25.帰るべき場所⊕
薄曇りの朝、大神便利屋事務所のドアを開けたクレアは、静まり返った室内をゆっくり見渡した。香月とクレアが任務でない時は、足繁く通っては香月に相手を求めたり仕事を一緒に手伝ったりした場所だ。
机の上には、使いかけの書類や文房具、彼の愛用していたコーヒーカップまでが残っている。
『……やっぱり、ここは残したいな』
小さく呟きながら、クレアは机の角にそっと手を置いた。ここはただ彼の仕事場兼住居というだけではない。クレアにとって香月との思い出の場所であり、彼を連れ戻した後に帰る場所でもある──そう心に決めていた。
シャルロットが入り口に立ち、背筋を伸ばして声をかける。
「クレア、出発前に事務所の整理は済ませておいたほうが良いですわね。荷物の整理だけでなく、取引先や常連さんへの挨拶も」
『うん……やらなきゃね』
クレアは手際よく机を整理し、必要最低限の書類や道具だけをまとめる。スマートフォンを手に取り、取引先や常連客に一件ずつ連絡していく。
『もしもし、大神便利屋事務所です。日頃からお世話になっております。突然で申し訳ないのですが、少し特別な仕事でしばらくの間事務所を不在にすることになりました。期間は未定ですが、戻り次第、また業務を再開いたします──』
便利屋事務所の取引先は本当に多岐に渡る。犯罪以外なら何でも請け負うだけあり、表の業者から情報屋のような裏稼業の者まで、その相手は幅広い。近所のお婆さんや商店街の有力者まで、日常のささやかな人々から影響力の強い人物までが含まれていた。
応対する相手によって、声のトーンを変える。近所のお婆さんには柔らかく、商店街の有力者には礼を込め、裏稼業の者には少し抑えた厳しさを交えて誠意を示す。どの相手も最初は戸惑いを見せるが、最終的には理解を示してくれた。
「わかりました、気をつけてね」
「戻ってくるのを待ってますよ、便利屋さん」
「ほう、特別な仕事か。なら仕方ないな、気をつけて行くんだぞ。また情報を買ってくれる日を待ってるぞ」
──すべての連絡を終えたクレアは、便利屋事務所の扉に手をかけた。机や棚に残された書類や道具が、日々の思い出を静かに語りかける。
クレアは深呼吸をひとつ。窓の外には曇った空の下、名古屋の街が静かに息づいていた。
『……ここに、カヅキを連れ戻して帰るんだ』
その言葉にシャルロットは、少し柔らかく微笑む。
「そうですわね。ここは、きっとカヅキにとっても帰るべき場所ですわ」
クレアは最後に机の引き出しを軽く開け、香月がよく使っていたメモ帳をそっと手に取った。ページの端には、彼が書き留めた走り書きや些細な計算式が残っている。懐かしさと切なさが胸に込み上げるが、クレアは深く息を吐き、決意を胸に閉じた。
『行こうか、シャルロット』
声は静かだが、迷いのない響きだった。シャルロットはうなずき、二人は事務所の扉を押し開ける。外の空気は、薄曇りの朝にもかかわらず、どこか澄んでいるように感じられた。
名古屋の街並みを背に、二人は駅へと向かう。人々の忙しげな足音、商店街の呼び声、車のエンジン音――いつもと変わらぬ日常の喧騒が、逆にクレアの心に緊張感を与える。香月を連れ戻すという大事な使命が、日常の風景を少しだけ異質に染めていた。
「クレア、飛行機のチケットはもう取ってあるって言ってましたけど……どこに向かうつもりですの?」
シャルロットの問いに、クレアはわずかに目を伏せ、息を整えた。やがて顔を上げ、まっすぐ前を見据える。
『イギリス……ボクの家、フォード家のお屋敷だよ。父に助力を求める所から始める』
その声には迷いはなかった。曇り空の下で見慣れた名古屋の街並みが、非日常の遠い世界への入り口のように思えた。
シャルロットは微かに微笑み、隣で静かにうなずく。
「……リーヴァイ卿に頼るのですわね。なら、安心して任せられます」
二人は駅へと歩みを速める。人々の足音や車の音、商店街の呼び声――いつもと変わらぬ日常の喧騒が、逆にクレアの心を引き締める。香月を連れ戻すという使命は、普段の風景を少し異質に染めていた。
向かうは羽田空港。先ずは東京行きの新幹線からだ。