24.その先の未来
香月達が屋敷の広間を後にしたとき、外から風が吹き込んできた。夜の空気は冷たく、戦いの熱気が嘘のように消え去っていく。
階段を降りると、廊下の奥から焦げた匂いと鉄の匂いが混じった空気が流れてきた。薄く煙が漂っている。魔術の痕跡だ。さっきまで戦闘が行われていたのは間違いない。
「……無事か?」
呼びかけに応えたのは、肩で息をする男だった。中部支部の戦闘班の構成員──二階堂だった。顔に血が飛び、紺色のポロシャツの袖が裂けている。
「大神、こっちは何とか制圧した。だが……」
彼が目線で示した先、廊下の突き当たりには、軍服を着た何人もの男たちが倒れていた。
「……英国の正規軍所属の軍人達らしい。精神干渉魔術で操られていたようだ。息は……?」
その香月の言葉に二階堂がうなずく。
「生きている。だが何人かは危ない。魔術の後遺症が長引く事もあるらしい、意識が戻らないかもしれん」
その言葉に、香月は小さく息を吐き出した。古代魔術師の目的の為にだけに操られていたとはいえ、彼らも被害者だ。敵として切り捨てるわけにはいかない。
「戦闘の後で悪いけど、清香姉にはもうちょっと頑張って貰う事になりそうだな」
「ああ、一条の回復魔術なら意識の回復も期待できる。脳への干渉は複雑だが、彼女なら見極めてくれるはずだ」
香月がそう言うと、背後から「ったく、無茶ばっかさせるなあ」という小さな声が聞こえた。
「もう、聞こえてんだけど。本当に今回は人使いが荒いと思うよ。戦闘班でもない私がここにサポートに来てるだけありがたく思って欲しいな」
一条清香が、軽く肩を回しながら廊下の奥から現れた。服の袖に血が滲んでいるが、表情は冷静だった。
「まだ脈はあるね。念のため順番に魔術検査をするけど、何人かは完全に操られてたわけじゃないみたい。精神干渉を受けた直後で、混乱状態に近かった」
「助かる」
「……これからまた忙しくなりそうだよ。近隣への情報操作や記憶処理もそうだけど、支部長はそろそろ本部にイヴさんの存在を報告しても良いくらいのレベルになってきてる気がするよ」
清香が言ったその言葉に、香月は少しだけ眉をひそめた。
「本部への報告、な……」
彼は言葉を切ると、しばらく黙って考え込んだ。イヴの存在が本部に知られることで、今まで以上に複雑な状況になることは間違いない。それに、イヴがどれほど重要な存在かを理解している者は少ない。報告すれば、間違いなく関心を持たれるだろうし、それが新たに彼女を狙う人物を増やす不安材料になる可能性もある。
「でも、報告は避けられないかもしれん……」二階堂がその間に言葉を加える。
「確かに。東京の日本本部が知るべき時が来るのは、避けられないだろうな。イヴさんがどれほど危険な存在であるか、本部の連中も理解しているだろうし……ただし、どんな反応を示すかが問題だが」
香月は無言で頷いた。
その通りだろう。イヴを巡る問題がさらに広がる前に、何らかの対策を講じなければならない。だが、それがどんな結果を生むのか予測できないのが現実だ。
「まあ、どうにかなる……いや、どうにかするさ」
香月がそう言うと清香が肩をすくめ、わずかに笑った。
「そうだね。……まあ、話はそれだけど、まずはこの状況を片付けないとね。あの軍人たちも、できるだけ早く処置しないと危ないし。魔術の後遺症で長引くこともあるから」
「ああ、頼むよ。清香姉」
香月が言うと、清香はそのまま軍人たちに向かって歩き出した。
◆
「……終わったのかい、少年」
落ち着いた声が、静まり返った空気を裂いた。
香月が振り返ると、自分たちが戻ったばかりの事務所の一角──窓辺の影の中から、陽子がゆっくりと姿を現した。その後ろには、少し怯えたような表情のイヴが寄り添うように立っている。
どうやらジェイムズから作戦が終わった報告を受けて、イヴに渡した名刺の住所から空間跳躍魔術でも使って移動してきたらしかった。
「……陽子さん、イヴも。無事だったか」
「お陰様で。夜咲く花々の廷のメンバーの皆も頑張ってくれたおかげでね」
陽子は軽く笑いながら、近くの椅子に腰を下ろした。彼女の表情に疲れの色はあったが、どこか張り詰めた空気を和らげる余裕があった。
「LINEで指定された所に来たら、陽子さんがいて。ここに居てって、テーマパークのお城みたいな所に連れてって貰ったんだよ」
イヴは香月に話しながら、楽しげな笑顔を浮かべていた。その目には、陽子との新しい出会いへの期待が色濃く見て取れた。
「テーマパークのお城みたいな所、ね……」香月は少し考え込む。「それって、陽子さんの魔術空間のことか?」
「うん、そうだよ。初めて行ったけど、すごく素敵だった」イヴは明るい声で答え、続けた。「陽子さんが案内してくれて、すごくリラックスできたんだ。あのね、陽子さんと色々話してて…実は、事務所のOKが出たら、陽子さんのお店で働くつもりなんだ。メイドカフェなんだって、すごく楽しい雰囲気でね」
その言葉を聞いた陽子は微笑み、イヴの明るい性格や美しい容姿が自分のお店にぴったりだと感じているようだった。
確かイヴ本人とは初対面だったはずだが、イヴの持つ魅力に心を奪われている陽子の様子が伝わってくる。
そしてイヴが自分のお店で働く決意を固めたことは、陽子にとっても嬉しいことのように見えた。イヴの笑顔を見つめる陽子の表情には、どこかその一歩を支えたくなるような優しさがにじんでいた。
その柔らかな空気の余韻の中、香月はふと、現実に引き戻されるように視線を陽子へ向ける。
イヴの保護と同時進行で、大須商店街で囮作戦を行っていたはずだった。陽子自身も動いていたのなら、そちらの状況も確認したい気持ちがあった。
「なお、陽子さん。それで、そっちはどうだった?」
香月が尋ねると、陽子は少しだけ眉をひそめ、言葉を選ぶように静かに答えた。
「ああ、大須商店街での囮作戦の方には、大方の予想通りレナード・オルランドが出張ってきたよ。正面から仕掛けてきたけど、ロナルドさんとちょこちゃんたちに任せて、無事に制圧できた。レナードも今は拘束済み。おそらく、今ごろはジェイムズさんのところで取り調べ中ってところかな」
陽子の口調は淡々としていたが、その奥には確かな手応えがあった。状況はもう最悪ではない。むしろ、想定よりもうまく立ち回ったと言える。
「……陽子さんが主導してくれて、しかもイヴも魔術空間に匿ってくれたお陰だ。感謝してるよ」
香月の言葉に、陽子は肩をすくめた。
「礼なんていらないよ。私達の目的は同じだからね。それにしても──」
──陽子は、窓の外を一瞥しながら静かに続けた。
「本当にこの子、イヴちゃんが肉体を乗っ取られる未来を回避できるとは思ってなかった。何度も時間をやり直してきたけど……私だけじゃここまで辿り着けなかったかもしれない。ありがとう、少年」
その言葉に、香月は軽く目を伏せてから、小さく息を吐いた。
「……あんたが何度も時間をやり直してくれたから、今の俺達があるんだ。礼を言うのはこっちの方さ」
そのやり取りを聞いていたイヴが、そっと陽子の袖を掴んだ。
「……未来が変わった、いや過去を何度もやり直したって……本当なんです?」
陽子は優しく微笑みながら、彼女の手をそっと握り返す。
「これは内緒にしといて欲しいんだけど……本当だよ。彼がこの数日間を何度もやり直してイヴちゃんが魔術師に囚われて肉体を奪われる未来は、回避された。たとえまだ試練が残っていたとしても……少なくとも、現状では希望のある未来に変わった」
陽子の目に、わずかな涙が浮かぶ。それは安堵の涙だった。長く長く周回を続けてようやく辿り着いた今だ。そうなるのも無理は無いのだろう。
香月は二人を見つめながら、心の奥にあった重い緊張が少しだけ解けていくのを感じた。だが、同時に思う。
(……これで終わりじゃない)
香月は目を細め、事務所の奥にある壁に飾られた地図を見やった。それは英国の地図だった。
「あのさ、それなんだけど……」
「? どうしたの少年」
「ああ……」
聞き返され、香月が発言を躊躇したような様子を見せる。
「……今回の敵は、魔術協会の幹部魔術師の肉体を乗っ取り、長い時を生きてきた古代魔術師だったんだ。そして──あいつの魂は、ひとつじゃないらしい。多分、まだ終わりという訳にはいかない」
「……分魂体が居ると?」
陽子が少し驚いた様子で香月を見つめる。その言葉の意味を理解したのだろう、彼女の眉がわずかにひそめられた。
「乗っ取らせたのは俺の分魂を封入した魔術人形だったじゃないか。魔術人形を破壊した後、俺の分魂を元に戻した時に古代魔術師の記憶の一部も一緒に戻ってきたんだ。それで、どうやらその古代魔術師の魂が分裂しているようで、他にも同じような存在がいるらしいんだ」
香月の言葉に、陽子はしばらく黙って考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「手放しには喜べる状況じゃないわけね……」
陽子の声には、重みがあった。彼女もまた、数多くの未来を繰り返し、その度に喜びと絶望を味わってきたのだ。香月が告げた内容は、それだけで新たな火種となるには十分すぎた。
「魂を分割し、それぞれを異なる器に独立して宿らせる……もしそれが古い時代の物だとしてそんな高度で危険な魔術、禁書目録入りしてるか今の時代じゃほとんど失われてるはずなのに」
「生に執着した古代魔術師らしい……やり口だと思うよ」
「それで、その一緒に戻ってきた古代魔術師の記憶からその分魂体の居場所とかはわからないの?」
陽子の問いに、香月はわずかに肩をすくめて首を振った。
「……断片的にはあった。だけど、はっきりした場所までは読み取れなかった。恐らくそれぞれが独立しているからなんだろうな、互の正確な位置を知らない可能性がある。だが──」
その言葉に、陽子の表情から冗談の色が消える。
「……なら、次の戦いも近いわけね。ここで一息つく暇もなさそう」
その声に応えるように、事務所の天井から微かな振動音が伝わってくる。それは天井に備えられたシーリングファンの回る音か、それとも換気口の鳴る音か。戦いの幕が完全に下りることは、まだなさそうだった。
香月は視線を落とし、机の上に無造作に置かれたスマートフォンを手に取った。古代魔術師の記憶の一部が、図形や言語の断片となって脳裏に残っている。
一通り操作してスマートフォンのメモアブリを開き、記憶の断片を書き留めていたファイルを呼び出す。そこには見慣れないルーン文字と幾何学的な図形、そして地名らしき単語がいくつか記されていた。だが、それらは明確な指標というにはあまりに曖昧で、古代語に由来するものも多く、即座の解読は難しい。
「……調べて欲しい場所があるんだ」
香月はスマホの画面を陽子に向けながらそう告げた。彼の瞳には、これまで以上に強い決意の光が宿っている。
「この記号みたいなのの中に、一つだけ自分でぼんやりとだが解読できた場所があるんだ。そこに分魂体の一つが居る可能性がある。確証はない。でも、放っておけばまた同じことが繰り返される」
陽子は画面を覗き込み、無言でその図形や単語を見つめた後、小さく頷いた。
「……なるほど。確かにこの言語は現代のものじゃないね。魔術協会の古文書庫でも引っかかるかどうか……けど、調べる価値はある」
「協力してくれるか?」
香月の問いに、陽子は微笑みながら答える。
「もちろん。ジェイムズさんにも手伝わせる。……だって、これはもう私達全員の戦いの筈だからね」
そのとき、イヴがそっと香月の腕を掴んだ。
「私にもできること、あるかな……?」
香月は彼女に向き直り、優しく微笑んだ。
「心配すんなよ、イヴ。言っただろ、お前の普通を守るって。イヴには今まで通りの暮らしをし続けて貰って良いんだ」
香月はスマートフォンを片手に、地図アプリを起動させて地図上を指でなぞる。陽子が立ち上がり、彼の側に歩み寄った。
「私たちが今、動くべきタイミングだってことはわかるけど、イヴちゃんの安全が最優先だよ」
「わかってる。でも、もう足踏みをするつもりも無い」香月は力強く言った。「このまま放っておけば、もっと大きな犠牲が出るかもしれない。俺は──俺達はイヴを守るために戦わなきゃならない」
陽子はしばらく香月を見つめた後、静かに言った。
「わかった。でも、無茶だけはしないでね。少なくとも、準備を万全にしてから動くことを優先して」
その言葉に香月は頷き、改めてスマートフォンを見つめた。画面には横浜郊外の地図が表示されている。そこはとあるカルト宗教の本部施設だった。その場所で、何が待っているのかはわからない。しかし、一つだけ確かなことがある。
「次からは俺達から攻め込むんだ」
その香月の言葉に陽子は静かに息を吐く。そうして、イヴに向かって微笑んだ。
「今は安心して日常に戻ると良いさ。君に忍び寄る危機は……私達が終わらせるから」
その言葉にイヴは頷き、心の中で覚悟を固める。香月と陽子が次の戦いに向けて動き出す準備を整え始めたその時、遠くで夜が静かに明けようとしていた。




