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伊深未来、モデルであるEVEの本名である。
彼女のモデルとしての仕事は順調だったが、その生活にわずかな息苦しさを感じ始めていたのだ。それと言うのも、オフの合間に彼女からしたら消息がわからなくなった魔術協会の面々に──特に香月に会いたい一心で、彼らの行方を足繁く探っているのだが手がかりすら掴めないからだ。
仕事をしながら、中心街をぶらりと歩き偶然魔術協会の誰かに会えたりしないかとか、インターネットで検索して新しい大神便利屋事務所の場所がわからないかとか、満月亭の場所が変わったと仮定してどこかに魔術協会の面々が出入りしてそうなところがないか探したりだとか、色々試してはいるが芳しくないのだ。
モデル業は順調で、案件も色々こなしている合間にそんな事を繰り返しているお陰で、その皺寄せの疲弊があった。そのせいで、彼女の心にはいつの間にか深い疲れが溜まっていた。モデルとしての仕事は常に華やかで、外見の美しさを求められる。しかし、その裏側では、伊深未来としての自分がどこかに置き去りにされているような感覚に囚われていた。
撮影の合間、控え室の鏡に映る自分を見つめながら、彼女はため息をついた。華やかなメイク、完璧にセットされたヘアスタイル、そして最新のトレンドを身にまとった姿は、誰が見ても「EVE」という名のモデルだ。しかし、その姿に映るのは、香月たちと共に過ごした日々を思い返す、寂しげな表情をした「伊深未来」だった。
そんなある日、イヴはモデル仲間に誘われて映画を観に行く事になった。その帰り道での事である。何気なく駅前の通りを歩いていたイヴの耳に聞き覚えのある声が飛び込んできたのだ。
「香月君……?」
思わずそちらに目を向ける。それは人通りの多い繁華街でのことだったのだが、その声が彼女の中でまるで磁石のように引き寄せるのだ。
声の主は彼女が探している人物に違いないと思ったイヴは居ても立っても居られず駆け出した。そして人混みをかき分けるように進むうちに、やがて彼女の目の前に一人の青年の姿が現れる。
間違いない。彼だ! と確信すると同時に彼女は叫んだ。
「香月君!」
その声に反応して振り返ったのはやはり香月だった。彼は驚いたような表情を浮かべて、そして驚いたように口を開いた。
「イヴ⁉︎」
その声を聞くだけでイヴは胸が高鳴るのを感じた。やっと会えたという喜びと、ずっと探し求めていた人物と再会出来たことに対する喜びが入り混じった複雑な感情だった。
しかしそれも束の間のこと、香月は慌てた様子でその場から立ち去ろうとする素振りを見せたのだ。
それを見逃すまいとイヴは慌てて彼の後を追いかけた。「待って!」と叫ぶも彼は止まらない。むしろ逃げているようにさえ見えたが、それでも彼女は諦めなかった。
やがて香月が路地裏に入ったところで、イヴはようやく追いついた。
「はぁ……はぁ……やっと追いついた……」
息を切らせながらイヴは言った。
そんな彼女に対して彼は困ったような表情を浮かべながら言った。
「どうして君がここに……?」
それに対して彼女は答えるのだった。
「それはこっちのセリフだよ! ずっと探してたんだから!」
そう言うと、彼は少し困ったような表情を見せた後に言った。
「そうか……」と呟くように言うと黙り込んでしまう。その様子を見たイヴは慌てて言った。
「あっごめんね……つい嬉しくて……」
申し訳なさそうに謝るイヴに対して彼は首を横に振りながら言った。
「いや、謝らなくてもいいんだ……ただ驚いただけだから……」
そう言いつつ、何かを考えるような仕草を見せる彼だったがやがて意を決したように口を開いた。
「わかった……話すよ」
それから彼は語り始めた。まず最初にイヴに一般人としての生活を送って欲しかった事、その為に魔術協会との関わりを絶たせる動きをした事を語った。そして最後にこう付け加えたのである。
「……だからさ、俺達はそもそも普通の人間じゃないんだ。だから君と一緒に居る資格なんてないんだよ」
そう言って俯く彼にイヴは何も言えなかった。確かに魔術師は普通の人間ではないかもしれない。
けれど、だからといって諦める事はできなかった。そんな彼女の気持ちを察してか、彼は続けてこう言った。
「……俺なんかには関わらない方が良い」
そう言い残し去ろうとする彼を引き止めるため、イヴは咄嗟に手を伸ばした。
「待って!」
叫びながら彼の腕を掴もうとするがその手は空を切っただけだった。
そしてそのまま香月の姿は見えなくなってしまった。
残されたイヴはしばらく呆然と立ち尽くしていた。
「香月君……」
ポツリと呟くように彼女の口から零れた言葉は誰にも聞かれる事なく消えていった。
次の日、彼女はいつも通り仕事へ行くために家を出た。途中、すれ違う人々の中に彼の面影を探してしまうのは最早癖のようなものだろう。
事務所に着くと真っ先にマネージャーである柚希に話しかけられた。それなりに長い付き合いの彼女には香月の事は、魔術協会の話は抜きにして伝えてある。昨日の映画を観に行った帰りにその好きな人を偶然見掛けた事を伝えると驚いていた様子だったが、すぐに納得してくれたようだった。
それからというものイヴは毎日のように駅前に通ったのだが、結局一度も会う事は出来なかったのである。それでも諦めきれずに何度も足を運ぶうちに次第に彼への想いは強くなっていった。
そんなある日の事だった。
イヴがいつものように駅へ向かう途中の出来事である。
人通りの多い繁華街を歩いていると、ふと視界の端に見覚えのある姿を見つけたような気がした。慌ててそちらに目を向けるとやはりそこには彼の姿があったのだ。
「香月君!」
思わず叫んでしまうイヴ。その声に反応して振り返ったのはやはり香月だった。彼は驚いたような表情を浮かべているように見えたが構わず駆け寄るとそのまま抱きついたのである。
突然の事に動揺する彼だったが、すぐに落ち着きを取り戻すと言った。
「またなのか……懲りないな……」
「まだ私、諦めてないよ。お礼だってまだできてない」
「でもな、君は一般人として生きてくれ……いや、生きるんだ。こっちの世界には来るべきじゃない」
しかしそれでもイヴは諦めなかった。
「私は香月君と関わりたいの!」
その言葉を聞き終える前に彼はイヴの腕の中からすり抜けるようにしてその場を走り去った。残されたイヴは呆然と立ち尽くしていた。
◆
「ほお……、あのイヴというお嬢ちゃん。なかなか情熱的じゃないか」
ジェイムズが満月亭で任務の報告にやってきた香月に対してそんな感想を漏らした。
カウンター席に座った香月は、ジェイムズに出してもらったオレンジジュースを飲み干して言った。
「彼女は一般人なんだ。協会の方針的にも彼女の事は教皇庁預かりで任せるつもりなんだろう?」
そう主張する香月にジェイムズは疑問を抱いたようで尋ねた。
「なぜそう言い切れる?」
「イヴは教皇庁の護衛対象と言っても普通の女の子だ。魔術師でもないし魔術にも関わっていない。魔術師に狙われる可能性はあってもな」
その言葉を聞いたジェイムズはしばらく考え込むように腕を組んでいたがやがて口を開いた。
「なるほどな、では彼女に警告するのが良いのかもしれんな」
「え……?」
驚く香月に対してジェイムズは続けた。
「あのお嬢ちゃんは危険だ……このまま放置すれば、お前にモデルをやっている美人で可愛い彼女ができてしまう……。クレアが怒るぞ……こりゃ大変だ……」
と、ジェイムズは笑いながら言った。
「は!? な、何を言って……」と動揺する香月に対してジェイムズは言った。
「冗談だ。しかしあのお嬢ちゃんは本当にお前さんを好いてるようだな……。どうする?」
そう問いかけられ香月は黙り込んでしまったが、やがて口を開いた。
「イヴには幸せになって欲しいと思ってるよ。その為なら俺はなんだってするつもりだ」
その答えを聞いたジェイムズは少し驚いた様子だったがすぐに納得した様子を見せた。そして改めて問いかけるのだった。
「あのお嬢ちゃんを守りたいのか?」
その問いに彼は迷いなく答えたのだった。
「ああ、彼女の普通の生き方を守ってやりたい。魔術の世界には関わらせたくない。それが俺の望みだよ」
その答えを聞いたジェイムズは眉根を上げた。
「別にあのお嬢ちゃんは特別だ。何せ記憶処理の魔術が効かないんだからな。だから、俺が教皇庁に掛け合って魔術協会日本中部支部も彼女の保護に参加するようにはできるんだぞ? そうすれば、彼女も魔術協会の構成員達と関わっても問題なくなるが……」
ジェイムズは言い淀んだ。香月はそれに続けて言ったのである。
「だが、それは俺が望む事じゃない。イヴが普通に生活してくれれば俺はそれで良いんだ」
その答えを聞いたジェイムズは納得したように頷いた。そしてこう続けた。
「わかった。お前さんの気持ちは尊重しようじゃないか。方針は今まで通り、あのお嬢ちゃんには魔術協会には関わらせない方向で行く」
その言葉に安心した様子の香月に対して彼はさらに続けた。
「だが、イヴさんがお前さんに好意を寄せている以上、彼女がお前を追いかけ回してくるのは覚悟するんだぞ」
「うっ……」
苦虫を噛み潰したような表情をする香月に対してジェイムズは笑いながら言った。
「はっはっはっ……、まあ頑張れよ。お前さんならあのお嬢ちゃんを守れるさ」
◆
次の日、イヴは仕事へと向かうために家を出た。道中すれ違う人々の中に彼の面影を探してしまうのはもうルーチンワークのようになっていた。
事務所に着くと真っ先に柚希に話しかけられる。今日の話はと打って変わって明るいものだった。というのも、マネージャーの柚希が昔担当していた引退したモデルが専属のメイクアップアーティストとして入ったらしくイヴに紹介したかったのだそうだ。
早速彼女が来るのを待っている間に雑談をしていたのだが、その中でふとこんな事を言われたのである。
「一応立場上ね〜、アイドル売りもしてるんだから慎みなさいよとは言わなきゃいけないけど……。そういえばさ、その香月君って子さ。今どこで何してるんだろうね?」
その一言でイヴはハッとなった。確かにそうだ。彼は一体どこで何をしているのだろう?
イヴがその疑問を口にしようとするよりも早く柚希が言ったのである。
「まあでもさ、きっとこの名古屋の街で元気にやってるのは確かなんじゃないかな。少なくともイヴの誘拐があってから結構な期間が経ってるのに二回も見かける事ができたって事はさ」そして続けて言う。「それにさ、そのイヴの愛しの香月君って子はさ本当はイヴの事が好きだと思うんだよね。気になってない訳がない。だって、嫌いな相手だったら声をかけられても立ち止まって話なんて事すらしないじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、イヴは胸が熱くなるのを感じた。そして同時に嬉しさが込み上げてくるのを感じたのである。
「そう……なのかな?」
「そうだよ、きっと。そうだって──」
それからというものイヴはその事ばかり考えるようになったのだった。
(早くまた会いたいな……)
そう思いながら今日もイヴは次の現場へと向かう。
(でも、もしも香月君と一緒に居られるようになったら)
そう考えただけで自然と笑みがこぼれてくるのを感じた。
「……いつか絶対に、ね」
そんな独り言を呟きながら歩く彼女の姿は傍目から見ればただの恋する乙女にしか見えないだろう。しかし当の本人であるイヴにとってそんな事はどうでも良かったのだ。
ただ純粋に彼に会いたいという気持ちだけが彼女を突き動かしていたのだから。
そして今日もまた同じ一日が始まるのだった。




