26.ただいま、日常⊕
『いや〜、でもボクもちょっと行ってみたかったんだよね〜』
店を出て夕暮れの商店街を歩き出した途端、クレアが上機嫌な声を弾ませた。西日がガラス窓に反射し、朱色の光が路地に帯を引いている。
『日本のサブカルチャーの代表のひとつみたいな物じゃん? 英国ではあんまり馴染みがないから』
その明るさに、香月はつい苦笑してしまう。
「まあな……」
クレアはうんうんと頷きながら、まるで何かを反芻するように話を続けた。
『それにあの制服は可愛かった……非常に良いヴィクトリアンスタイル……。ボクのコレクションに加えたい』
「あー……」
香月はまたも苦笑で返した。確かにイヴと霧島麗奈が着ていた制服は洗練されたデザインで、確かに目を引く美しさがあった。だが——。
「いやでもさ、お店の制服を個人のコレクションに加えたいとか言い出すのは、ちょっとどうなんだ……」
香月が少し呆れたように言うと、クレアは眉をひそめながらも即座に反論した。
『いいじゃん! ボクの趣味なんだから』
それを聞いた香月は思わず肩をすくめた。趣味というのは確かに人それぞれだ。そこにケチをつけるのは野暮というものか。
「でも着てみたいならさ、いっそアルバイトすりゃ良いじゃないか」
「それも悪くないけどね。でも今は他にやりたい事があるし……」
クレアはほんのわずかに視線を落とし、何かを考え込むような素振りを見せたが、すぐに顔を上げた。
「ま、とりあえず次来た時にでも他にも制服あるみたいだし、チェキでたくさん撮って貰おうかな……」
普段は感情を表に出さないクレアの顔に、珍しく柔らかな笑みが浮かんでいた。その明るさに、香月は思わず目を細める。しかし同時に、どこか胸の奥で引っかかるような不安がよぎった。
(……なんか、今日はやけに機嫌がいいな)
だが、それも彼女が楽しんでくれるなら——そう思い直した時だった。
ポケットの中でスマホが震えた。
反射的に取り出すと、画面には「イヴ」の名前が表示されている。
「ん?」
少し驚きながらも、香月は通知を開いた。
『香月君、来てくれてありがとう! 会えて嬉しかったよ! でもあんまり話しかけられなくてごめんね』
読みながら、香月の口元に自然と微笑が浮かんだ。胸の中に、柔らかな温かさが広がっていく。
——と、その時。
『……カヅキ。それは誰からのメッセージ?』
クレアの声がすぐ横から飛んできた。その声音には、微かに緊張感が滲んでいた。
「ん? ああ、イヴからだよ」
軽い調子で答えた瞬間だった。
クレアの目が、一瞬だけ鋭く光った。
それは氷のような無表情にほんの一滴だけ混じった、感情の棘。香月はすぐに気づく。
(あ……これ、やばいかも)
『へぇ〜、ほぉ〜、ふぅぅぅ〜んっ? ボクという存在が居ながら! ボクの真横で! 他の女と連絡を取っているとは! どういう了見なんだいカヅキ?』
声は低く、滑るような抑揚で、明らかに怒りを抑えている。それでいて、顔はいつものまま。そのギャップが逆に不気味だった。
「いや! これは誤解だ! イヴとはただの友達みたいなもんだからさ!」
香月は慌てて手を振るように否定する。だがクレアはじっとこちらを見つめたまま、冷ややかな目で詰め寄ってくる。
『ほぉ〜う? それはどうだかねぇ〜?』
クレアはふっと唇の端を持ち上げ、まるで狐のような笑みを浮かべた。その表情からは感情がまったく読めず、香月は背筋がぞくりとするのを感じた。
「ほんとだって! だいたい、これ今日お礼のメッセージだろ!」
なんとか火消しに走る香月だったが、クレアの不機嫌モードは解除されなかった。
『ふ〜ん。まあいいや。でもボクは許さないから。だって、カヅキの初めてを奪うのはボクだし、何なら結婚するのもボクだし、カヅキとの子供は一個師団レベルで作るから』
さらりと、とんでもないセリフを放つ。
あまりに唐突かつ重すぎる内容に、香月は頭を抱えたくなった。
「……やっぱり、子供は一個師団は訳わかんねえよ」
そのツッコミにも、クレアは何かに勝ったように満足げに頷くのだった。
「まったく……」
香月はため息まじりにスマホを再び確認する。イヴからのメッセージはまだ続いていた。
『それでね、今日あんまり話しかけられなかったけど……本当は色々話したかったんだ。また今度、ちゃんと時間作るね』
その優しい文面に、香月は思わず微笑む。だがクレアの目があるので、ポケットに手を添え、スマホをそっと隠しながら返信を打った。
『こっちこそありがとう。お店楽しかったよ。また話せるの楽しみにしてる』
短く気持ちを込めて送信ボタンを押す。と、その直後、スマホが再び震えた。
「……ん?」
表示された新着メッセージには、こう書かれていた。
『あっ、そういえばずっと見せたかったものがあったんだ!』
香月の指が止まる。続いて届いたのは、二枚の画像だ。
一枚は今年の夏に広告用として撮影されたイヴの水着写真。青と白のストライプの清楚なビキニ姿で、砂浜でこちらに向かって手を振っている。陽光を浴びた肌と、風に揺れる髪が眩しい。
もう一枚は、自撮り。同じ水着姿で、恥ずかしそうに微笑む彼女の表情が、どこか自然体で、とても可愛らしかった。
香月は一瞬、視線を奪われてしまう。思わず喉が鳴った。
「……おいおいおい……!」
その時だった。
『カヅキ? 今なんか、送られてきた? 表情が怪しいよ?』
すぐ横から、鋭い声。
「な、なんでもない! なんでもないから!」
香月は慌ててスマホを伏せる。
『ふぅ〜〜〜ん……』
ジト目のクレアがじっとこちらを見つめていたが、やがて小さくため息をつき、ふと言った。
『……ボクも、そういうの送ってみようかな。ヴィクトリアンスタイルのメイド服で』
「いや、それはやめてくれ……」
香月の即座のツッコミと共に、二人の姿は、夕焼けに染まる商店街の雑踏へと消えていった。




