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【第五章完結】現代魔術は隠されている  作者: 隠埼一三
Episode EX『現代魔術は隠されるべきではない?』
163/164

後編

 その日は雨が降っていた。

 それも、時間の流れをゆっくりと削ぐような、静かな雨だった。時は十五年前、ジェイムズが魔術協会の構成員としてキャリアを積み、日本中部支部の幹部候補として赴任してから1ヶ月後の事まで遡る。


 ジェイムズがようやく気持ちを振り絞ってその部屋に足を踏み入れたとき、陽子はすでに机の上に古びた魔術書を広げていた。

 白い指がページをなぞり、その先で文字が淡い光を放つ。室内には砂時計がいくつも並び、すべての砂が逆さを向いている。


「……遅かったじゃない、ジェイムズ君。時間を相手にするには、まず待たせないことから覚えなさいよ」


 陽子は眼鏡の奥で笑った。だが、その瞳の奥には、常にどこか寂しげな色がある。

 若いジェイムズは、その視線を受け止めきれずに小さく肩を竦める。


「すみません、時計が……壊れてて……」

「その言い訳、嘘でしょ。ううん、君が遅刻してくる事ももう経験しててわかってたから別に良いんだけど」


 一つ嘆息すると、陽子はジェイムズの傍に来て上目遣いに言った。


「メイドカフェの事務所……しかも私が居る部屋に入るのに緊張しちゃってたんだよね、ジェイムズ君は」


 陽子は唇の端で笑いながら、わざとらしく髪をかき上げた。

 肩口から覗く首筋には、細い刺青の痕──後にそれが魔術刻印である事がわかるのだが──が淡く光を帯びている。魔術学院時代の師匠であるエリオット・ペンデュラム教授から授かったとされる時魔術の秘奥義みたいな物……と彼女は言っていた。

 それは彼女が時魔術を高度に操れる証でもあり、同時に、誰よりも時間に縛られた者の印でもあった。


「そりゃ……その……。よ、陽子さんは、す、すごく……お綺麗ですから。そ、その制服よく似合ってます」


 ジェイムズの言葉に、陽子は目を瞬かせたあと、ふっと吹き出した。

 

「ふふっ。この台詞が来るってわかっているのに、面と向かって言われるとやっぱちょっと照れ臭くはなるね。君ってほんと、若いんだから」

「陽子さんと一歳しか変わらないじゃないですか……」

「ううん、私は精神年齢だけなら君よりもうんと年上だからね。君が私くらいの落ち着きを持ち始めるのはもっと先の未来さ」


 その一言に、ジェイムズは眉をひそめる。

 だが陽子は何も言い足さず、ただ彼の胸元のネクタイを軽く引き寄せた。

 魔術師としてではなく、どこか年上の女の仕草で。


「でもありがとう。そう言ってもらえるうちは、まだ私も君に嫌われてないってことだしね?」


 からかうような言葉の裏で、微かに滲む寂寥。

 陽子の目の奥には、彼の知らない終焉を見ているような陰があった。


 彼女はそっと手を離し、机の上の魔術書を開き直す。

 そのページに記された古代文字がゆらめき、空気の温度が変わった。

 逆さに並んでいた砂時計の砂が、ゆっくりと天へと昇り始める。


「……さて。緊張も解けたみたいだし、始めましょうか。という訳でぇ……」


 突然、陽子が両手の指をワキワキとし始めた。条件反射的にジェイムズが後ずさる。


「よ、陽子さん……? な、何を……」

「わかってるんでしょう? さあ、脱いで♡」


 にっこりと笑う陽子に、ジェイムズは顔を真っ赤にして首を振った。

 

「い、いや、その……心の準備が……!」

「何を勘違いしてるの。準備はもう整ってるんだよ、私の方はね」

 

 陽子は小悪魔的にウインクすると、机の上の魔術書に軽く指を走らせた。

 その瞬間、部屋の中に浮かぶ無数の砂時計が、いっせいに時を止める。砂の一粒さえ動かない。

 音が消えた。空気の流れが、まるで絵の中のように凍りつく。


「……今から君に魔術刻印を刻む。時魔術の基盤になる、君専用のタイムコードだよ」


 陽子の声だけが、静止した空間に響く。


「時が止まってるのを感じるでしょ? 君はね、()えてるんだ。私みたいに因果律に干渉する特異性は無いけど、エリオット師匠が遺した魔術書──時を操る魔術を扱う資質があるんだよ」


 陽子は机の引き出しから、細長い木箱を取り出した。

 開かれたその中には、銀の装飾が施された古い刺針具と、小瓶に入った透明の──しかし見る角度を帰ると時折青白く見えたり銀色に煌めく顔料が並んでいた。

 瓶の中の液体は、光を吸い込むように静かに揺らめき──見ているだけで時間の感覚が狂いそうになる。


「さあ、始めよう。私の魔術工房に案内するよ」


 陽子は銀の刺針具を手に取り、ふとジェイムズを見上げた。

 

「……ここじゃちょっと雰囲気が出ないしね。ほら、この事務所って照明が安っぽいでしょ?」


 彼女はおどけたように言うと、唇の端を上げ、軽く指を鳴らした。


「Let us party,tonight.《さあさ、未来の日本中部支部長様のご案内だ》」


 パチン、と。

 その一音が、世界の『再生ボタン』を押したかのように響いた。


 次の瞬間、景色が裏返る。

 重力の向きが一瞬だけ迷子になり、空気の粒子が光の帯となって流れた。

 足元にあった床が透け、壁が液体のように揺らぐ。

 ジェイムズは思わず息を呑んだ。


 気がつけば、そこはまったく別の空間だった。西洋の古城の中のような一室。彼女の心象世界を具現化したかのような、魔術空間の中だ。


「陽子さんってこういうの好きなんですね……」

「私の趣味は幼い頃からの筋金入りだから」

「だから、魔術学院(アカデミー)でも制服を着ずに黒いドレスを着てたんですか?」

「……ゴシックドレスは、私にとって心の在り方なんだよ」


 陽子は軽やかにスカートの裾を払うと、部屋の隅にあるベッドを指さした。彼女の趣味なのだろう、赤い布の天蓋が着いた広めのベッドだ。


「さ、そこに横になって。ちゃんと服を脱いで。上だけで良いよ」


 ジェイムズは一瞬だけ言葉を失った。

 息を呑み、視線を泳がせ、そして結局は観念したようにネクタイを緩める。

 陽子はそんな彼を見て、まるで可愛い生徒でも眺めるような目で小さく笑った。


「……ああ、その表情。本当、今の君は若いんだなっていつも感じるよ」

「あの……陽子さん……。その……十五年後の夏の話なんですが──」

「ふふ、その話はね、刻印を彫りながら話そうか。これは未来の魔術発動方式だから。少し後の時代では普及し始めるけど、この時代じゃまだ彫り師すら居ないの。だから──私が彫るしかないってわけ。ちょっと失礼するね、よいしょっと」


 陽子はそう言って、うつ伏せのジェイムズの背にそっと跨ってきた。

 黒いドレスの布がかすかに擦れ、柔らかな重みが背に乗る。

 息が止まりそうになる。彼女の手が静かに背をなぞるたび、指先から伝わる微かな熱が皮膚を撫でていった。


「……次にジェイムズ君はこう言う。『陽子さんのお尻柔らかい』だ」


 耳元でボソッと告げられ、ジェイムズの思考が一瞬停止した。


「陽子さんのお尻柔らか……はっ!?」

「はい、セクハラ発言いただきました〜。余裕で減点五十点です」


 陽子は笑いながら肩をすくめる。だが、その声色にはどこか懐かしさのような温かみがあった。


「冗談はさておき──本来なら私は技師じゃないから。必要だから出来るようにはしているけど、専門の彫り師と比べたら不器用なものだよ。……未来からマシロ君でも呼びたい気分にいつもなる」

「お、俺は陽子さんを信じてますから……」

「うん。ありがとう。大丈夫、この瞬間をもう何度も経験したしね。少し時間はかかるけど、ちゃんと機能する魔術刻印にしてみせるから」

「ええ、お願いします……」


 陽子は針を手に取り、ひとつ深く息を整えた。

 刺針具の先端が、瓶の中の透明な液をすくい上げる。魔力を込めると青白く淡い光を返すそれは、魔力を通しやすい特殊な導媒──魔術刻印の魔力経路とする為のものだ。


「ちょっと冷たいけど、我慢してね」


 そう言って陽子はジェイムズの背へと手を伸ばした。

 針の先が肌に触れた瞬間、微かな痛みと共に、冷気がじわりと染み込んでくる。

 呼吸の音さえ吸い込まれるような静寂。

 針が走るたび、肌の奥で淡い熱が生まれ、それがすぐにまた消える。

 液体の匂いは金属と薬草の混ざったような、少し甘く、少し焦げた香りだった。


「動かないでね。線を少しでも狂わせると、 魔術が発動しなくなるかも。そのくらい繊細で複雑な術式なの」


 陽子の声は淡々としているのに、不思議と優しさが滲んでいた。

 針の音が細く続く。

 チリ、チリ、と皮膚を走るたびに、そこに微かな魔力の光が宿り、やがて線となり、形を作っていく。


 ジェイムズは痛みよりも、彼女の指先の温度の方に意識を奪われていた。

 細い指が背に触れるたび、緊張が解ける。


「……十五年後は俺はどうなってるんですかね。陽子さんの言ってた始祖人類の先祖返りって子が肉体を奪われて、世界が崩壊するって話いまいちピンと来なくて」

「……それは本当に起こる事だよ。でも、私が時を周回する中で突破する糸口を見つけた。もしかしたら、君が家族を遺して死ぬ運命も回避できるかもしれない」

「運命の相手ってやつですか。俺は、陽子さんと付き合いたいですけど……ね……」


 そう呟くのに、背中越しに陽子が笑ったように息を吐くのがわかった。


「うーん……そうだねえ。もし十五年後、君が生き残ってたら愛人くらいだったら考えてあげてもいいよ」

「……それ、そうならない事をわかってて言ってますよね」

「あらら、バレたか。そうだね、君はこんな情熱的でも根っこは義理堅くて紳士だ。その頃には可愛い奥さんを大事にしてるから浮気なんてしないもんね」


 陽子の手が、そっと肩の上に触れる。

 掌の温もりが、不思議と胸の奥にまで届いた。


「陽子さん……」

「ん?」

「こうしてると、不思議です。痛いはずなのに、なんか……眠くなるというか」

「それは受け入れられてる証拠だよ。君の体が、私の魔力を拒まなくなってきたの。もう少し、力を抜いて」


 再び針が動き出す。

 痛みは鈍く、熱は優しい。

 刻印の線が交差し、繋がり、徐々にひとつの文様を成していく。

 陽子は集中したまま、息を潜めていた。

 時折、針を拭い、液体を足し、また走らせる。彼女は謙遜して言うがその動きには無駄がなく、熟練の手付きだった。


「……十五年後の夏、もしこの世界の危機を回避できていたなら、君も生きている筈だ。その時は、この魔術は君が大事にしている守りたい物の為に使いなさい」


    ◆


 白光が夜空を裂き、街が嘶くように震えた直後。ジェイムズは静かに自分の袖口を撫でた。煙草の火が微かに揺れ、彼の瞳に短い冷笑が浮かぶ。


(──さて。どう相手したものか)


 思考は浅く短い。だが、その背後にある意思は重かった。彼は右腕から背中にかけて展開した魔術刻印──その右腕をもう片方の手でぎゅっと握った。


(俺は、陽子さんやカヅキみたいに因果律に干渉できる特異性は無い。時間を前に進ませる事しかできない)


 普段、古典魔術である第一世代魔術や第二世代魔術──つまり詠唱や魔術陣による発動の魔術しか使わない彼が唯一、その身に彫り込んだ魔術刻印。

 これは、陽子から施された彼の取っておき。時魔術の魔術刻印だった。


 空気が瞬間的に厚みを増し、周囲の音が遠のく。時間の輪郭が、ゆっくりと歪み始めた。


「戦闘班、速やかにコイツらを制圧しろ」


 ジェイムズが厳かに告げる。

 三浦と二階堂はその言葉を受けて瞬時に動く。三浦は警棒を手に取り、二階堂は拳を構えて神の檻の残党達に突進する。

 ジェイムズと天草の間では静かな睨み合いが続く。


(陽子さんの言っていた『十五年後の夏』は過ぎた。カヅキが打った囮作戦のお陰で未来を襲う危機は回避されたと聞いた……あれ以降、陽子さんからは昔みたいな予言じみた発言をしなくなった。……いや、できなくなった(・・・・・・・))


 これは彼女が一度も未来を見てきた事の無い世界線だ。だから、この夏を迎えるまでに経験してきたみたいに因果律に生存が保証されていた死闘とは違う。

 自分が生きるかも、死ぬかもわからない戦いにはなる。無論、死にたくはないが。


(最悪、かりんとお腹の子は姫咲の家に任せれば良いだろうが……な)


 陽子のようにやり直しはできない。ともすれば──


「全力で行くぞ」


 ジェイムズが厳かに呟いた。拳に集中させた魔力を発動させる。陽子から聞いた話では、オル・カディスは不意打ちの類の意識外からの攻撃は防げなかったという。

 なら、知覚させる事無く攻め落とす。


Quiesce(クィエスケ)


 魔術を発動した。


     ◆


 支部長ジェイムズ・ウィルソンの魔術発動はいつもラテン語だ。それは彼がマイナーな部類の古典魔術を好んで使うからだ。しかし言葉の意味は清香にはわからない。

 ただ、何か魔術を発動した──そこまでは、確かに見えた。


 次の瞬間、全てが飛んだ。


 光も、音も、風も──一瞬で抜け落ちたかのように、世界は空白(・・)に沈む。

 誰も息を呑む間もなく、ジェイムズの姿は視界から完全に消え失せた。


「……え……?」


 清香の視界が凍りついた瞬間、轟音が街を震わせた。

 炎が舞い、雷が空を裂き、光の帯が激しく降り注ぎ、風の刃がうねる──

それらすべてが、天草を中心に狂乱の渦となって襲いかかる。

 火の渦が肉を焼き、雷が骨髄を貫き、真っ直ぐに走る光の帯が体を断ち切り、風が全身を切り裂くように吹き荒れる。

 時間の感覚さえも歪み、清香には何が起きているのかまったく理解できなかった。

ただ、天草が抵抗する暇もなく、怒涛の魔術の奔流に呑まれていくことだけが、無言の恐怖として伝わってきた。


 誰も何が起きているのか理解できない。

 ただ、天草が防御もままならず吹き飛ばされていく光景だけが、断片的に見えた。


「ば、馬鹿な……! 見えない……! この私が……ッッ!?」


 天草が叫ぶ。

 ジェイムズの姿は、いつの間にか彼の懐にいた。

 動いた形跡がない。空気の揺らぎも、魔力の軌跡も感じられない。


「神を知らぬまま生きることこそ、最大の罪だ! この神域の力で私がそれを世に知らしめようとしているというのに──」

「ああ、お前の世界をねじ伏せる魔力は確かに神域に至っている」


 ジェイムズは拳を握り込みながら言った。

 

「だが、力を振るうには時がいる。──お前に、その時は残させはしない。Quiesce(クィエスケ)


 再度、ジェイムズが魔術を発動させる。

 その瞬間、また清香の視界からはジェイムズの姿が掻き消えた。


     ◆


 ──音が、止んだ。


 風も、光も、鼓動さえも。

 世界のすべてが、ひとつの静寂に沈み込んでいく。


 煙草の火が宙に浮かんで見えた。

 その赤が、ほんのわずかに揺れようとして揺れられない(・・・・・・)

 止まった世界は、まるで息をすることを忘れたかのように凍りついていた。


(……やれやれ。こいつを使うのは、好きじゃないんだがな)


 ジェイムズは静かに息を吐く。

 その息もまた、空気の中で氷結したように消えない。

 時間は確かに止まっている──いや、『極限まで遅延している』と言った方が正確だろう。


 動けるのは、この時魔術の魔術刻印を宿す自分だけだ。他のすべては、流れを奪われた像にすぎない。


 天草は、驚愕の表情を浮かべたまま停止していた。

 赤黒い光の粒を纏い──邪悪とも言える神域の力を象徴するような残光を放ちながら、何もできずに。


 ジェイムズは、わずかに眉をひそめる。

 指先がかすかに痛む。陽子の施したこの時魔術は負担が大きく、長くはもたない。

 この静寂に留まれる時間は、十秒もない。


 十秒の永遠。

 だが、それだけで充分だった。


 ジェイムズは一歩、踏み出した。

 地面の破片が宙に浮き上がり、ガラス片が陽光のように固まって宙を舞う。

 そのすべてを抜けながら、彼は天草の懐に辿り着く。


(──神域の力、か。確かに肌で感じるだけでも恐ろしいレベルの物だが……こうなれば他愛も無い)


 静止した天草の瞳を、真正面から覗き込む。

 そこには恐怖も怒りもない。ただ、確信だけがあった。

 自分は人の理を超えた、と信じきっている瞳。


「悪いな。俺は、まだ、人のままで良い」


 ジェイムズの声が、止まった空間に染み込む。

 その言葉に反応する者は、誰もいない。

 ただ、世界が凍りついたまま耳を傾けている。


「In silentio oritur lux animae —(静寂の中に、魂の光は生まれる──)」


 彼は右拳をほどき、ゆっくりと掌を掲げた。

 そこに淡い光が生まれる。詠唱を伴う古典魔術──彼が最も得意とする『言葉による奇跡』だ。


 低く、静かな声が、止まった世界に落ちた。


「──Fiat(フィアト)Lux(ルクス)


 その瞬間、掌の上に一条の光が形を成した。

それは炎でも雷でもない、純粋に制御された魔力による光線。計算され尽くした軌道と力の秩序が形作る、光の刃だ。


 光の刃は、息を呑むほど静かだった。

 音も熱も伴わず、ただそこに存在している。

 時が止まった世界で、それだけが唯一、確かな現在(いま)だった。


 ジェイムズは一歩、天草に近づく。

 遅延した光の粒が足元で粉雪のように舞う。


(神を名乗るなら、せめて理を知る事だ。世界は奇跡の上に成り立ってはいない。それに借り物の力では真理には到達はできない)


 掌を天草の胸に向ける。

 心臓の位置を正確に見据え、ひと息。


「──終いだ」


 静寂の中、光の刃が放たれる。

 音もなく、抵抗もなく、天草の胸を貫通する。


 刃が抜ける瞬間、世界が微かに揺らいだ。

 光の残滓が空間を照らし、止まっていた空気がかすかに震える。

 時間が、再び動き出そうとしていた。


 ジェイムズは無言のまま、掌を閉じる。

 光の刃が霧のようにほどけ、跡形もなく消える。


 そして、静かに目を閉じた。


 止まった世界が、音もなく崩れた。

 天草の神格の光が、粒子となって溶け出し空気に霧散していく。まるで、誰にも祈られぬ神が、自らの居場所を失っていくように。


 ジェイムズは目を閉じる。そして時は流れを取り戻し始める。


 十秒が経過した。

 風が戻り、音が世界に帰る。


 遅れて崩壊の轟音が鳴り響き、空気が一気に震え上がった。

 天草の身体は、吹き飛ぶこともなくその場に崩れ落ちていた。

 神の光は、もうどこにもない。


 ジェイムズは拳を下ろし、深く息を吐いた。

 刻印の焼け跡が腕に走り、皮膚が焦げたように赤く腫れている。


(……五年ぶりくらい、か。陽子さんのくれたこの魔術を使うのは)


 小さく笑った。

 そして、静かに呟く。


「お前の『時』は、ここまでだ」


 灰色の煙が、夜風に溶けていった。


     ◆

 

 夜が明けていた。

 空にはまだ煙の名残が薄く漂い、焼けたアスファルトの匂いが重く沈んでいる。

 処理班はすでに撤収を終え、清香が抉り取ったクレーターの現場には、テープと封鎖標識だけが残されていた。


 この場所では、不発弾の爆発による事故、というカバーストーリーが流布される形で情報の隠蔽作業が進められている。

 天草の演説を撮影した映像や写真は、魔術協会の情報統制サーバーによって封鎖されていた。深夜という時間帯も味方した。


 あとは、大規模な処理ではあるが、処理班と実行班の総力で、儀式魔術級の規模の忘却魔術と精神干渉魔術を定期的に施しておけば、完全に片付けられるだろう。


 瓦礫の上に立つ男がひとり。

 ジェイムズは、もう一本煙草を取り出した。普段は吸わない──いや、吸えないと自分で決めていた久しぶりの煙草だ。だが今は、重い空気を前にして、ほんの一服だけ必要だった。

 風が吹くたび、焦げ跡に積もった灰がふわりと舞い上がる。


 耳を澄ませば、遠くで鳥の声がした。

 街の一部はもう動き出している。

 だがこの場所だけ、時の流れが戻るのを拒んでいるようだった。


「支部長」


 背後から清香の声がした。

 制服の袖は煤で汚れ、目の下にはくっきりとした隈が浮かんでいる。

 だがその瞳は、しっかりと現実を見据えているようだった。


「作業完了です。処理班が引き上げました。戦闘班が倒した取り巻き達は記憶処理をして解放、天草の死体は回収済みです。魔術の痕跡もほぼ除去が完了してます。──この街には、もう事件の痕跡は残りません」

「ご苦労だった」


 ジェイムズは短く答えた。

 言葉はそれだけだったが、清香にはそれが『よくやった』の代わりだとわかった。

 ふたりの間に、静かな沈黙が落ちる。

 やがて清香が口を開いた。


「……あの男の遺体、どうされますか?」

「満月亭に運び込んでおいてくれ。あの力は協会の構成員でも触れさせる訳にはいかない代物だ。封印区画に収容しておく。あれを埋葬しても、誰も祈りはしないだろうしな」


 淡々とした声。

 それでも、その言葉の奥には、どこか痛みのような響きがあった。


 清香は一瞬、何か言いかけたが、結局口をつぐんだ。

 ジェイムズはゆっくりと煙を吐き出し、足元の瓦礫を見下ろす。


「……いつでも変わらないな。終わった後というのは一番静かだ」


 その呟きに、清香は答えなかった。

 朝日がゆっくりと昇る。

 黒く焼けた瓦礫の影が、橙色に滲みながら長く伸びていく。


 ジェイムズは最後の一吸いをして、煙草を指で弾いた。

 火は灰の上で消えた。


「──総本部ロンドンへの報告書をまとめておいてくれ。()はつけておいて構わん。添削したら提出しておく。……俺は少しだけ、間を置かせて貰う」

「了解しました」


 清香が敬礼して離れる。

 その背中を見送りながら、ジェイムズはひとり残された現場を見渡した。


(あの天草という男──いや、神の檻の残党は恐らく公開派のはぐれ魔術師の一部にしか過ぎない)


 そう考えながら、ジェイムズは灰の残る空を見上げた。

 夜明けの光はまだ弱く、街の輪郭を淡く染め上げている。

 この世界のどこかで、また同じような狂信が芽吹いているのだとしたら──それを摘み取るのが協会の構成員たちの役目になる。


 魔術の存在は、知られぬままでいい。

 奇跡が信仰に変わり、信仰が暴走する限り、人類はそれを扱う器を持っているとは言い難くなる。

 それを最も知っているのが、他ならぬ魔術協会なのだ。


 ジェイムズは、足元の焦げた地面に視線を落とした。

 そこには、かつて人間だったものの影が、薄く刻まれているように見えた。

 天草の残した言葉が脳裏をかすめる。

 

──「神を知らぬまま生きることこそ、最大の罪だ」と。

 

 滑稽な理屈だ、と彼は思った。

 だが同時に、その狂気がどこか哀しくもあった。


「正しさなんて、最初から存在しちゃいない。協会が魔術を隠してるのも、世界秩序のためなんかじゃない。奇跡の漏洩を防ぐという名目で、都合の悪い芽を摘み取ってるだけに過ぎない。だが自分こそが正しいと思った瞬間に、人間は怪物に変わる。天草も、そして──俺たちも」


 誰にともなく呟いて、ジェイムズは踵を返した。

 背後には、もう音のない世界が広がっていた。

 鳥の声も、風の音も、すべて遠くでかすれている。

 それでも、東の空は確かに白み始めている。


「……なあ、カヅキ。お前が神格を宿した動画は、公開派の魔術師たちを刺激している。お前の信じる正しさは、この世界は、いったいどこへ辿り着くんだろうな」


 ──夜は終わった。

 だが、光がすべてを照らすことはない。


 ジェイムズ・ウィルソンはそのまま歩き出した。

 焼け跡を越え、封鎖線を抜け、朝の街へと戻っていく。

 誰も知らぬままに、また新しい一日が始まる。


 そしてその胸の奥では、まだ消えきらぬ煙のように、一つの思考が燻っていた。


(──始まりはいつだって、終わりの形をして現れる。これで終わりではない)


 そう思いながら、ジェイムズは最後にもう一度だけ空を見上げた。

 灰色の雲が、わずかに割れて光が差す。

 それは、慰めでも祝福でもなく、ただ静かに世界を照らしている。


 ──静かな夜明けだった。

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