない。
言うなれば、ようやくスタートラインに立ったに過ぎないのだ。
「このループの二十年間だけでも、いろんなことがあったけど……本当に、長かったなぁ」
ぽつりと零した独白には、言葉にできぬ重さが滲んでいた。
エリオットから施されたReinrevert《輪廻遡行》には安定性がなく、死後に戻る時代も一定ではない。今回は、二十三年前──自分が高校生だった時代に戻るところからの再スタートだった。
青春というにはあまりにも退屈な日々。
すでに精神年齢は千年を超えており、陽子の中で「少女の時間」はとうに終わっていた。
──いや、ある時代だけは、違った。
それは高校卒業前の時代。大好きな兄がまだ結婚前で、イギリスへの留学も控えていた、平穏で柔らかな時間。
それだけは、彼女の中で今なお色褪せることのない記憶だった。
「大学生のお兄ちゃん、可愛かったなぁ……」
懐かしさに目を細めながら、陽子はそっと手を伸ばし──
秘蔵の「大学生時代の兄」を模して作った等身大の骨肉魔術人形を抱きしめた。
「はぁ……お兄ちゃん、可愛い……また、あの頃に帰りたい……」
頬ずりしながら、陶然とした声で呟く。
けれど、目の前にいるのは兄その人ではない。どこまで精巧に作ろうと、それはただの魔術人形だ。
本物の兄はすでに家庭を持ち、子供もいる。
魔術師の世界とは無縁の、ごく普通の幸せな人生を歩んでいる。
「……でも、そうも言ってられないか」
名残惜しそうに人形を手放し、その髪をそっと撫でると、陽子は空間跳躍魔術を発動し、それを元の保管場所へと戻した。
「自分で決断して師匠に頼んだことだけど……まさか、二十年間を五十回以上も繰り返すことになるなんてね……」
自嘲するように笑いながら、陽子は目を伏せた。
それでも、その繰り返しの果てに得た希望がある。
エリオットもまた、同じように何度も時間をやり直し、最後に陽子へ希望を託してこの世を去った。
「エリオット師匠……随分と時間がかかってしまいましたが、やっと一歩を踏み出せそうです。どうか、見守っていてください」
遠く、誰かの魂がいるかのように空を見つめて、陽子は静かに祈った。
長い長い道のりだった。だが、香月へのReinrevert《輪廻遡行》が成功し、未来が変わったという事実は陽子にとって救いであり希望だった。
それは、かつてエリオットが陽子に託してくれた希望のように──




