19.夜明け前の静寂
こうして大須商店街での一連の騒動は一件落着となった。
夜の商店街にはネオンと街頭の光が煌めき、いつもの夜の緩やかな賑わいを取り戻したかのように見える。だが、その静けさの裏には魔術協会の処理班による迅速な対応が隠されていた。
被害を受けた家屋や商店はすでに魔術で修復され、襲撃を受けて燃えた教会については「火災」というカバーストーリーが流布されていた。処理班の尽力によって人々の記憶からは騒動の痕跡が消され、夜の街はいつも通りの風景を取り戻していた。
「これで本当に終わったのか……?」
香月は商店街の片隅で様子を見守りながら、隣に立つ少女に問いかけた。陽子だ。
彼女は未だ薄く残る魔術の気配を探りつつ、夜空を見上げた。
「ああ、安心して良いよ。霧島麗奈による事件はこれ以上何も起きない。よく一人で頑張ったね、合格だよ。改めてようこそ、夜咲く花々の廷へ」
「そりゃどうも」
香月は商店街の片隅で立ち止まり、暗闇に視線を向けた。麗奈の騒動が無事に収束した今でも、彼の心には一つの疑問が残っていた。イヴの事とならばいつもなら確実に介入してくるはずの吸血鬼の神父——ロナルドが、なぜ今回は何もしなかったのか。
「おい、吸血鬼。居るんだろ。出て来いよ」
香月は何の迷いもなく闇に向かって声をかけた。陽子が隣で眉をひそめたが、香月は気にせずそのまま言葉を続けた。
薄暗い路地の奥から、ゆっくりと白いローブに身を包んだ男が姿を現した。ロナルドは相変わらずの仏頂面を香月に向ける。
「貴様、気付いていたのか」
ロナルドは軽くため息をつき、香月と陽子に向かって歩み寄った。
「霧島麗奈と戦闘している時にな。お前の事だ。襲撃を受けた後、イヴを連れ去って逃げる二人を追ってたんだろ? なのに何で今回は手を出さなかった?」
「それはね、私が止めていたからだよ」
香月の問いかけに代わりに陽子が答える。香月は視線だけ動かして陽子を見た。
「私達、夜咲く花々の廷は教皇庁にも協力関係があるんだよ。共闘した事があるならロナルドさんが何で魔術を使えるかって疑問に思ったでしょ」
「ああ、そうだな。魔女狩りが魔術を使うってのは聞いた事がない」
「それにはいろいろ事情があるんだけど、とりあえず今はその事は置いといて。とにかく私達の組織と魔術協会、それに教皇庁は持ちつ持たれつの関係なんだ。彼には私達から魔術の指導をしてるんだ」
「そうなのか……それで?」
香月が目で続きを促す。
「君に試練を与えていたからね、だからロナルドさんには手を出させなかったんだよ」
「そういう事だ。貴様が夜咲く花々の廷の加入が正式に認められたのは不服ではあるがな」
「そりゃどうも。光栄だぜ」
香月は軽く笑って、それから陽子に視線を移した。彼女は笑みを顔に浮かべていたが、その視線は真剣そのものだった。
「さて、と。少年。君は正式に夜咲く花々の廷に加入した。とはいえ、これから君には更なる試練が振りかかるよ」
「どういう事だ?」
「予言さ。君は、これからも何度も運命に翻弄される。大きな後悔と挫折を味わう事になるだろう。でも、それでも諦めずに前に進んでくれ」
香月は眉根を顰め、陽子をじっと見つめた。彼女は静かに続けた。
「次の乗り越える壁は、もうすぐそこまで来ているよ。まずはそれに心の準備をしておくといい」
「乗り越える壁……?」
香月は陽子の言葉を反芻し、そして首を傾げた。彼女の言う「壁」とは何なのか、彼には想像もできなかった。
「ああ。それはきっと君にとって大きな試練となるだろう」
陽子はそう言って、再び笑みを浮かべた。
「さて、私はこの辺りで失礼するよ。満月亭に連れて行かれた協会の元幹部魔術師の方に用があるんでね。この後ジェイムズさんから連絡が来るだろう、君も一度本部に戻るといい」
「そうか。わかった」
香月は頷き、陽子に向かって手を挙げた。陽子は軽く頷いてその手を握り返すと、ゆっくりと離れて行った。
そして最後にロナルドに一声掛けてからその場を後にした。




