23.終焉と始まりⅡ
──翌朝。
シャルロットとクレアがホテルの部屋に戻ると、香月の姿はもう消えていた。
整えられたシーツ。空になったテーブル。まだ客室清掃も入らない時間に、部屋だけが静かすぎる。まるで最初から誰もいなかったかのようだった。
「……え?」
思わず伝声魔術を使う意識よりも先に口の方が動いていた。クレアの声は震えていた。
「──カヅキは? ここに……泊まってたはずだよね……?」
フロントに駆け寄ったクレアに、ホテルスタッフは穏やかに答えた。
「お連れ様なら……今朝早くにチェックアウトされましたよ。夜明け前にはお出になったようです」
その瞬間、クレアの胸を冷たい刃が貫いた。
(そんな……嘘だ……だって、何も言わなかった……!)
息が詰まり、頭の奥で警鐘のように同じ言葉が響く。
置いていかれた。捨てられた。違う、そんな筈はない──。
「クレア、落ち着いてくださいまし」
シャルロットは慌てて肩を抱いた。だがクレアはシャルロットの腕を振りほどき、そのまま駆け出そうとした。
『探さなきゃ……すぐに追わないと……! カヅキはひとりで……!』
その前に、執事服のじいやが進み出て、静かに進路を塞ぐ。
「クレア様。……今は無理に追っても、間に合いません」
『でも……!』
「彼は、自らの意思で早朝に発ったのでしょうな。彼が選んだ決断を、すぐさま否定してしまえば……その心を軽んじることになりましょう」
じいやの声は穏やかだったが、そこに込められた重みがクレアの足を止めた。
そこへ、後ろから二つの影が歩み寄ってくる。ロナルドと陽子だった。
ロナルドは冷徹な瞳で告げる。
「……出立は計画的だったようだ。君たちに見つからぬよう、あえて夜明け前に発った」
『ふざけないで!』
クレアは叫んだ。
『カヅキは一人で全部背負うつもりって事!? 世界中から狙われてるのに! そんなの間違ってるよ! ボクが居るのに! ボクなら、どこまでもついて行くって……カヅキに──』
声が詰まる。
陽子が一歩前に出て、深いため息を吐いた。
「……だからこそだよ、クレア。君がそう言うことを、あの子は知ってた。止めても止まらない。だったら──最初から姿を消すしかなかったんだ」
クレアは首を振り続ける。
『……嫌。嫌だよ……ボクはカヅキを一人になんてさせない。絶対に……!』
震える手を胸の前で握りしめる。
その姿を、シャルロットは抱き寄せたまま、ただ涙を受け止めるしかなかった。
ロナルドは無言のまま見守り、じいやは瞳を閉じて香月の選んだ孤独を思い、陽子はわずかに眉を寄せてクレアを見つめる。
──香月が消えた朝。
残された者たちはそれぞれに痛みを抱え、ただ静まり返るロビーの中で立ち尽くしていた。
◆
──時をさかのぼり、前夜。
ようやく与えられたホテルの一室。
白いシーツの整えられたベッドに腰を下ろした香月は、深く息を吐いた。窓の外には都市の灯りが瞬き、遠くの喧騒はここまで届かない。静寂だけが、耳の奥にまとわりついている。
指先に残るかすかな震えと、胸の奥の疲労感。すべてが終わったわけではない。だが、久しぶりに一人になれたはずの時間に、どうしてか背中に刺さるような視線の気配が消えなかった。
「……居るんだろ?」
いつぞやにも発した言葉だ。
その一言と同時に、部屋の空気が波打つ。
カーテンの影に滲む闇が、墨のように揺れたかと思うと、二つの影が形を結んだ。
先に現れたのはロナルド。鋭い眼光を隠さず、腕を組んだまま香月を見下ろしている。
続いて、肩をすくめるように姿を現したのは陽子だった。長い黒髪が揺れ、どこか軽薄そうな笑みを浮かべている。
「……まったく。気づかれてたか」
低い声が室内に響く。ロナルドの闇の魔術──いや、この場合は法術と呼んでやるべきか──でこの部屋の隅に潜伏していたらしい。
「さすがは少年。私達、結構うまく隠れてたつもりだったんだけどな?」
陽子は肩を揺らし、わざとらしく感心したように笑った。
香月は二人の姿を見据え、微かに目を細める。
「用件を聞こうか」
その静かな言葉で、再び張り詰めた空気が満ちていった。
ロナルドは表情を崩さず、香月をまっすぐに見つめた。
「……聞いたぞ。人形師の正体は、他世界線の貴様だったと」
香月は短く息を吐き、拳を握りしめた。
「そうだ。だったら話は早いな」
静寂が少しだけ長く流れる。
やがて香月は低く、しかし迷いなく言った。
「……奴が残したものは、俺が受け継ぐつもりだ。術式も、記録も、あいつの辿った道のすべても」
ロナルドの目がわずかに揺れた。
「……狂気も、絶望も、そして本物の人形師から奪った金と地位もだな」
「否定する気はない。あの俺もまた、俺の可能性だった。だからこそ、受け取って、選び直す。次は間違えないために」
陽子は腕を組み、香月をじっと見つめたまま、しばらく沈黙していた。
その間に、部屋の静寂と香月の決意が重く沈み、空気を引き締める。
「少年、君は魔術協会を抜けるつもりなのかい?」
「ああ」
確固たる意志を持って返事をする。陽子が深く息を吐いた。
「そうか……それで、具体的に君はどうするつもりなんだ?」
陽子の問いは、部屋の空気をさらに重くする。
ロナルドも無言のまま視線を外さず、答えを待っていた。
香月は少しだけ目を伏せ、短く笑った。
「……まだ、はっきりしたビジョンはない。ただ一つだけ決めていることがある」
「ほう?」
ロナルドが低く促す。
「世界が俺を狙っている──この状況を逆に利用する。俺は、人形師という神出鬼没で謎の存在を隠れ蓑としながら、イヴの肉体を奪おうとする存在を片っ端から葬り去るつもりだ。そのためにこそ、奴の遺したものを利用する」
陽子が目を細める。
「利用、ね。君がそう言うと……何だか危なっかしい響きがあるね」
「危うくても構わない。俺が進んだ先に、また同じ破滅が待つのなら……その時は、その時だ」
香月は視線を上げ、二人をまっすぐに見返す。
「だが──あの俺と同じ轍は踏まない。俺は、俺の選んだやり方で終わらせる」
ロナルドの眉がわずかに動いた。
「……フン。覚悟は認めてやる。だが忘れるな。受け継ぐとは、己の影をも抱き込むことだ。貴様がその重みに耐えられるかどうか……」
言葉を切り、鋭い眼差しが突き刺さる。
「それを見届けるのもまた、私達の役目だ……とは、思っているよ」
陽子は小さく鼻を鳴らし、肩をすくめた。
「結局、君って子は危なっかしい道ばっかり選ぶね。……まあいいさ。けど覚えておきなよ、少年。君がまた誤った方向に走り出したら──その時は私が……ううん、私達が止めるからね」
軽薄そうな笑みの裏で、声色は真剣そのものだった。
香月はわずかに目を細め、ゆっくりと頷いた。
「……止められるなら、止めてくれ。その時、俺が何者になっていようとな」
その瞬間、部屋に漂う緊張がいっそう濃くなる。窓の外では、パリの街灯が瞬き続けていた。