16.内通者⊕
香月の分魂は骨肉魔術人形へと降ろされた。その外見はイヴそっくりで、まるで生き写しの双子の姉妹といった風貌と言って良いほどだ。ただし、違いがあるとすればその瞳が光を失ったように暗く澱んでいる事だろうか。
『「さあて、やってやるぜ」』
そう同時に意気込む香月の分魂が入ったイヴ人形と香月の本体とを見比べてロナルドが息を吐いた。
「大神、本当に貴様が中に入ってるのか? 本当に未来にそっくりだが、中身はまるで別人のように見えるな。貴様が二人居るような感じがする」
『当たり前だ』
イヴ人形の中の香月の分魂がそう答えると、本体の香月が言葉を続ける。
「見た目がそっくりだからって、中身まで完全にそっくりな訳ないだろ。作戦の時にはちゃんと演技するにしろな」
胸を張って断言する香月に、ロナルドはやれやれと首を横に振る。
「やはり貴様が二人居る気分になるな……何だか気味が悪い……」
そんなやり取りを見ながらも、陽子の方は特に何か指摘する事もなく淡々と指示を出した。
「じゃあ、作戦開始と行こうか。敵はどのタイミングでどんな方法で始祖人類の先祖返りの肉体を奪いに来るかは今の所不明だ。だが、敵は必ずやってくるよ。上手く誘い出して、罠に嵌めるんだ」
『「わかった」』と分魂の香月が同時に答え、本体である香月は頷いた。
◆
夜も更けてきた頃、香月の分魂はイヴ人形に憑依して街を歩いていた。
湿った夜風が街路樹の葉を揺らし、ネオンの明滅が歩道に長い影を落としている。
イヴ人形の白いワンピースがひらりと風になびくたびにすれ違う人々が思わず視線を向けるが、誰もそれが人形だとは気付かない。見た目だけでなく香月の演技によって仕草すらも再現された「イヴそのもの」は、夜の街に違和感なく溶け込んでいた。
(ジェイムズの手配で本物のイヴは日本中部支部の構成員達に警護されている……。だが、これで本当に釣れるのか……)
香月の分魂は街を見渡し、わずかに眉を寄せた。陽子からの指示はこうだ。襲撃者がいつどのタイミングで出現するかわからない以上、本命が釣れれば良し、本命が釣れなくても何かしらの手がかりを得て欲しい……とそんな具合だった。
作戦成功するかどうかは未知数といった具合で、香月は内心では一抹の不安を抱いていた。
(まあ、それでも作戦を続行するしか無さそうだな……)
作戦自体は前にディヴィッド・ノーマンの影武者を釣り上げた時と同じ囮作戦に近い物だ。ただし、今回は変身魔術を使っておらず、精巧にイヴに似せた人形に分魂を憑依させている違いはあるが。
(ここにクレアが居てくれたらな……もう少しやりやすいんだが)
ふと彼女の顔が脳裏をよぎる。あの冷静な判断力と音響魔術による状況把握があれば、どれだけ心強かっただろう。だが現実は、分魂の香月一人でこの場を切り抜けなければならない。
そんな事を考えていると、不意に背後から声をかけられた。
「やっと見つけましたよ……!」
声の主は低く、しかしどこか浮ついた響きを含んでいた。
振り返ると、そこには金髪オールバックの男──レナード・オルランドが立っていた。夜風にスーツのジャケットの裾を翻し、その顔には不敵な笑みを浮かべている。
(……チッ、釣れたのはアンタかよ。そういえば存在を忘れてたな)
香月の分魂は内心で舌打ちしながらも、すぐさま背後に回り込むと身体を翻すように跳躍した。
『……遊んであげる!』
そうイヴの口調を真似るように叫んで、空中で胴体を捻りながら叩きつけるような蹴りを放つ。レナードはそれを難なく躱し、すかさず反撃の構えに入った。
「甘いですね!」
鋭い拳が香月に迫る。
(見える──遅過ぎだ!)
香月の分魂は動きを完全に読み切っていた。イヴに似せた人形である為、その筋力は本体の香月の身体とは比べ物にならない程に弱い。しかしそれを上手く使いこなすようにしてレナードの拳を紙一重で避けて、カウンター気味に頬に拳を打ち込んだ。
『残念だったね』
香月の分魂は冷笑を浮かべ、拳を接触させたまま力の流れを全身で連動させた。足元、腰、肩を瞬時に連携させ、わずかな距離からさらに強烈な打撃を放つ。
中国武術の寸勁の真似事だ。
寸頸は中国武術の打撃の技法の一つで、わずか数センチの距離から繰り出される打撃法だ。相手に強烈なダメージを与えるその様は、まるで見えない刃が突き刺さったようだと語られることすらある。
もっとも、香月の放ったそれは相当な修練を積んだ中国拳法の熟練者のそれとは技術的に匹敵していると言える物ではなかった。だがそれは肉体強化魔術の補助効果による力業に近い一面はあったが、レナードを打ち倒すには十分過ぎる程だった。
自在術式が展開できるよう、香月には未知の素材で術式を彫り込まれた魔石の指輪。それを陽子から貰っていたのだ。
それで肉体強化魔術を発動させ倍増した力で放つその一撃はレナードをいとも簡単に吹っ飛ばして、ビルの壁面に叩きつけた。
「ぐっ、がっ……!」
レナードは呻き声を上げながら、地面を転がった。
『貴方に用は無いよ』
「クッ……ふっふっ、アハハハハハハハ!」
香月は冷たく言い放つが、レナードは笑い出した。それに眉をひそめて振り返る。
『……何を笑ってる?』
「いやぁ、本当に素晴らしい人形ですね。まるで生きているようだ」レナードは口角を歪めながら立ち上がった。「だが、もう既に見抜かれていたんですよ。貴方が本物の始祖人類の先祖返りではない事はね」
『何だと……?』
その言葉に、香月は驚きを隠せなかった。警戒心が一気に高まる。この男が何を根拠にそう断言したのかは不明だったが、確信めいた態度は不気味だった。
「私は貴方が囮である事の確認の為にここに現れたんですよ。そして思い通りだった」
『どういう事だ?』
「フフ……本物の始祖人類の先祖返りは日本中部支部の構成員達に守られているのでしょう? 今頃、私をここに遣わせたお方はもう貴方のお仲間を始末されている頃でしょう」
レナードはそう言って懐から取り出した拳銃を香月の分魂に向けると発砲しようとする。魔術銃だ。
『悪いが、そいつはネタが割れてる』
レナードが引き金を引き切るより前に、香月の放った蹴りは彼の手から銃を弾き飛ばしていた。
「チッ……!」
レナードは舌打ちすると、すぐに格闘戦を仕掛けてきた。接近戦で仕留めるつもりだろう。だが、それは香月にとっては得意分野だ。
レナードが拳を放つよりも早く、その胸元を掴むとそのまま投げ飛ばした。アスファルトに叩き付けられて呻くレナードを見下ろしながら、香月は冷たく吐き捨てる。
『……悪いが、時間稼ぎに付き合うつもりはない』
「くッ……」
レナードの襟首を掴み上げて立たせる。そしてそのまま腕を捻り上げると、骨の軋む音が夜の路地裏に響き渡った。
『言えよ。アンタがこの計画を知った理由を』
「フフ……誰が喋るものですか」
レナードは脂汗を流しながらも不敵な笑みを浮かべて答える。どうやらまだ戦意が折れていないらしい。
『そうか、なら仕方ねえな』
香月はそう言って、さらに力を込めて捻り上げる手に力を込める。みしりという音が身体の内側に響いたのか、レナードの顔が苦痛に歪んだ。
「ぐあああっ!」
レナードの口から悲鳴が上がる。だがそれでも彼は口を割ろうとはしなかった。
『強情だな。なら、このままへし折ってやろうか?』
「ぐうっ……あ、ああ……くそっ……わかった……話すから、止めてくれ……」
レナードは苦悶の表情を浮かべて懇願してきた。その目には恐怖の色が滲んでいる。どうやら本当に折られると思ったらしい。
(まあ、ここで本当に折っちまっても構わなかったんだけどな……)
香月の分魂は内心でそう思いつつ、レナードを放り出すように解放した。彼は地面に倒れ込むと、肩で息をしながらこちらを睨み付けてきた。
「はぁ……はぁ……くそっ、なんて力だ……」
『それで? 何でアンタがこの計画を知ったんだ』
「……貴方達、日本中部支部の人間からの情報です。巧妙に隠し通そうとしたんでしょうが、とっくに筒抜けだったんですよ」
『!? どういう事だ?』
予想外の答えに驚きを隠せなかった。
「おや、わからないですか。内通者ですよ。我々と通じて情報を流した人間が居るんですよ、そう貴方のお仲間の中にね」
『……そんな馬鹿な』
呆然と呟く。だが、レナードの言葉は真実味を帯びていた。
「こう言えば、心当たりは出てくるんじゃないですか? 例えば、ロンドンからの息が掛かって居そうな人物ですよ──」
レナードはそう言って一人の少女の名前を言い放つ。その瞬間、香月の脳裏に彼女の笑顔が思い浮かんだ。見慣れた、乏しい表情の上に薄らと浮かべるあの笑顔だ。まさかと思いつつも、自然と納得してしまう自分が居る事に気付く。
(嘘だろ……)
信じたくない事実だった。だが、同時に妙に納得できる部分もあったのだ。確かに彼女ならそれをできる能力は十分に持ち得ているし、たとえ秘密裏の会談ですら彼女ならその情報を盗み取る事だってできるだろう。
(信じられない……でも……)
もしそれが本当だとしたら……。そう考えただけで背筋が凍るような思いだった。
「おやおや、顔色が悪いですねぇ」
『黙れよ……!』
香月の分魂は吐き捨てるようにそう言うと、レナードに拳を振りかざした。だがその攻撃は再びあっさりと受け止められてしまう。
「信じたくはないでしょう、でも事実なんですよ」
レナードは冷笑を浮かべる、香月の分魂は歯噛みした。
『クソッ……、マジで黙れよ!』
怒りに任せ、レナードの顔を全力で殴りつける。だがそれでも彼は動じずに余裕の笑みを浮かべて言い放った。
「フフ……そう、貴方を追いかけてこの日本に来た貴方の幼馴染はね……、我々の息が掛かったスパイなんですよ」
『……ッ!』
香月の身体に戦慄が走る。レナードの言葉が頭の中で何度も反響した。
(クレアが内通者……? そんな馬鹿な……)
確かに妙だと感じさせる節は、Reinrevert《輪廻遡行》で周回する前のレナードと麗奈が教皇庁の分教会を襲撃した時に一度あった。
だが、それでも彼女は自分にとっては家族のような存在であり、魔術協会に保護されてからずっと共に過ごしてきたのだ。そんな彼女を疑うなんてできるはずもなかったし、信じたくも無かった。
しかし、同時にその疑念を否定できるだけの材料もないのも事実だった。
(もし本当にそうだとしたら、一体どうして……?)
疑問ばかりが頭を過ぎる中、レナードは続けた。
「まあ、せいぜい絶望すると良いですよ。彼女の役目はこれで終わり、あのお方が貴方の仲間達諸共始末している事でしょう」
レナードはそう言うと、魔術銃を再び構えて引き金を引いた。眩い閃光が放たれ、それに目が眩んだ次の瞬間にはレナードの姿は消え失せていた。
◆
一方、本体の方の香月は本物のイヴの護衛チームと合流していた。それは分魂がレナードに接触したほんの少しだけ後の瞬間の事だ。
だが、事態は急転していた。香月たちは窮地に立たされていたのだ。
『カヅ……キ……』
その瞬間、香月の心臓は凍りついた。視線の先には、クレアの胸をイヴ……いや、彼女の肉体を乗っ取ったエドワードの手が無惨に貫いている光景があった。
エドワードがイヴの肉体を乗っ取った方法は依然わからなかった。しかし、そんな疑問など今はどうでも良かった。
クレアの血が赤い花のように弾け、彼女の着る黒いパーカーを濡らしていく光景は香月の心を乱すには十分だった。
イヴが身体を乗っ取られたのにいち早く感づいたクレアは身を呈すように香月を庇った。
「クレアッッ!!」
彼女が伝声魔術で香月の耳元に伝えてきた、力無く香月の名を呼ぶ声。それに思わず香月は悲痛な叫び声を上げた。だが既に手遅れなのは誰の目にも明らかだった。
クレアの身体はドサリと崩れ落ち、その身体から赤い血だまりが広がって行く。
クレアの唇が小さく、震える。
「カ……ヅキ……」
本当に消え入りそうな声だった。香月はハッとして駆け寄った。だが、もう遅かった。
膝を突いて顔を覗き込んでくる香月の頬へ触れようと彼女は手を伸ばそうとする。だが、その震える指先は無情にも宙を掠めてしまう。そしてそのまま地面に落ちた。
「くそっ! 何でなんだよ! 何でクレアが……っ!」
悔しさに歯嚙みする香月をあざ笑うかのようにエドワードがケタケタと笑う。血にまみれたイヴの顔を歪ませたその笑みは、まるで人の感情を逸脱した何かのように思える。
「アハハッ!死んだな……」
「エドワード……ッッ!」
怒りに任せて殴りかかろうとするが、その前にエドワードの血に染まった手刀が香月の左胸に既に迫っていた。視界が反転するような衝撃が襲った。
「がはっ……!」
心臓を貫かれた。そう気付いた時にはもう遅かった。熱い痛みが胸を焼き、血液が喉元に逆流する。
(クソッ……!)
視界が霞み、意識が遠のいていく。
(何なんだ。何なんだよ……!)
瞼の隙間からぼんやりと映るのは、倒れ込んだクレアの亡骸の姿。信じがたい現実が何度も胸を締め付ける。
(どうしてクレアが敵の内通者なんだよ……!)
心臓の鼓動が遠のいていく。
香月は薄れゆく意識の中で必死に抵抗しようとする。だが、それも虚しく身体が地面に倒れ伏した瞬間に彼の意識は途絶えた。




