27.イヴ、日常に帰る⊕
事件の終結から一ヶ月後、イヴは紙袋に服を詰めて自宅から事務所へと歩いていた。
酷い目には遭ったが、持ち前の前向きさで現場への復帰は早かった。
「おはようございまーす!」
事務所のドアを開けながら挨拶すると、それに答えるようにスタッフたちの声が返ってくる。
「イヴちゃん! 待ってましたよ」
「復帰おめでとう! 早く準備しましょう!」
そんな声に促されるまま彼女は事務所のホワイトボードにあるスケジュールを確認し始めた。今日はこれから雑誌の撮影の仕事が入っているのだ。
撮影スタジオに向かうとすぐに更衣室で撮影用の衣装に袖を通し、鏡の前に立つ。そこにはモデルの『EVE』の姿が映し出されていた。
その姿を見ると自然と笑みが浮かんでくる。
「よし、今日も撮影頑張るぞ」
イヴは小さく呟くと更衣室を出たのだった。そして撮影は滞りなく進み、予定よりも早く終了した。
「お疲れ様でした!」
スタッフの声が響く中、イヴは一通りの挨拶を済ませスタジオを出て事務所へと戻る事にした。
その途中にあるカフェで少し休憩をしようと思い立ち入る事にする。店内に入ると香ばしいコーヒーの香りが鼻腔を刺激してきた。
メニュー表を見ながら何を頼もうか考えていると不意に後ろから声をかけられた。
振り返るとそこには見知った人物が立っていた。
「ロナルド……さん?」
思わず名前を呟くと、彼は苦笑しながら言った。
「久しぶりだ。今は私も任務外だから、昔通りに呼んでくれて構わないよ未来」
そう言って席に座るよう促すのでイヴもそれに従った。
ロナルドがアメリカンを注文するのを見つつ、イヴはちらりとメニュー表を見て悩む仕草をして見せる。どうやらこちらの様子を窺っているようだ。
そんな様子の彼女を微笑ましく思いながらロナルドは言った。
「決まったかい?」
その問いに彼女は少し恥ずかしそうに答える。
「あの……砂糖はたっぷりが良いです……」
その答えにロナルドはクスリと笑う。
「あ、笑わないでよ!」
彼女は頬を膨らませて抗議するように言った。その様子にますます笑いが込み上げてくるがなんとか堪えた彼は「すまない」と謝りつつ言った。
「じゃあ、未来の分はカフェオレで注文しようか」
それからしばらくして運ばれてきたコーヒーを飲みながら二人は雑談をしていた。
「まさかロナルドさんが昔施設にいたロニお兄ちゃんだとは思わなかったよ。全然気付かなかった」
「あそこに居たのは十三年前の事だし、今と姿が変わってない。未来が気付かなかったのも仕方ない。私もこの身体だ。不自然なくらい老けてないだろう?」
「うん、そうだね」
そう笑う彼女の顔には、まだ彼女が幼かった頃の面影がある。あの頃の思い出が甦ってくるようで、少し胸が締め付けられるような気持ちになった。
彼女は、教皇庁が運営する養護施設に保護されていた。ロナルドは神の子の再臨として密かに護衛する立場だったのだが、そもそも人懐っこい性格をしていた彼女とはよく一緒に遊んであげたりなどしていたのだ。
昔を懐かしんでいるのを悟られないようにしながら彼は言う。
「ところで、今の生活は順調か?」
その問いに彼女は答えた。それは以前よりもずっと充実したものだった。誘拐された後、誰かにつけられている気配も無い。仕事も順調に復帰できたし友人や仲間と呼べる存在もいるし何も不満はないと彼女は言った。「そうか」と言いながらロナルドは思う。
(良かった)
心の底からそう思ったのだ。彼女が幸せに暮らしている事を知れて本当に良かったと心から思う。
「そういえば、あの後……ディヴィッド・ノーマンっていう組織はどうなったの?」
ふと思い出したように彼女が聞いてきたので、ロナルドは答える事にした。
「ああ、それなら──」
◆
事件から一週間経たない内に、魔術協会と検邪正省によるディヴィッド・ノーマンの残党狩り作戦が世界各地で実施された。
影武者を捕縛した事で引き出す事ができた世界各地のアジトの情報を元に一斉襲撃がなされ、残りの影武者達の討伐・捕縛に成功したのだという。これにより、ディヴィッド・ノーマンという魔術犯罪組織はほぼ解体されたと言って良くなったという。
しかしそれでも全てのディヴィッド・ノーマンの影武者をしていたはぐれ魔術師を捕縛できたわけではなかったようだ。この仕事はまだ続いていく事になるだろうが、この問題の解決は遠い未来の話ではないというのがロナルドの見解だった。
また、討伐に参加していた魔術教会の高位の魔術師がディヴィッド・ノーマンの残党によって殺されてしまったという話もあったらしい。恐らく影武者の一人に殺害されてしまったのだろう。そう推測されていた。
その事件に関しては今後の動向を見守る必要があるという事らしい。
「──まあ、未来は安心して普段通りの暮らしを続けてくれれば良い。この話はこちら側の話だからな」
「あの、ロニお兄ちゃんは……」
「ん? どうした?」
何か言い淀んでいる様子だったので、彼は聞き返す。すると彼女は遠慮がちに言った。
「えっと……私は大丈夫だけど、ロニお兄ちゃんはどうなのかなって思って」
そんな彼女の気遣いに胸が温かくなるのを感じたロナルドは思わず微笑んだ。そして言う。
「ありがとう、心配してくれて。だが、私にも今後も色々と任務が下るだろうからな。しっかりやっていくつもりだよ」
彼女がそれを聞いて安心したように笑みを浮かべたのを見て、彼もまた同じように笑ったのであった。
「それじゃあ、私は行くとするよ」
そう言って、ロナルドが席を立つ。イヴが少し不安げな表情をして言った。
「また会える?」
「ああ、もちろんだとも」
ロナルドはそう答えると彼女の頭にポンっと手を置いてから店を出た。
◆
それから数日後の事。撮影や企業の案件をこなして、イヴの仕事は順調だった。詰まったスケジュールに空きができ、イヴは大須商店街に来ていた。
紙袋にお土産を入れて、まず向かう先は大神便利屋事務所のある方向だった。事件のお礼をしがてら、香月や他の魔術協会の構成員達に会いに行こうという考えだった。
「早くみんなに会いたいなぁ」
思わず言葉が溢れる。イヴは事務所に向かう足を早めたのだった。
そして数分後、目的地である大神便利屋事務所のあるマンションに到着した。中に入り、二階に上がる。しかしそこで彼女は違和感を抱いた。
(あれ……?)
確か、前に来た時は玄関に大神便利屋事務所の表札が掲げてあったのだが、そこには何も掛かっていなかった。
不思議に思いながらドアノブに手をかけるも鍵がかかっていた為、中に入る事はできなかった。仕方なく郵便受けに入れておく事にしたのだが……。
(なんだろう?)
妙な胸騒ぎを感じる。それはまるで、自分の大切な人が遠くへ行ってしまった時のようなそんな感覚だった。
イヴは何かを察したように駆け出す。そしてマンションの外へ出て、そこから二階の窓を見る。やはりそうだ。以前は窓に大きく貼り付けてあった大神便利屋事務所の文字が剥がされていた。
「ん? どうしたんだい、お嬢ちゃん。そんな慌てて……」
そんなイヴの様子を見て心配をしたのか、通りすがりの老婆がイヴに話しかけてきた。
「あ、あの! ご近所に住んでる方ですか? あそこの二階にあった事務所って……」
「ああ、あそこね。なんでも引っ越したみたいだよ?」
老婆はあっさりと答えたがイヴにとっては衝撃的だった。
「え……!?」
驚きの声を上げる彼女に老婆はさらに続けた。
「何でも、事務所を移転する事になったとかで急に引っ越す事になったそうだよ。まあ、あの便利屋さん若い人だったからねぇ……新しい場所でも元気にして欲しいわねぇ」
老婆はそう言って去っていった。残されたイヴはしばらく呆然としていたが我に返ると慌てて走り出した。向かう先は満月亭のある女子大小路の雑居ビルだ。
到着すると、四階までエレベーター上がり慌ただしくドアを4回叩く。
「あ、あの! 予約してたイヴです! お願い、開けてください! ジェイムズさん!」
ドンドンとドアを叩くが、反応はない。イヴは泣きそうになりながらもさらに強く叩こうとした時だ。ふいに扉がひとりでに開いた。だが、その中は──
「満月亭じゃない……」
そこにあったのは異界化されていない、かつて店舗だった場所に雑多に資材が置かれているだけのただの空きテナントだった。
「そんな……」
イヴは絶望するかのような表情を浮かべその場にへたり込んだ。
「どうして……?」
そんな呟きが、虚しく響くだけだった。
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地の文のおかしかった所を修正しました。




