中編⊕
場所を移動して、栄の大津通沿いのビルの地下一階にあるカフェに来た。
ここは昔からある老舗で、童話「長靴をはいた猫」をモチーフにした幻想的な内装が特徴の喫茶店だ。コーヒーをハンドドリップで出してくれ、棚にずらりと並べられたカップから気に入った物を選べるようになっている。
そこでモーニングセットを注文して、二人はあおいの話を聞いた。
「──つまり、姫咲の本家にかりんの婚約者のフリをして挨拶しに来て欲しいと? それで私をその役に?」
ジェイムズの言葉にあおいはこくりと頷いた。
「はい、その通りです」
あおいの話によるとこうだ。姫咲の本家としてはあおいに政略的な結婚をさせたいらしい。
それと言うのも、本家は元々奔放な性格に育ったかりんに見合いをさせるというのは考えられないらしく、そこで白羽の矢が大人しく従順な性格のあおいに立ったという事らしい。
しかし、あおいとしてはまだ若く結婚など、ましてや親の言いなりで政略結婚などしたくないのだそうだ。
そこで、本来の跡取り筆頭であるかりんに、名のある魔術師を婚約相手として連れてきて貰い、それを本家に認めさせるという作戦らしい。
「なるほど……話はだいたいわかりました。しかし、その……私なんかで大丈夫なんですかね。かりんとは年が離れ過ぎているから、御本家が納得するとは思えないのですが──」
「いえ、魔術協会の日本中部支部の支部長をされている実力者であるジェイムズさんなら両親を納得させるのは容易だと思いますよ。ましてや、知識・経験・実力ともにある方なのですから。姉にジェイムズさんのような婚約相手が居るというだけで、両親も安心するでしょうし」
「ふむ、そういうものなのですかね?」
ジェイムズが首を傾げるとあおいは続けた。
「はい。それに、これは私の個人的なお願いなのですが……私はどうしても結婚をしたくないのです。だからどうかお願いします!」
あおいはそう言って深々と頭を下げる。
ジェイムズはその姿を見て少し考えた後、口を開いた。
「わかりました。そういう事なら協力しましょう」
あおいは顔を上げて嬉しそうな顔をした。一方、かりんはというと──
「普段あんまり注文しないけどぉ、小倉トーストって中毒性あるよねぇ〜」
などと呑気にモーニングセットのトーストを頬張っていた。
◆
それから数日が経ち、ジェイムズとかりんとあおいは姫咲の本家へと向かう事になった。
名古屋駅から新幹線で京都に向かい、そこから在来線を乗り継いで向かう事になる。
「ねえ〜? あおいちゃんって今いくつなんだっけ〜?」
かりんがそう聞くと、あおいは答えた。
「私は二十歳ですよ。そういえばお姉ちゃんは?」
あおいが聞き返すと、かりんは缶ビールを片手にニコニコしながら答えるのだった。
「私は十七歳だよぉ〜、永遠に十七歳だよぉ〜♪」
「おいおい……。それだと酒が飲める歳じゃないだろ……。それにお前は二十四歳……」
普段からかりんがだいたい酔っ払ってる様子しか見た事がないのを脳裏に思い浮かべて、ジェイムズが言う。
「違うよ〜? 合法的にお酒が飲める十七歳なんだよぉ〜?」
「はいはい、わかった。わかったよ」とジェイムズが苦笑しながら言うと、かりんはニコニコしながらおつまみのピスタチオを頬張った。
そんな雑談を交えながら電車に乗り続けて数時間。ようやく姫咲の本家に辿り着いたようだ。
「ほう……これは立派な……」
ジェイムズは感嘆の声を上げた。目の前に広がるのは、風格漂う大きな門構えの日本家屋の屋敷だ。白い壁と黒瓦が対照的に映え、伝統的な美しさをそのまま保っている。
敷地は広大で、手入れの行き届いた庭園が目に飛び込んでくる。木々は緑を深め、石灯籠が点在するその風景は、まるで一幅の日本画を思わせた。
「見事なものだ。まるで時代劇のセットにでも来たようだな……」
ジェイムズが驚嘆するのも無理はなかった。彼の目は、庭の奥に見える池の中を泳ぐ色鮮やかな錦鯉に釘付けになっている。鯉たちはゆったりと優雅に泳ぎ、その動きが水面に映える陽光を揺らし、まるでこの場所の時間がゆっくりと流れているかのような錯覚を覚えさせた。
その時、「カコーン」という音が響いた。ジェイムズは思わず耳を傾ける。
「この音は……なんだろう?」
あおいが微笑んで答える。
「ああ、あれは鹿威しですね。昔から庭園に置かれるものなんですよ」
「鹿威し……?」
「ええと……竹で作られた装置でして、筒状の竹に水が溜まって、その重みでバランスが崩れて倒れ込むんです。そして水が抜けた竹が、また元の位置に戻る時に石や木に当たって音が出る仕組みなんですね」
「カコーンという音はその衝撃音というわけか……」
ジェイムズは納得したように頷いた。
「もともとは、鹿やイノシシなどの動物を追い払うために使われていたそうですよ。庭の作物を荒らさないように。でも今では、そういう実用的な目的よりも、庭の景観を引き立てるためや、訪れる人を楽しませるために置かれることが多いんだそうです」
あおいの説明を聞きながら、ジェイムズはその鹿威しの音が持つ独特なリズムを感じ取ろうとしていた。自然と人間の作り出したものが調和するその音は、まるでこの静寂な空間の中で生まれた詩のようだった。彼はその響きに耳を澄ませながら、再び庭の景色に目を戻す。
「美しいものだ……日本の文化は、本当に細やかで、どこか心が落ち着くものがある。素晴らしいな、この屋敷は」
ジェイムズの言葉に、あおいは少し照れながら頷いた。
「確かに。日本の庭園は、自然と人工が一体となって美を作り上げる場所です。見た目の美しさだけじゃなくて、音や匂い、空気の感覚までもが含まれる。そういう全てを楽しむ場所と思って良いかもしれませんね」
しばらくの間、庭を進んでいきながらジェイムズはその景色を眺め静かにその空間の美しさを味わっていた。耳に届くのは、静かな風の音と鹿威しの響き、そして時折、鯉が水面を跳ねる音だけだ。
やがて、あおいはジェイムズに奥へ来るよう促すように手招きすると言った。
「ささ、ジェイムズさん。そろそろ中に入りましょうか」
あおいはそう言ってジェイムズとかりんを先導する。そして玄関で靴を脱いで上がり込むと、あおいが口を開いた。
「ただいま戻りました。お母様」
あおいの言葉に反応して、廊下の奥から着物を着た女性がやって来た。年齢は四十五歳前後だろうか。年齢はジェイムズと同じくらいだろうが、それにしても若々しく見える。顔は整っていて、髪は黒々としている。いかにも日本美人といった感じの容姿だ。しかし、姫咲の家系の特徴である青い瞳ではない。
「おかえりなさい、あおい。それにかりん。ええと、そちらの方は?」
あおいが事情を説明すると、彼女は納得してくれたようでジェイムズを家に上げてくれた。それから客間に通され、そこで待つ事になった。
しばらくすると、着物を着た50代ぐらいの男性がやってきた。彼が現姫咲家当主の姫咲誠だろう。魔術協会の全国集会で一度チラリと顔は拝見した事がある。姫咲家は女児ばかりが生まれやすい家系であるという話は聞いた事があるが、その中でも珍しく生まれた男だったらしい。
白髪混じりの髪を後ろで束ねており、顔には深い皺が刻まれているものの、若い頃は相当な美男子だった事は容易に想像できる容貌だ。その青い瞳の目は穏やかだが奥底に秘めた鋭さのような物を感じさせる。
まさに老練な魔術師といった様相だ。
「初めまして、ジェイムズ・ウィルソンと申します。この度はかりんさんと共に御本家にご挨拶に参りました」
ジェイムズがそう言って頭を下げると、誠も自己紹介をした。それからしばらく雑談が続いた後、かりんが言った。
「ねえ、パパ。私、ジェイムズと結婚するの。だから婚約の挨拶に来たんだよ〜」
「えっ⁉︎ あおい、それは本当か?」
かりんの言葉に誠は驚いた様子であおいに確認する。するとあおいはこくりと頷いた。
「はい、本当です。ジェイムズさんは魔術協会の日本中部支部の支部長をされてる方で、魔術師としても大変優秀ですし……それに人柄も申し分ない方です」
「ふむ……」
誠は少し考える素振りを見せた後、口を開いた。
「わかった。皆を呼んで来る。お話を聞かせては貰えませんかな?」
ジェイムズとあおいが頷くと、誠は部屋を出て行った。それから数分後にぞろぞろと部屋に入ってくる女性たちの姿が見える。
その中には見覚えのある顔もあった。あれは確か姫咲の分家の双子の姉妹だ。たしか名前は──命さんと玉藻さんだっただろうか。関西支部の調査班で活躍していると聞いた。
「へぇ……これがかりんちゃんの婚約者……」
「渋いおじ様……私も好みかも……」
などなどそれぞれが好きに口々に言っている。
そんな中で一人の女性が言った。年齢は30代前半ぐらいだろうか? 黒髪を後ろで纏めていて、鋭い目つきをしているものの、非常に美しい容姿の女性だ。
「はじめまして。姫咲碧流よ。今は東京の日本本部で調査部に所属しているわ。ジェイムズさん、よろしくね」
かりんやあおいとはまた違ったタイプのクールビューティといった感じの女性だ。
それから次々と自己紹介をしていき最後に誠が口を開いた。
「……とまあ、今日は本家も分家も含めて皆が集まってましてな。ジェイムズ殿、お話を伺う前にまずは食事と行きましょう。今日は泊まっていかれるでしょう?」
「ええ、そのつもりです」
「では……」
誠はニコリと微笑むと、全員に指示を出したのだった。
◆
それから数時間後── ジェイムズは姫咲家の大広間にいた。畳の上に長テーブルが並べられておりそこに所狭しと料理が並んでいる。和洋中なんでもござれといった様子だ。しかもどれもこれも美味しい。
勢揃いした姫咲家の面々を見ても本家・分家ともに美男美女だらけだ。
流石は、諜報活動をさせるならば日本でも指折りと一目置かれる名家だけある。
ジェイムズはそんな事を思いながら料理を食べていると、誠が声を掛けてきた。
「どうですかな? ここの料理は」
「ええ、大変満足していますよ」
ジェイムズがそう言うと、誠は嬉しそうに微笑んだ。
そして今度はあおいが口を開く。
「あのぅ……ジェイムズさん。本当に良かったんですか……?」
不安げな表情でそう含みのある聞き方をして来たので、意図を汲んでジェイムズは笑顔で答えた。
「ええ、勿論」
その端的な一言で、あおいは安心したような表情を見せると再び食事を始めたのだった。それからしばらくして食事も終わり、誠がジェイムズに話し掛けてきた。
「そう言えば、ジェイムズ殿。支部長の業務をする傍ら、魔術の研究もされてるようですな。どのような研究を?」
「ええ、それはですね……」
ジェイムズは頷くと言った。
「これは内緒にしとくつもりだったのですが……。私は、『並行世界』や『時空』とでも言いましょうか……それの実在を証明できないかと考えているのですよ。つまりはパラレルワールドやタイムトラベルですね」
ジェイムズの言葉に誠は少し驚いた様子を見せた。
「ほう? それはまたどうして?」
「いえね、最近よく聞くんですよ……世界中の魔術協会の支部が壊滅させられたり、幹部が暗殺されて壊滅したって噂がね。それで思ったんです。もし本当にそんな事があった時に、他の世界線での自分はどんな行動を取るんだろうと……」
ジェイムズの言葉に、誠は興味深そうな顔をして言った。
「なるほど……確かに興味深いですな」
「まあ、まだ何もカタチにもできていませんし、途方も無くて私の命の長さだけでは到底それを活用できる領域には到達できませんよ」
ジェイムズが苦笑すると、あおいは尊敬の眼差しを彼に向けて言った。
「凄いです! そんな事を考えられてるなんて!」
「いや……そんな大層な物では……」
照れるジェイムズに誠は笑いながら言った。
「いやいや、素晴らしい事ですよ。魔術の研究とはそういうものでしょう。魅了の魔眼を完成させた姫咲の先祖達も途方もない時間をかけてきたと聞きますし」
誠の言葉にジェイムズは納得したように頷くと、ふと思い付いたように言った。
「そういえば……御当主様は魔術で叶えたい夢とかはないのですか?」
その質問に誠は少し考えてから、フッと笑うと答えた。
「私のですか、そうですなぁ……」と前置きをしてから続けて言った。
「私はこの姫咲家をより発展させたいと考えておりますな」
なるほど、それはなんとも素敵な夢だ。
かりんも感心した様子でうんうんと頷いていたし、周囲の人間達も納得している様子だ。
そこで、ふとジェイムズが違和感に気付いた。酒をしこたま飲まされて視界がフワフワとしているが、姫咲の分家の娘達、誠がこちらを見ているのだ。いや、凝視していると言っていい。
その青い瞳には赤い光が発せられていて──
(魅了の魔眼⁉︎ しまった……!)
咄嗟に両目を覆う。
今、自分が何処に居るかを考えてみろという話だ。魅了魔術を使い、諜報活動をさせたら日本でも屈指の家柄の面々が勢揃いしている場所なのだ。
「おや、もしかしてバレてしまいましたか。惜しいですねえ」
「御当主、これはいったいどういう……」
「騙すような真似をして申し訳ない、ジェイムズ殿。しかしね、これはかりんの為なんですよ」
そう言われ、ハッとする。ジェイムズがかりんとあおいの方を見る。二人は魅了の魔眼を発動してはいなかった。
あおいは申し訳なさそうに顔を伏せていた。そしてかりんはというと何も聞かされてなかったのだろう、誠を睨んでいる。
「これは、どういう事だ……?」
ジェイムズが呟くと、誠は言った。
「私はね、元々かりんを次の跡取りにするつもりだったのですよ。それに貴方がかりんからのアプローチを頑なに断っているのを知っていた。あおいの縁談の話は、貴方をここに呼ぶ為の撒き餌ですな。それで、貴方を姫咲の婿に入れようと考えていたんです。こうやって自分達の領域に招いて、欲しい物を手に入れるというのが姫咲の流儀でして。あおいを会わせたのも貴方をここに招く為です」
言われ、そういえばかりんがよく自分に隙あらば魅了の魔眼を使ってくるのも姫咲の家の流儀のせいなのだろうと思い浮かんだ。
あおいは誠の言葉にびくりと身体を震わせていた。そして申し訳無さそうに言った。
「ごめんなさい……ジェイムズさん。私、お父様に逆らえなくて……!」
あおいには色々と思う所があったのだろう、この大勢からの魅了の魔眼の凝視には彼女は参加していない。
「ねえ、パパ! ちょっと、やめて!」
かりんが怒りの眼差しを向けて、ジェイムズを背に隠すように立ちはだかった。
「そういう姫咲特有の文化、私そういうの好きじゃない! あおいちゃんの為にパパを騙そうとしてたけど、私はちゃんとジェイムズが好きなの! だから他の人の力なんて借りずに私自身の力でジェイムズを振り向かせるから!」
かりんがそう啖呵を切ると、誠はニヤリと笑って言った。
「ほう……そうですか。まあ、いいでしょう」
そう言うと、姫咲の人間は全員魅了の魔眼を解除したようだった。
「ねえ、ジェイムズ。もう大丈夫だから顔を上げて〜」
かりんにそう言われ、ジェイムズは恐る恐る顔を上げる。すると眼前にニッコニコに笑顔なかりんの顔があった。
かりんはジェイムズの頬を両手で挟むようにしてから、顔を近付けるようにして言う。
「ね、大丈夫でしょ〜?」
「あ、ああ……」
「安心して、ジェイムズの事は私が絶対に落とすから〜」
それも安心できないんだよなと思いながら、目の前の満面の笑顔のかりんに何故かホッとしてしまう。笑んで閉じていたかりんの瞼が上がる。
そこには赤い光を放つ、かりんの青い瞳があった。そして、目が思い切りあってしまった。
「あっ──」




