19.名刺は未来を繋ぐ⊕
作戦実行の前段階として陽子に呼び出して貰ったのはロナルドとちょこ、そしてジェイムズだった。それぞれに内密にやって貰いたい事を伝えた。
決行日は色々な準備も含めて恐らく三日後からになる。しかし逆に言えば三日は猶予があると言っても良いとも言えた。
そして一通りの打ち合わせが終わった後に、香月は大須商店街にある裏門公園に来ていた。
真夏の午後、じりじりと焼けつくような日差しが公園のアスファルトを照らしている。蝉の鳴き声が絶え間なく響き、湿気を帯びた熱気が空気にまとわりつく。
ベンチに腰かけると、肌にじわりと汗がにじんだ。コンビニで買ったペットボトルの水をひと口飲むが、すぐにぬるくなってしまいそうだった。
「見ぃつけた!」
このくだりも何回目だっただろうか──
この言葉の主はもうわかっている。
香月は声のした方に顔を向け、彼女がそこに立っているのを視認する。
「よお、イヴ。待ってたぜ」
まるで来る事がわかってたかのような香月の反応に、イヴは小首を傾げる。
「?」
不思議そうな顔をする彼女に、香月は微かに笑みを浮かべる。彼女がこれから言おうとする言葉を先読みするように、言葉を続けた。
「……いつもみたいに俺なんかには関わらない方が良いだとか懲りないなとかは言わねえさ。今日はちょっとばかし真面目な話があるんだ」
驚かせるつもりでいた筈が、香月の反応はイヴの予想とは裏腹にどこか空気の重さを感じる物だった。
イヴは香月の目を真っ直ぐに見つめた。その視線は、彼の次の言葉を静かに待っているようだった。
「俺は……いや、俺達はある目的の為に行動している。その目的は……君の普通を守る為だ」
「私の……普通?」イヴは、その言葉に小さく息を呑む。そして、思い出すように呟いた。「前にもそんな事言っていたよね」
イヴはゆっくりと香月の隣に歩み寄り、公園のベンチに腰を下ろす。
ベンチの背もたれが熱を持っていたが、彼女は気にせず座った。
香月の隣に並び、手元のアイスキャンディーをちらりと見せる。
「……暑いでしょ? いる?」
香月は苦笑しながら首を横に振る。
「あいにく、甘いのは得意ではないんでね」
「そっか。じゃあ、一人で食べるね」
イヴはアイスをひと口かじると、冷たさに思わず肩をすくめた。
「俺は君の普通を……それだけじゃない、俺達の未来を守りたい。それらを壊す存在から皆を守る為に」
その言葉には、香月の決意がにじんでいた。
イヴはしばらく黙って彼の横顔を見つめた後、少し笑うように言った。
「……随分と思い詰めたような様子だね」空気の重さを感じてイヴが小首を傾げる。「それに、何だか私の……始祖人類の肉体? が関係してる話のスケールが、大きくなってる? のかな?」
彼の心の奥に潜むものを探るようにして、イヴは問いかける。
「香月君、何か私に隠し事をしてないかな。もしそうなら話してみない? 私じゃ頼りないかもしれないけど、話すだけでも楽になるかも」
イヴのその言葉は香月を心配しているようだった。香月は一瞬、目を伏せる。
「ああ……確かに隠し事をしている。でもそれは君にとって良い話ではないんだよ。だからあまり話したくはない……」
そう言った時だ。
イヴの掌が素早く伸び、香月の頬を挟むようにパン、と軽く叩いた。
「隠し事はダメだからね? 香月君」
驚いた香月が目を瞬かせると、イヴはじっと彼の目を覗き込む。
「思ってる事があるならちゃんと言わなくちゃ。そうじゃないと何も伝わらないよ。そんな隠し事をする悪い子には……お仕置きだよ?」
そう言った瞬間、イヴは香月の頭をぐいっと引き寄せた。
「うわっ、イヴ……!? むぐっ!?」
そのまま、引き寄せられて顔がイヴの豊かな胸の谷間に埋められた。柔らかな感触と、彼女の体温が肌を通して伝わってくる。
香月は慌てて身をよじろうとするが、イヴの腕はしっかりと彼を押さえつけ、逃がしてはくれない。
「ねえ、香月君、色んな事で悩んでるでしょ? 君の事だから、私の心配とかしてるんだよね? 大丈夫。私はそう簡単にはへこたれないから話してみてよ」
彼女の鼓動が、耳元で静かに響く。その規則正しく脈打つ音は、不思議と心を落ち着かせた。
「……施設にいた頃ね、私ってお姉ちゃんみたいな立場だったから、年下の子達の面倒とかをよく見てたの。それでね、こうすると男の子って何だか落ち着いて素直に話してくれるんだよね」
イヴは香月の髪を優しく撫でる。その仕草はあまりにも自然で、まるで昔からこうしていたかのようだった。
とはいっても、この体勢はさすがに色々とまずい。香月はイヴの胸から顔を離そうとするが、彼女の腕がしっかりと彼の頭を押さえているため、簡単には抜け出せない。
ついでに言えば、犬でも愛でているかのような感じで撫でてくるのだ。
「もしも私に言えなくて苦しい事があるなら話してほしいな。勿論、話したくなかったら無理にとは言わないけどね」
彼女の優しい声色が耳元に届く。
「……わかった、わかったよイヴ。話すよ」
「わかればよろしい」
香月は観念したように息を吐く。だが、ふと疑問が浮かんだ。
「なあ、イヴ。これ……わざとやってないか?」
香月のそんな返答に、頭上でイヴがクスリと息を吐くのがわかった。
「うん、わざとだよ」
彼女の声には、どこか楽しげな響きが混じっていた。
香月は一瞬言葉を失ったが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「……色々とまずいから離れてくれないか」
「香月君が話してくれるまではやだよ〜」
「わかった、わかったって……」
彼女の腕の温もりと、緩やかな香りに包まれながら、香月は観念したようにイヴの谷間に顔を埋めたまま、口を開いた。
「……君の……始祖人類の肉体を狙ってとある魔術師が動いている。それに……」
クレアが内通者として暗躍している。そんな事は口に出さない方が良いだろう。
このイヴとのやり取りも、もしかしたらクレアは聞き耳を立てているかもしれない。
それにまだレナードがこの件に暗躍しているのはわかっている。この言い回しであれば、レナードの裏にいる黒幕に気付いているとは思われないだろう。
「……いや、俺から話せるのは今はここまでだよ」
イヴは香月の言葉を聞きながら、彼の頭を抱く手に少しだけ力を込めた。
「……なあ、イヴ」
香月はそっと彼女の肩を押し、顔を上げる。
「ん? どうしたの」
聞き返してくるイヴに、香月はポケットから取り出した名刺を見せる。そして、その一部分を指差した。
『黙って受け取ってくれ』
香月の差し出す名刺にはそう書かれていた。それを裏返すと香月の連絡先と新しくなった事務所の住所が記載されている。
「……落ち着いた?」
イヴは名刺を受け取りながら何かを察したように、微笑みながら尋ねる。香月は無言で頷いた。
「……そっか」
イヴはそれ以上は何も聞かず、立ち上がる。
「じゃあまたね、香月君」
「ああ……またな」
香月は去っていく彼女の背中を見送った。
香月がイヴに名刺を差し出し、「黙って受け取ってくれ」と伝えたのは、単なる気まぐれではなかった。
それは、彼女の安全を考えた上での最善の選択だった──そのはずだった。
だが、実際にイヴが名刺を受け取り、何も言わずに微笑んだ瞬間、香月の胸には妙な感覚が広がった。
それは安堵とも違う。むしろ、どこかチクリと刺さるような痛みを伴うものだった。
(……本当に、これで良かったのか?)
イヴと連絡先を交換したのは、陽子と企てた作戦に彼女も協力させる為だった。彼女が肉体を奪われる未来を覆すのに何かしらできないかを苦慮しての事だ。
だが、これまで彼女をできるだけ魔術師の世界から遠ざけようとしていたのにここにきて自ら接点を作るなんて、それは本当に正しい判断だったのか。
(この選択は間違いだろうか──)
それはわからないが、この世界の裏側、隠匿されているこの狂った世界に彼女を更に引き入れる形にならないだろうか。
それは今まで香月が最も恐れて居た事だ。
しばらくして、スマホが振動する。
画面を見ると、イヴからのメッセージが届いていた。
『それで、どういう風の吹き回しかな?』
香月は画面を見つめ、しばらく指を動かさずにいた。
イヴは勘が鋭い。きっと、連絡先を渡したのはただの気まぐれではないと察しているのだろう。
メッセージは続く。
『何かあった? それともデートでもする?』
軽い調子の言葉だ。しかし、その裏に彼女の探るような意図が感じられた。
香月は短く返信する。
『聞き耳を立てている内通者がいる。念のため、これが最善だった』
送信した直後、すぐに既読がつく。
そして、イヴからの返事は、シンプルだった。
『なるほど?』
少し間をおいて、新たなメッセージが届く。
『私は何をすれば良い? 香月君の力になりたいな』
その言葉に、香月の指が一瞬止まる。
──イヴは、俺を疑わない。
どんな状況でも、どんな理由でも、彼女はいつも香月を信じてくれる。
その事実が、どれほど心強いか。
しかし、だからこそ、彼女を巻き込みたくないという思いもあった。
香月は深く息を吸い、慎重に言葉を選ぶ。
『今はまだ何もしなくていいよ。ただ……そうだな。その時が来たら俺の指定する場所に来てくれると助かる』
数秒後、イヴからの返信が届く
『わかった。その時が来たら絶対に行くね』
その言葉を見た瞬間、香月は思わず微かに笑みを浮かべた。
彼女の返答には、まるで疑いがないように思えた。
スマホの画面を閉じ、ポケットへとしまい込む。
(──イヴ、お前は本当に前向きだよな)
どこか温かい気持ちと、同時に小さな不安を胸に抱きながら、香月はゆっくりと立ち上がる。
日はすでに傾き始め、長い影が公園の地面に伸びていた。




