22.魂の器を渡る魔術師⊕
暗い部屋だった。
湿気を帯びた空気が、薄汚れたコンクリートの床に滲み込んでいる。唯一の明かりは、鉄格子の向こう側にある裸電球だけ。それがチカチカと明滅するたび、歪んだ影が壁に浮かび上がった。
香月は膝を抱え、ただじっとしていた。
背中には、昨日受けた人形師からの「加工」の痛みが鈍く残っている。腕も、足も、もう自分のものではないかもしれない。そう思うたび、胸の奥が冷たくなった。
この場所には、彼以外にも「商品」がいた。だが、今はもういない。
──全て彼の身体の部品になったのだから。
この腕も、この足も、誰かのものだった。
どんな顔だったか思い出せない。皆似たような顔をしていたようにも思える。曖昧で、よくわからない。
ただ、ある日消えた彼らが、自分の体のどこかに組み込まれている──その事実だけが残った。
(このままじゃ、いつか俺は……俺じゃなくなる)
そのとき、外から音が聞こえた。
「っ……!」
反射的に身を縮める。誰かが来る──また、何かされる。
だが、聞こえてきたのは違った。
「Clear! Move in!」
「Secure the area! Find the children!」
「We’ve got a live one here!」
荒々しい声とともに、ドアが爆発した。破片が飛び散り、室内の埃が舞い上がる。
そして眩しい光が差し込んできた──本物の光だ。
「……!」
香月は思わず目を覆った。
「Hey, can you hear me?」
誰かが駆け寄ってきた。黒いコートを羽織った大人達──魔術協会の魔術師達だった。
彼らは何かを言っている。けれど、香月には意味がわからなかった。
事故で死んだ両親に連れてこられた国から考えると英語なのだろう。
言葉がわからない。ただ、声の調子だけは荒々しくなく、どこか優しげだった。
「……?」
「He’s Japanese! Does anyone speak Japanese?!」
一人の魔術師が声を上げると、別の人物が前に出た。
「大丈夫か?」
──日本語だ。
香月は顔を上げた。
「私はエドワード・クロウリー、魔術協会所属の魔術師だ。君を保護する。心配しなくて良い、今、助ける。もう怖いことはしない」
そう言われても、すぐには信じられなかった。体が動かない。恐怖と警戒心が、香月の思考を縛りつけていた。
「無理に動かさなくていい……ほら、抱えるぞ」
温かい手が、自分を包んだ。その瞬間──全身から力が抜けた。
(……助かったのか? 本当に……?)
実感が湧かないまま、香月は静かに目を閉じた。
それが彼の「救出」、そして魔術協会の幹部魔術師になる前の義父エドワード・クロウリーとの出会いの瞬間だった。
◆
なるべくイヴ本人に似せるために、賢者の石を核に埋め込んだ魔術人形が、今、目の前でゆっくりと立ち上がり、こちらを睨んでいる。
その瞳は本物のイヴと見紛うほどに揺れ、怒りと困惑、そして僅かな恐怖が入り混じっていた。だが、香月は騙されない。それがイヴではないことは、嫌というほど理解している。
「なあ、俺の作った特製の魔術人形の住み心地はどうだよ」
挑発するような口調で問いかけると、魔術人形──否、その内部にいる存在は、恨めしげな視線を向けてきた。その瞳には、まるで霧のように混沌とした憤怒が渦巻いている。
「貴様……何故私がこの娘の肉体を奪いに来るとわかっていた?」
低く響くその声は、イヴを真似たものではなかった。
その違和感に、香月の背筋に冷たいものが走る。知っていたとはいえ、こうして実際に直面すると、胃の奥底が重くなるのを感じた。
「さあて、な」
肩をすくめ、曖昧に返す。
この数日間を何度も周回していることを明かすつもりはない。そんなことをしても、相手の警戒心を煽るだけだからだ。すべては、この瞬間のために計算し、積み上げてきた結果なのだから。
「なあ、アンタ。中身、エドワードなんだよな?」
香月の問いに、魔術人形は鼻で笑った。
「フン……お前に答える義理など無い」
「そうかよ。なあ、いつから俺の肉体を狙っていた? 俺を救出した時からか?」
この言葉に、魔術人形の動きが一瞬止まる。
まるで記憶を探るような、思案するような間。そして、静かに言葉が紡がれる。
「……そんな記憶があの男にあったな。お前のことを知ったのは、数年前あの男の肉体を奪った後だ」
──やはり、か。
舌打ちしながら、香月はわずかに身構える。
中身はエドワードとは別物だ。しかも、寄生した人間の記憶も奪うタイプのようだ。
どうやら、香月がイギリスに居た時代にいつの間にかエドワードは肉体を奪われていたらしかった。
それに気付くことができなかったのは、エドワードが魔術協会の幹部魔術師として日夜忙しくしていたのが原因だろう。魔術修行にフォードの家に預けられていた時期ですら、奇跡管理部での任務に明け暮れ年に何回会えるかという調子ではあった。
それに肉体を奪われたのが数年前とするなら、その時期の香月は魔術学院に居た。魔術学院は全寮制だ。お陰でその時期はエドワードに会う事がほとんど無かったのだ。
背筋を這う悪寒を振り払い、冷静を装う。だが、心の奥底では微かな焦りがあった。
(エドワードの肉体すら奪っていたとなれば、相手はただの亡霊じゃない──)
もしそうなら、魔術協会の幹部魔術師たちに紛れ、幾度となく他者の身体を奪って生き延びてきた……そんな厄介な存在である可能性すらある。
「……つまり、アンタは俺の義父を殺したんだな」
沈黙が場を支配する。
周囲の空気が、重く、冷たくなっていく。まるで冬の夜のように、肌を刺すような気配が漂った。
「私の計画は常に最善を求めるものだ」
魔術人形が淡々と言う。
「人形師の加工が施された肉体。そう、貴様の肉体は優秀だった。だが、所詮は私が求めるには不完全な器だった。だが、始祖人類の先祖返りの肉体は別だ……まさしく神に等しい存在。私が目指す世界を築くにふさわしい器だったのだ。その肉体を奪わんとするのは魔術師として至極当然の事だろう?」
その言葉には、狂気に近い確信が滲んでいた。
ぞっとするほど純粋な信念──あるいは執着。香月は一瞬、血の気が引くのを感じた。だが、すぐにそれを押し殺し、皮肉げに笑う。
「俺が聞き出した奴は、黒幕は教授だって言ってた。けどな──エドワードは、それより前に死んでいた」
口元に浮かべた嘲笑は、ほんのわずかに震えていた。
何度も周回を繰り返し、ようやく辿り着いた確信。それが今、目の前の魔術人形によって証明されようとしている。
「イヴの肉体を奪いに来る為に、一時的に他の人間に寄生して日本にやってきたんだろ。だから、エドワードの遺体が抜け殻として発見されたんだ。アンタの正体は魔術協会に巣食う、他人の肉体を奪って渡り歩く古代の魔術師って所か。アンタみたいなのに魂を殺されたらエドワードも浮かばれねえよな」
魔術人形がフンと鼻を鳴らす。
「そんな事が分かったところで、どうする? お前が作ったこの人形の核は、始祖人類の血で作った魔石らしいな。本物ではないとはいえ、この魔力の強さ……お前に勝てるのか?」
「勝てるさ。勝機は既に掴んでる」
香月は静かに言う。
「お前が入り込んだその人形にはな、とある魔術を組み込んであるんだよ」
『……?』
クレアと魔術人形の瞳が、訝しげに細められる。
香月はその反応を見計らい、静かに言葉を続けた。
「他の魂が入った瞬間、外に出られなくする魔術陣だ。……つまり、アンタはもう逃げられない」
言い放った瞬間、魔術人形の表情が強張る。
「私を殺せる……とでも?」
その声には、僅かな焦りが滲んでいた。
「まあな」
飄々と返しながらも、内心はぎりぎりの綱渡りだった。
イヴが肉体を奪われる未来を回避するために、何度も何度も、繰り返してきた。痛みと絶望に塗れた時間を乗り越え、ようやくここまで辿り着いた。
(これで終わりじゃない。問題は──ここからだ)
香月は改めて、古代魔術師が憑依した魔術人形を睨みつける。
「さて、それじゃあ始めようか」
『カヅキ』
クレアが何か言いたげに声をかける。
だが、香月はそれを無視し、静かに歩を進めた。
そして次の瞬間。
魔術人形の懐に潜り込み、その鳩尾に強烈な拳を叩き込んだ。
「ぐふっ……!」
鈍い衝撃音とともに、魔術人形の体がぐらつく。
その口から漏れた呻き声は、まるで人間のもののようだった。否──肉体がどれほど精巧でも、中にいるのはもはや人間とは呼べない何かが相手だ。
(骨肉魔術人形相手となると、やはり質感がリアルだな……)
拳を叩き込んだ手には確かな手応えがあったが、ただの人形とは違う、生々しい感触が指先に残る。
香月は拳を握り直しながら、一瞬だけ人形の身体を観察する。イヴを殴っている錯覚を起こしそうになる。
自分達で作っておいて何だが、骨肉魔術人形の出来はイヴと瓜二つだ。フライドチキンの骨やスーパーで買った生鮮肉で出来た擬似人体と言っても、本物の人間の肉体と遜色ない感触を持ち、関節の可動域も極めて自然だ。いや、人間以上に精密な制御が可能になっているはずだ。
その証拠に——
「ほう……。この人形のボディは……なかなか悪くないじゃないか」
人形の中に憑依した魔術師は、まるで新しい肉体を確かめるようにゆっくりと肩を回し、唇を舐めるように微笑んだ。
(くそ……適応が早すぎる)
香月の背中に冷たい汗が流れる。まるで本当に生身の肉体に乗り移ったかのような馴染み方だ。通常の魔術人形であれば、魔力の流れに多少なりとも違和感が生じるが、この骨肉魔術人形は違う。生体に近い素材で作られているため、魔力伝導率が極めて自然で、魂が簡単に馴染んでしまうようだった。
(このまま時間を稼がれたら、完全に適応されちまうな……!)
時間をかければかけるほど、相手はこの器を完全に支配する。そして、それは即ち始祖人類の血で出来た賢者の石の魔力出力を存分に扱える相手と対峙する事になるということだ。
香月は素早く思考を巡らす。
(……でも、イヴ本人を相手にするよりかはマシだ。……アレが相手なら、間違いなく勝機があるんだ……!)
香月は覚悟を決め、背後を振り向いた。そこにはクレアがいる。
「クレア!」
名前を呼ぶと、彼女は小さく頷いた。
『うん、わかった』
その言葉と共に、クレアはその場に膝をついた。そして目を閉じて大きく息を吸い込み、ゆっくりと息を吐く。彼女の魔力が巡り、全身が仄かな青白い光を帯びていくのが見えた。
「何をさせる気か知らんが……」
その時、魔術人形に宿った魔術師が動いた。掌を頭上へ向け、魔力を集中させていく。第一世代魔術──詠唱を伴う、魔術の発動法だ。
「させるかよ!」
香月は素早く駆け出す。第一世代魔術の弱点はその詠唱にかかる時間だ。
彼は魔術人形の懐に潜り込む。
「Enhance《肉体強化》ッ!!」
第四世代魔術、つまり現代の魔術師が肉体に彫った魔術刻印による魔術の起動の速さは、第一世代との相性は抜群だ。一瞬にして魔術を発動させ肉体を隅々まで強化した香月は、そのまま拳を強く握りしめる。
「喰らいやがれッ!!」
繰り出したのは、再び鳩尾への打撃。魔術人形が香月の拳を受け止めた瞬間、激しい衝撃音が響き渡った。
「ぐ……っ!」
魔術人形が呻き声を漏らしながらも、なおも反撃の姿勢を崩さず、口を開き、再び詠唱を始めようとする。
──その瞬間だった。
「Silent Sphere《無音領域》」
クレアの静かな声が魔術発動の言葉を述べる。次の瞬間、魔術人形を中心にして円状に音が消え去った。
詠唱の言葉が、掻き消える。
「……ッ!」
魔術人形の口元が動いているにもかかわらず、何一つ音が発されない。息の音すら、まるで空気に溶けるように消えていく。そこにあるのは、完全な沈黙だった。
古代魔術師の表情が初めて大きく歪んだ。
(音魔術がやはり効くんだな……!)
肉声を媒介にして超自然現象に作用する第一世代魔術──その詠唱すら封じられた今、魔術の発動は不可能だった。香月の狙いはまさにここにあった。
「クレア、ナイス!」
香月が叫ぶと、クレアは額に汗を滲ませながらも、ぎりぎりの集中を保って魔術を維持していた。
『長くは持たないよ、カヅキ……っ!』
「それで十分だ!」
香月は再び地を蹴った。
この無音領域が続いているうちに、完全に決着をつける。それが、今唯一の勝機だった。




