22.終焉と始まり⊕
燃え盛る瓦礫の残光を背に、香月は静かに歩き出した。
胸の奥に渦巻いていた復讐の炎は、不思議なほど静まっていた。決着はついた。だが、完全な終わりではない。未来を託され、背負うべきものが新たに増えたのだ。
人形師の魔術工房から出て、廃墟の長い石廊を抜ける。そこで陽子とは別れた。イヴの護衛をロナルド一人に任せているから、空間跳躍魔術を使って足早に戻るらしかった。
外へ出ると、夜気が冷え冷えと頬を打つ。待ち伏せた襲撃者の気配は無いようだった。そこに待っていたのは、別行動を取っていたクレアとシャルロットだった。
『……カヅキ!』
クレアが駆け寄る。彼女の顔には、安堵と心配とが入り混じっていた。
シャルロットもすぐに視線を向ける。翡翠色の双眸が、香月の体を頭の先から足元まで舐めるように確かめ、わずかに眉をひそめた。
「……ひどい顔してるますわね、モン・シュー。まるで無理やり立っているみたいですわ」
香月は苦笑で返すしかなかった。
「まあ、ちょっとは……な」
その声音に、クレアは目を伏せる。言葉を発せず、ただそっと香月に肩を貸して支えた。震える指先が、彼の存在を確かめるように服の裾を強く握る。
「お、おい……」
『じいやさんがあっちで車を停めてくれてる。早く、行くよ』
クレアに肩を貸されながら歩き出すと、遠くに控えていたアルファロメオが目に入った。運転席にはルフェーブル家の老執事が姿勢よく座っている。
夜気の冷たさよりも、車の窓越しに漏れる暖かな光が妙に眩しく思えた。
「まったく……あなたという人は、無茶をしすぎですわ」シャルロットが並んで歩きながら、呆れたように息を吐く。「人形師はどうなりましたの?」
香月は短く答える。
「……片はつけた」
それ以上は何も言わなかった。詳細を語る気力も起きなければ、語るべきとする相手もいない。この複雑な復讐劇の終わりは、他人に説明するようなものではないと香月は思っていた。
三人の足音が、夜の廃墟に小さく反響する。静けさの中で聞こえるのは、風の唸りと、遠くで崩れ落ちる瓦礫の音だけだった。
執事がすぐにドアを開け、無言で一礼する。その仕草はいつも通り端正で、しかし香月にはどこか現実感が薄く映った。
クレアが彼を座席へと押し込むようにして座らせ、自身も隣に腰を下ろす。なおも手を放そうとはせず、香月の袖を掴んだまま、翡翠色の瞳を真剣に見上げた。
『……本当に、終わったの?』
問いかけは囁きのようだった。
香月は視線を逸らし、窓の外に目を向ける。夜空に広がるのは、灰色の煙と、燃え残った炎の赤い点々。終焉を告げるようなその景色を見つめながら、低く答えた。
「……ああ。俺にできることは、もう全部やった」
クレアの瞳が揺れる。その答えに安心したのか、あるいはまだ信じ切れないのか。
「──ですが」シャルロットが口を挟む。「無事で済んだからといって、このまま放っておける話ではありませんわ。人形師が残したもの、調べるべきことはいくらでもあるでしょう。それに──」
シャルロットの視線は、香月の表情に静かに、しかし鋭く食い込んでいた。
窓の外に漂う灰色の煙と、赤く残る炎の点々が、二人の間に張り詰めた空気を映し出す。車内は静まり返り、微かな列車の振動だけが響いている。
香月は瞼をゆっくりと閉じ、肩の力を抜こうとするが、戦いの余韻はまだ体の奥底で渦巻いていた。頭の中には断片的な光景が残り、胸の奥には鈍く重い疲労が沈殿している。
クレアはその様子をじっと見つめ、心配と不安と、安堵の混ざった感情を押し込めるようにして唇を噛む。言葉にせずとも、香月の身を案じる気持ちは痛いほど伝わってくる。
「カヅキはまだ狙われている身、油断はできませんわ」
シャルロットの声音は冷静だが、その奥に鋭い緊張が潜んでいた。
香月はゆっくりと瞼を閉じた。
確かにその通りだ。だが、今はただ、頭も身体も休息を求めている。
沈黙が車内に満ちる。エンジンの低い振動と、車輪が石畳を踏みしめる音が、心地よい眠気を誘った。
クレアの細い指が、まだ彼の袖を掴んでいる。わずかに冷たいその手を、香月はそっと握り返した。
その瞬間、彼女の肩が小さく震えた。けれど手は離れず、逆に強く結ばれる。
黒塗りの車は静かに発進し、廃墟を背にして夜の街道を進んでいく。
車内を満たすのは、エンジンの低い唸りと、微かな革張りの匂いだけ。
沈黙を破ったのは、香月自身だった。
「……クレア、シャルロット。俺は──魔術協会を抜ける」
その言葉に、空気が凍りつく。
『……え?』
クレアが小さく声を漏らし、彼の袖を掴む手に力を込めた。
「……また突拍子もないことを」シャルロットは目を細め、翡翠色の瞳で香月を射抜いた。「その理由を聞かせていただきますわ」
運転席に座るじいやは、表情を崩さずルームミラー越しに香月を見つめている。
「復讐は終わった。俺を縛っていた理由も消えた。……だからもう、協会にいる必要はない」
淡々とした声で言い切る香月。
『……だめだよ』クレアが震える声で言った。『抜けるなんて……そんなの、いや……』
香月は答えなかった。ただ彼女の不安を受け止めるように視線を伏せる。
その時、じいやが低く響く声で言った。
「──香月様。そのお考えは、あまりに短慮にございます」
クレアがはっと顔を上げ、シャルロットも沈黙を守る。じいやは続ける。
「確かに復讐は終わりました。しかし、あなた様が歩んできた年月や積み重ねた力は、それだけのためにあったのですか? 背を向けることは容易い。しかし残された者──クレア様やシャルロット様、そして協会にいる仲間たちをも見捨てる覚悟を、果たしてお持ちなのでしょうか」
その言葉は淡々としていながら、鋭く胸を抉る。車内の空気がさらに張りつめた。
香月はしばし黙し、やがて小さく息を吐いた。
「……戻らない。俺は進む。たとえ何を失っても」
その声音はかすれていたが、決意だけは揺らがなかった。
クレアは目を潤ませながら、その袖を決して離さなかった。
◆
アルファロメオは深夜の石畳を滑るように走り、やがてルフェーブル家の屋敷へと辿り着いた。
門を潜り、停車した車を出迎えたのは執事と数名の警備員たち。皆一様に安堵の色を浮かべ、香月を屋敷の中へ案内しようとする。
「モン・シュー、どうか今夜は屋敷にお泊まりくださいまし」
シャルロットが優雅に促すと、すぐにじいやが恭しく続けた。
「市街は不穏な気配に包まれております。得体の知れぬ者どもが徘徊しているようで……。ここなら警備の手も十分に行き届きます。我らであれば、カヅキ様をお守りすることも叶いましょう」
クレアもすぐに頷き、声を上げる。
『そうだよ、カヅキ。屋敷なら安全だし……ボクも一緒にいられる』
だが、香月は静かに首を横に振った。
「いや。……俺がここにいる方が危険だ」
「危険、ですって?」
シャルロットが怪訝に目を細める。
「俺は協会を抜けると宣言したばかりだ。狙われるのは俺だし、ここに泊まればルフェーブル家全体を巻き込むことになる。どんな勢力が動いているかもわからない以上、屋敷を戦場にするわけにはいかない」
その声音は穏やかでありながら、決然として揺るぎなかった。
『でも……! 一人にするなんて、そんなの……』
クレアは必死に食い下がる。掴んだ袖に力を込め、涙を滲ませて訴えた。
じいやが静かに口を開く。
「……香月様のお言葉にも理がございます。確かにお泊まりいただければ我々は全力でお守りいたしますが、同時に屋敷を危険に晒すことにもなりましょう」
淡々とした声に、クレアは息を詰まらせる。
シャルロットがさらに言葉を重ねようとしたが、じいやがそれ以上は口を挟まなかった。若き主人とそのご友人──シャルロットとクレアの感情を抑えきれないのは分かっていた。それでも彼は、香月には一人で決断する時間が必要だと悟っているようだった。
シャルロットはしばらく沈黙したのち、長い睫毛を伏せ、吐息を漏らした。
「……あなたは、いつもそうですのね。無茶を承知で、それでも突き進んでしまう」
香月は答えず、ただ短く告げる。
「ホテルに泊まる。俺一人でいい」
その声は低く、迷いを含まなかった。
クレアの指が香月の袖を掴んだまま震える。離したくないと訴えるように。
けれど最後には、彼女も唇を強く噛みしめ、声を失うしかなかった。




