17.リスタート3
「……」
香月が意識を取り戻すと、そこはそろそろおなじみになりつつある白い空間だった。
時間も場所も曖昧な、まるで現実から切り離された時の狭間──無機質で果ての見えないその空間は、何度も訪れたはずなのに今は冷たい雰囲気に感じた。胸の奥に重い圧力を感じ、空間の冷たさが肌を刺して息苦しささえ覚える。
香月はその場に座り込んだまま、ぼんやりと虚空を見つめていた。両膝に肘を突き、俯いた姿勢から立ち上がる気力さえ湧かない。
頭の中にはクレアの裏切りの事実と彼女の死の記憶がこびりついて離れなかった。
しかし、彼女が香月を庇ったのは確かだ。では何故彼女が内通者なのか。
「……」
不意に肩に柔らかな感触を覚えた。驚いて顔を上げると、目の前には銀髪に赤い瞳を持つ少女が立っていた。純白のワンピースに包まれたその姿は、白い空間の中で一層幻想的に見えた。
「……よう」
重い声を絞り出すようにして香月は挨拶を返した。だが、少女の顔は心配そうに曇っていた。香月の異変に気づいたのだろう。
何かあったのか、と言いたげな瞳に視線を逸らす。自分でも情けないと思うが、彼女の純粋な目にまともに向き合う勇気がなかった。
「……別に何もねえよ。悪いな、心配させちまったみたいだ」
そう返すので精一杯だった。だが少女は動じることなく、ただ香月の様子を見守っている。その静かな態度がかえって香月の心を揺らした。
「……なあ」
気付けば言葉が漏れていた。香月自身、こんなふうに誰かに打ち明けることなど想像もしていなかった。普段なら胸の内に閉じ込めておくような言葉が、堰を切ったように溢れ出してくる。
「俺さ、クレア……幼馴染が何故か俺達を裏切っていて、利用するだけされて殺されちまったんだよ……信じられるか? 俺の家族同然だったアイツが、敵側のスパイだったんだぜ……」
座り込んだまま、香月は膝を強く握りしめた。言葉にするたび、胸の痛みは増していく。
「でもさ……俺、クレアを恨む気にはなれなくてさ……」
自分でも信じられない気持ちだった。裏切られたことへの怒りはある。だがそれ以上に、クレアの死が深く胸に突き刺さっているような感覚だった。
だが、彼女が香月を庇ったのをどう見るか。
「アイツが俺達を裏切っているのは何か理由が有るはずだ。そうじゃなきゃ俺を庇って死んだりなんかしないって、そう思わなくちゃやってらないんだよ……」
膝に視線を落としたまま絞り出すように言う。喉の奥が詰まり、声が震える。
自分に言い聞かせるように言った言葉だったが、それでも胸の痛みは和らぐことは無かった。むしろ強くなるばかりだ。
「なぁ、俺はどうすればいいと思う……?」
まるで縋るような弱々しい声だった。その問いかけに少女は首を横に振る。それは分からないという意味なのか、それとも答える気がないという意思表示なのかは分からなかった。ただ一つ言えるのは、どちらにせよ答えは貰えないという事だけだ。
「まあ、そりゃ……そうだよな」
彼女に聞いて、答を貰えると思ってなくても口に出してしまう程には動揺していたのだろうか。
自嘲気味に笑うものの、それでも心は晴れなかった。
するとその時だった。
不意に彼女が香月に近付くと、その小さな両手を差し出して頭を抱き寄せてきた。
「お、おい……っ!」
突然のことに香月は動揺する。だが、少女はそのまま柔らかい手で彼の頭を撫でた。その仕草は、まるで泣く子をあやす母親のようだった。
一瞬抵抗しかけたが、その手の温もりに不思議と力が抜けていく。
「……」
心の奥に、じんわりと安らぎのような感覚が広がった。少女の存在が冷たい空間を包み込み、痛みを少しだけ和らげてくれる。
「ありがとう……な」
思わず感謝の言葉が口をついて出る。少女は小さく頷いて微笑んだ。その表情は柔らかい。だが、言葉以上に強い優しさを持っていた。
◆
そうして、あの白い空間であの振り子時計が刻を告げる音が鳴った。それは次の周回が始まる合図だ。
意識が戻り瞼を開けるとそこはもう見慣れてしまった天井が視界に入る。頑丈な石造りの壁には重厚なタペストリーが飾られている。そこは、やはりこの周回の戻ってくる開始点である陽子の魔術工房だ。
「おや少年、やっと起きたんだね?」
優雅な声が耳に届く。香月が顔を向けると、部屋の隅のティーテーブルに陽子が座っていた。
ティーポットから立ち昇る湯気とともに、彼女は穏やかに微笑んだ。
「おはよう。生まれ変わった目覚めの気分はどうかな?」
「……最悪だよ」
香月は額を押さえながらベッドからゆっくりと体を起こした。頭の奥に残る重い疲労感が思考を鈍らせてくれる。
「俺は未来から戻ってきた。アンタの仕込んだ魔術のお陰だ。ところで、陽子さんアンタは前の周回の記憶はあるのか?」
その問いに、陽子はティーカップを持ったまま首を傾げた。
「ん? 記憶? ああ、あの時のかな?」
香月の意図を察したのか、彼女は一瞬考えるような素振りを見せた後、少し茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「ん〜、そうだねえ。あの時は大変だった。君が私をいきなり押し倒して服を脱がせてくるものだから──」
「わかっててやってるだろ。捏造はしないでくれ。捏造は」
香月は顔を真っ赤にしながら強く否定した。
「ははっ、冗談だよ」
陽子は苦笑しながら謝罪した。だが、その反応を見るに全く反省している様子はないようだった。それどころか楽しんでいるようにも見える。
「ああ、覚えている。私の努力の結晶が実ったんだからね」
陽子の声には誇らしさが滲んでいた。香月は少し戸惑いつつも、彼女の言葉にある意味納得する。
「次にここに戻ってくる君を待ち遠しく思っていたよ。まあ、私も時を合計千年以上体験しているから、二十年の時をやり直してくるなんてのは容易い物さ」
「そうか、なら話は早いな……」香月は声を低め、真剣な表情を浮かべる。「単刀直入に言うぞ、囮作戦は失敗した。たぶん、俺が死んだ後にアンタが体験してきた通りさ。本物のイヴは肉体を奪われて俺はこのザマだ」
その言葉に陽子の目を細める。
「……俺の仲間に内通者が居たんだ」
香月が振り絞るように言った言葉に、工房の空気が一瞬張り詰めた。
「へえ、それは残念だね。それで、その内通者は誰かもわかった感じかい?」
「……言いたくない」
視線を逸らし、低く呟いた。その顔には暗い陰りがあった。
「その様子だと、かなりの信頼を置いていた相手のようだね」
「ああ、悪いがアンタにも教えたくない。これは俺の問題だ」
陽子は一瞬何か言おうとしたが、すぐに口を閉ざした。そして、肩をすくめた。
「……ふぅん? まあ、そういう事情なら構わないよ。でもね、私は君の事を信頼しているんだ。だから無理に聞き出すような真似はしないさ」
「助かるよ」
香月が素直に感謝の言葉を口にすると、陽子は小さく微笑んだ。
「……それで、だ」
声を落ち着け、香月が次の話題に移る。
「今度は囮作戦を少し変えてみようと思う。具体的にはイヴの骨肉魔術人形をより本物に近付ける」
「ほう? あの骨肉魔術人形の出来を更に上げるというのかい?」
「ああ、賢者の石を使う」
その言葉に陽子の目が鋭くなった。
「賢者の石……ね。高濃度な魔力の塊だが、作り上げるには人間の血液を何万倍にも濃縮したような魔力を含んだ血液が必要だと聞くけれど。そんな物を手に入れる方法があると? まさか、この名古屋の住人達全ての生命を使って作り出すなんて言わないよね? それは流石に容認できないよ」
陽子が厳しい口調で言う。だが、香月はそれを否定するように首を横に振った。
「どこぞの有名な錬金術師の漫画かよ。違う。もっと手っ取り早い方法がある」
香月は陽子の耳に口を寄せてその方法を言った。それを聞いた瞬間、陽子は驚いたように目を見開いた後、小さくため息をついた。
「存在を忘れていたよ……。なるほど……確かにそれなら効率的だ」
「だろ?」
「わかった。手を貸すよ」
陽子は深く頷き、再び微笑んだ。その表情はこれから迎える困難への覚悟と期待が混じっていた。
「助かるぜ。じゃあ、早速始めるか」
香月の決意のこもった言葉に陽子は頷くと、二人は魔術工房を後にした。




