25.新たな日常へ⊕
古代魔術師との戦闘から早二か月弱。
夏は終わろうとしているが、名古屋の気温はまだ高く蒸し暑い。しかし残暑と呼べる程度には過ごしやすさはあった。昼の日差しは眩しくも暖かく、秋が近づく気配を感じさせている。
そんなある日の昼下がり。大須商店街の一角にある陽子がオーナーを務めるメイドカフェの一つ『Lilyshade Manor』の店内は、穏やかなクラシック音楽と談笑の声に包まれていた。
「おかえりなさいませご主人様!」
イヴが明るい声で客を迎えると、店内は一層華やかになる。
彼女が働く『Lilyshade Manor』は、英国アンティークを基調とした落ち着いた内装が特徴で、キャストの衣装もそれに合わせた本格的なクラシカルメイド服だった。
そしてその姿に惹かれてか、男女問わずイヴ目当てで訪れる客も少なくない。
「イヴちゃん今日も可愛いー! チェキ撮ってもいい?」
「えへへ、もちろんです! お嬢様、ご希望のポーズとかありましたら言ってください!」
イヴが笑顔で応じながらポーズを取るのを、香月は窓際の席から眺めていた。
その隣には、クレアが座っている。
本来であれば彼一人で来る予定だったのだが、『ボク以外の女の子がいる場所なんて、心配だから。同行するのは当然でしょ?』
……という半ば押し切るような理由で彼女も同行していた。
だが、クレアの表情はその心配とは裏腹に、まるで遊園地に来た子供のように目を輝かせている。
「この照明! このテーブルクロスのレース刺繍! うわぁ、あの襟のカッティング……理解度が高い……!」
店内をきょろきょろと見回しながら、小声で感動を漏らすクレア。
英国クラシカルメイド文化に造詣が深い彼女にとって、この店はまさに聖地と言っても良い場所だった。
鞄の中には、いつでも撮影できるようにとカメラを忍ばせていたようだが——
『……あーあ。撮影禁止って何だよ……っ、なんでこういうときに限って……! ああ、でもでも……! 制服が可愛いからチェキだけは欲しいかも』
伝声魔術を使いながら口パクで自然に喋っているクレアは唇を尖らせながらも、ちゃんとルールは守る気らしい。それにしても相変わらず器用な方法だ。
「……楽しんでるだろ」
香月が呆れ気味に言うと、クレアは椅子に座り直しながらむすっと口を尖らせた。
『ち、違うし。これはあくまで、調査だから。ほら、イヴさんが変な客に絡まれてないか見てるんだよ……!』
そう言いながらも、彼女の目線はイヴのメイド服に釘付けで。その光景に、香月はただ肩をすくめた。
その時だった。奥の扉から、もう一人のキャストが姿を現す。
黒を基調としたクラシカルなメイド服に、整った立ち姿。髪は丁寧にまとめられており、控えめな仕草ながらも目を引く存在感を放っている。
「失礼いたします。お紅茶をお持ちしました、ご主人様」
そう言って客席へと丁寧に紅茶を置いたそのキャストの姿を、香月は思わず見つめた。
——霧島麗奈。
かつて他の世界線では敵として対峙した魔術師。今では陽子の率いる『夜咲く花々の廷』の一員として再出発し、この『Lilyshade Manor』でも働いている。
彼女はイヴのように朗らかで親しみやすいタイプではない。だが、落ち着いた所作ときりりと引き締まった表情には、客に一目置かせるだけの雰囲気がある。
『……なんか、あの人……意外と、板についてるね。雰囲気だけならフォードのお抱えのメイド並……』
クレアがぽつりと呟く。口調こそ素っ気ないが、目はしっかりと彼女に向けられていた。
香月は頷いて、小声で言う。
「ああ。前の作戦の時に一瞬だけ敵対してたんだが……陽子さん、ここのオーナーの秘密結社に引き入れたんだ。あいつがこうやってここで働いてるのは、正直意外だったけどな」
麗奈は客に一礼をしてから、静かに立ち去っていく。その背中には、どこか吹っ切れたような凛とした気配があった。
『……まあ、似合ってるとは思うけど』
クレアがぽつりと呟き、香月は目を細めた。
穏やかな昼下がりの空気の中、それぞれが少しずつ、前へと進んでいた。
◆
しばらくして店内が落ち着きを取り戻すと、イヴと霧島麗奈がカウンターの奥で作業を始めていた。
皿を重ねている最中、イヴが声を弾ませる。
「麗奈さん、今日もすっごくキマってましたよー! あの所作、完璧でしたっ!」
香月は思わずそちらを振り返った
麗奈はいつも通りの無表情で、淡々と返すかと思いきや——
「……そう。ありがとう」
わずかに視線を外し、頬を染める仕草が見えた。それを見逃さないイヴが、すかさず声を弾ませる。
「えへへ、照れてます? かわいい~!」
「照れてないわ。勘違い、しないで」
即答する麗奈の耳が、ほんのり赤くなっているのが見える。
どうやら、口ほどにもないらしい。
カウンターの陰からそのやり取りを見ていた香月は、ふと肩の力が抜けるのを感じた。
つい一ヶ月前、他の世界線では命のやり取りをしていた相手とは思えないほど、穏やかな空気をしているように見えた。
「でもほんと、麗奈さんってすごいですよね。まだお給仕して五回目でしたっけ? あっという間にお客さんの人気者だし……私、もっと頑張らなきゃって思っちゃいました!」
「貴方は貴方のままで良いと思う……貴方のような存在は、私には眩しすぎるくらいだわ」
一瞬、イヴが目をぱちくりさせたあと、眩しいくらいの笑顔を浮かべる。
「……はいっ! じゃあ、もっと笑顔でがんばりますね!」
その笑顔に、麗奈の表情がほんのわずか緩むのが見えた。
「……そう」
淡々とした口調は変わらなかったが、そこには確かに、やわらかなものが宿っていた。
かつては鋭い刃のようだった彼女の雰囲気が、今はどこか、穏やかな水面のように感じられる。
イヴの天真爛漫さが、少しずつ、あの堅牢な氷を溶かしているのかもしれない。
香月はそんな二人の姿を、窓越しに差し込む陽の光の中でしばらく眺めていた。
フッと息を吐くと呟く。
「……悪くないな、こういうのも」
小さく呟いたその言葉は、店内に流れるクラシックの旋律に溶けていった。




