3.クレア・フォードとの合流⊕
満月亭を出てからしばらくして、日も暮れた午後七時に名古屋市の中心街である栄から三十分ほど電車を乗り継いで行ったジェイムズに指定された集合場所へ香月は出向いていた。
稲永駅、名古屋駅から名古屋臨海高速鉄道あおなみ線を金城ふ頭方面へ乗って行った先だ。
海の近い稲永周辺には企業の工場やオフィスなどが多く、緑地や大きめの公園もあり都市の中では割と緑の多い自然豊かな地域である。
香月は、ジェイムズが手配したという任務のパートナーが車で迎えに来るのを待っていた。
実際に香月が合流できたのは稲永に到着してから十五分してからだった。
今から夜の海運倉庫に行くのにそれなりに適した偽装なのだろう、香月の目の前に停まってクラクションを軽やかに二回鳴らしたのは小型のトラックだった。
暇潰しに覗き込んでいたスマホの画面から目を上げ、香月はトラックに近付くと助手席側のドアを開けた。
『やあやあ、カヅキ。久しぶりだねえ! 君に会えない日々が本当に長くて長くて、待ち遠しかったよ! 元気してた? 大好きな君に会えたのがとても嬉しい!』
ドアを開けるや否や、耳の中からキンキンと響く高い声が聞こえた。
イヤホンはつけていない。耳の中で直接音が響いているのだ。耳の奥がぶるぶると振動するこの感覚には覚えがあった。本当に一年ぶりくらいだろう。
なるほど、ジェイムズがニヤニヤと笑みを浮かべる訳だ。ひとつ、ため息をつく。
香月は運転席に座る人物に目をくれるまでもなく助手席に座ると、眉根を寄せた。
「久しぶりだな、クレア。毎度のことなんだが伝声魔術で話すのはやめてくれないか? お前の声が頭に響く」
クレア・フォード。香月が魔術師として修練を始めるようになり、イギリスで過ごし始めた十二歳の時からの馴染みだ。
初めて会ったのは彼女が十歳の時だった。魔術の勉強を同じ机で行い、時には彼女の家族と共に食事をし、余暇も一緒に過ごす事も多かった。それから七年ほどの付き合いともあって、彼女の香月への懐き具合はまるで子犬のようで、少し過剰とも言える程だった。
彼女とは、イギリスを離れて今の中部支部に配属されるようになってからは一年会っていない。
彼女の家柄は風魔術の名門として有名な家系である。
魔術学院に入校する前の期間、義父の伝で基礎的な魔術を彼女の家で学ばせて貰った頃からの付き合いだ。
金髪のショートヘアに碧眼、イギリス人にしては身長は低く160センチには満たず小柄な体躯。常に首にかけているワイヤレスヘッドフォンがトレードマークの彼女。
一見すればクレアは大人しそうな風貌で、表情は無表情に近いくらいに乏しい。そして、かなり無口な部類で静かな印象だ。
先ほど香月の耳の中で響いた彼女の声というのは、香月の言った通りに伝声魔術という直接鼓膜と耳小骨を振動させて声を伝えるという彼女独自の魔術によるものだ。
だから、彼女の口からは一言も発せられていない。彼女が自身の口で喋る時はぼそぼそとまるで蚊の鳴くような、微かで弱々しい声なのだ。
しかし、その内に秘める気質というのは香月の耳の奥で響いている通りだ。そう、甲高い声でよく喋って──実際には声に出してる訳ではないのだが──とにかくやかましい。
そんな彼女ではあるが、これでも協会の中では扱う者も珍しい音を操る魔術師として、その力量や魔術に対する発想力の豊かさから来る高度な技術を学会で発表しては高い評価を受けている天才だ。
風魔術の名門の末娘である彼女は、そのフォード家の長い歴史の中で代々研究され継承されてきた風魔術を応用進化させた。それがクレアが操る、彼女自身が独自にジャンルを確立した音魔術なのだ。彼女がこうしてわざわざ口で伝えず魔術を使って言葉を直接耳に届けてくるのも、自身が音の魔術師であるのだという主張みたいな物なのかもしれない。
もっとも、香月にとっては彼女を煩わしいと感じる要素の一つではあったのだが。
『良いじゃん。君だけにボクの声を届けたいんだよ。これがボクのアイデンティティってもんだよね?』
クレアが乏しい表情のままで小首を傾ける仕草を向けてみせる。
頭の中でキンキン響く声さえなければ本当に静かな印象なのだが、大人しさが見て取れる容姿とは裏腹に中身は相当に喋々しい。その外面と内面のギャップこそが彼女らしさとも言える。
『ボクもう十八歳になったんだ。ちゃんと大人の女性としてカヅキに会いに来たんだよ。さあさあ、これはもう結婚するしか──』
耳元で囁かれる彼女の猫撫で声に香月は眉をしかめ、
「それより、現場へ急ぐぞ。積もる話は任務の後だ」
『何だよ、つれないなあ』
話を逸らされた事を不服そうにクレアが唇を少し尖らせる。車を発進させる為にシフトノブをドライブに入れたのを一瞥し、疲れると言わんばかりに香月は嘆息した。
◆
ほどなくしてクレアと合流した場所から十分ほど車で行った先にある古倉庫へ向かう事となった。今回の任務の目標はその中だ。
車を走らせ始めてから数分間はクレアは不機嫌そうに黙りを決め込んでいたが、久方ぶりの一緒というのもあって会話がしたい気持ちの方が勝ったのだろう、すぐに気分を切り替えるように明るい口調の伝声が香月の耳を打ち始めた。
彼女の話の内容は香月が英国を離れてから今までの間に起きた出来事についてが大半で、彼女の近況報告だった。
この一年の間にクレアは新しい術の開発に勤しんだり、ダウンロードで済ませる事もできるこの時代に日本からわざわざアニメのブルーレイや音楽CDを輸入して楽しんでいたりしていたようだ。他にも彼女の兄が協会内での階級を上げたらしい。
そんなたわいもない話をあの喋々しい口調で聞かせてくるのを、香月はわかったわかったとばかりに返事をしていた。
クレアは短い間にめまぐるしく話題を変えてくる。そうしてこの数分の間に彼女の近況報告は四つ目に移ろうとしていた。
『そうそう、そういえば。またカヅキに会える日の為にね、ボク自身の改造をしてきたんだよ。見てわかんない? 今回は凄いぞお、驚くぞお』
「何だよ勿体ぶってよ。改造って、サイボーグにでもなったのか? ネットに繋がるようになったとか。電波飛ばせますとかか?」
『違うよ。何でそんなSF作品の登場人物みたいな風にならなくちゃいけないのさ。カヅキの好きなアニメの趣味なの?』
クレアの乏しい表情にわずかに不満の色が出る。ひとつ、鼻を鳴らすと彼女が薄く笑みを浮かべた。
『ほら、こうすれば鈍いカヅキにもわかるんじゃないかな?』
そう言うと、彼女は羽織っていた黒いパーカーの前のジッパーを下ろし始めた。そうして大胆に肩から下が出るようにそれをはだけさせる。パーカーの下からノースリーブ一着の彼女の華奢な肢体が現れた。
『見て』
クレアはイギリス系の中ではだいぶ童顔な部類で背もそこまで高くなく156センチほどだ。とはいえ、そのスレンダーな部類ながら出るところはしっかり出ているし引っ込むところはしっかり引っ込んでるスタイルの良さは、一応日本人感覚の──しかもあまり異性に免疫がない香月にとってはそれなりに目のやり場に困るものだった。
香月は思わず顔のあたりが熱くなるのを感じた。
横目で一瞥、という感じではクレアの機嫌を損ねそうだった。一応、恐る恐る視線を彼女の身体を沿わすように下から上へ。へそのあたりから胸元まで見たところで視点が止まり思わず声を上げた。
「──魔術刻印が増えてる」
胸元から鎖骨のあたり、そこから左腕の方に続くように、彼女の白い肌が露わになっている部分にまるで刺青のように文字列と紋様が薄ぼんやりとした青白い光を放って浮かび上がっていた。
魔術刻印とは、その名の通り魔術の始動の為のトリガーとしてや魔力の増強を目的として魔力を通しやすい特殊な染料で身体に紋様を刻むものだ。イメージとしては自らの肉体を土台として、そこに魔術の術式を描くようなものとして考えておけばわかりやすい。
第三世代魔術の正統進化とも言える物だ。
魔術刻印に使われる染料は無色透明で普段は肌の色と馴染んだ状態になるが、魔力が込められると青白い光を放って術式の文様が浮かび上がる。この光は魔力を感知できる人間にしか見えない。魔術の隠匿を考慮した造りになっているのだ。
ジェイムズとの話にもちらりとあった、現代の最新に普及した魔術である第四世代魔術。今では魔術師達が自分の専門の魔術を発動させるのに普遍的に使われている。無論、術式は各々違うものの香月もまた魔術刻印を自らの身体に彫っている。
刻印は彼女の伝声魔術を発動させているのに反応して浮かび上がっている。
『そうそう、この前学会で発表した論文の報償金で彫り師に描き足して貰ったんだ』
彫り師とは、魔術士師向けに魔術刻印をその身体に描く専門の魔術師の事だ。魔術刻印は基礎的な物なら自身や家系の者に描かせる物ではあるのだが、複雑な術式ともなると繊細な技術が必要になる。
彼女が扱う音魔術というのはそういった専門家に任せないといけないレベルの物らしい。
『今回は胸から左腕にかけてまでだけど、それだけでも前にカヅキに会った時より魔術に乗せれる魔力の出力がだいぶ増したんだよね』
そう言って、クレアは半端に羽織っていたパーカーから左腕を抜いて香月に見えるようにスッと腕を伸ばす。青白く光る刻印は彼女の左手の甲まで届いていた。
「イギリスに居た頃は確か背中だけだったもんな。あれはお前の音魔術を発動させる方の刻印だったか」
『うん、今回は魔力増幅のなんだ。次、右腕が終わったら脚の方にも入れようと思っててさ。ほら、このあたりとか』
クレアが車が信号待ちなのを良い事に、運転席の背もたれに身を預けて両脚を上げた。こじんまりと両膝を抱えるような形になりハンドルの上にスニーカーの足裏を乗せると、白いショートパンツから伸びる片脚からニーハイソックスを下げて肌を露わにした。
『ねえねえ、カヅキはどう思う?』
指先で太腿からふくらはぎにかけて滑らせながら、小首を傾げてみせる。クレアの柔らかそうな太腿を見て、心の奥底から抑え切れない何かが湧き上がるのを感じたが、それを悟られぬようにさりげなく視線をそらした。
横目だけでクレアを見ていると目に飛び込んでくる刺激の強いそれに免疫のない香月はまた顔のあたりが熱くなるのを感じていた。そうして、香月は視線を前に戻して苦い表情をした。
「車の中で無闇に脱ぐなよ。目のやり場に困る。あと、運転中にペダルから足を離すな。危ないだろ。わざとやってるのかよ」
それを見てクレアが悪戯っぽく目を細め、口元を綻ばせた。
『うん、勿論。照れるカヅキが見たくてね』
「任務中に事故らせるつもりかよ」
『ちゃんと車を停止させてるから大丈夫だよ。まあ、君が照れてくれるなら事故してもボクは本望だけどね』
「二人とも死んだらどうするんだ。ちゃんと安全運転で頼むぞ。もうそっち見ねえからな」
『ケチだなあ。じゃあ、最後に一つだけ。ボクが気付いて欲しかったのは魔術刻印だけじゃなくてね……』
そう言うと、クレアが助手席の香月の方へ身を乗り出すようにして頭を肩に乗せるようにして身体を預けてきた。そうして、右腕を腹の上あたりに差し伸べると胸元を強調するように抱え上げてボソッとかぼそい声で耳元に直接囁いてきた。
「……前よりちょっとおっきくなったよ」
その発言と、クレアがダメ押しとばかりにわざと右腕に押し付けてくる膨らみの柔らかな感触。思わず香月は、顔がみるみる紅潮していくのが自分でもわかった。
「だから俺をからかうなって……!」半ば叫ぶようにそう言うと、片手で彼女を運転席に押し戻した。呼吸を整えるようにひとつ嘆息する。「そういえばよ、ひとつ質問があるんだけどよ」
香月の端的な質問にクレアがニーハイソックスを上げながらキョトンとした顔を返す。再び、伝声魔術で返事をした。
信号が変わって再び車を走らせ始める。
『何? ボクとの間に作りたい子供の数? ボクは十人くらいが良いなあ』
「違えよ。しかも多いな。あのな、確かクレアは魔術学院を卒業してフォードの屋敷の方で研究職するんじゃなかったのか? 何で日本に?」
『そんなの言わずもがなだろう?』目を細めて、横目で香月を見やる。『君を追ってきたんだよ、お屋敷に我が侭言ってね。それでジェイムズのおじ様に無理言って君がいるこの支部の一員としてねじ込んで貰ったんだよ。勿論、魔術の研究は日本でも続けるつもりだし、学会の方にも出向くつもりだけどね』
「通りでジェイムズがニヤつく訳だよ、本当に……」
香月が呆れながら車内のセンターパネルにあるナビに目をやる。設定された目的地まではそろそろの距離になっていた。
香月がクレアに目配せをする。
「ここからでも大丈夫そうか?」
それだけ聞くと、クレアが静かにコクりと頷いた。
長い付き合いだけあって、どうして彼女がこの任務の相棒に据えられたのかは香月はわかっていた。そして、彼女もその役割は言われずともわかっていた。
『いけるよ。ボクの魔術が届く範囲内』
「わかった。サポートを頼む」
車が路肩に停まると、香月はクレアを残して車を降りる。そうして塀に囲まれた向こう側、ぽつりと灯った工業用ランプの明かりに薄く浮かぶ錆び付いた倉庫を見上げた。
「任務を開始するぞ」
Tips:『魔術刻印』
この世界での現行で広く使われている最新の魔術の発動方法。第四世代魔術。
第三世代魔術の弱点である、発動させる為の魔道具が手元に無いと発動できないという点を術式を術者本人に刺青として彫るという方法で解消している。
ただし、第三世代魔術のように魔力を込めるだけで発動する形では暴発の危険性がある為、発動させる言葉を術式に設定する形での運用がされている。