21. 灰燼に託すもの
香月は過去に降り立った瞬間、心の中でひとつの答えを定めていた。
迷いはなかった。復讐は、この手で完結させるしかない──そう強く決意していた。
数日間、彼はグレイヒル修道院の陰に身を潜めた。冷たい石造りの壁、静まり返った鐘楼の影。その一角にただひとり立ち尽くし、獲物を待つ。やがて姿を現したのは人形師。かつて彼の人生を狂わせた存在だった。
だが、目の前に現れたそれは──今やただの老いさらばえたはぐれ魔術師に過ぎなかった。
香月はためらわなかった。
復讐は感情の爆発ではなく、千年の研鑽と冷徹な理性の結晶として遂行された。
その動きは正確無比で、一切の無駄がない。研ぎ澄まされた魔術と吸血鬼の肉体能力が一瞬にして融合し、人形師の抵抗を容易く断ち切る。倒れ伏した男の仮面の奥に、わずかに浮かんだ恐怖の色を、香月は見逃さなかった。──復讐は、あまりにも呆気なく終わった。
彼はその死骸を前に、淡々と作業を進める。人形師の衣服と仮面を剥ぎ取り、それを自身に纏わせる。そして記憶剽窃によって、男の知識と権限、存在の全てを自らのものとした。これは復讐の延長ではない。未来を操るための次なる一手。駒を揃えるための準備だった。
次に香月は、あの「幼い自分」へと向き直る。
恐怖と孤独に震える小さな背中──加工され、心身を蹂躙され、やがて人形師への復讐心を宿すことになる少年。香月はその子供を見下ろし、静かに手を伸ばした。
人形師から剽窃した技術と、自ら千年かけて研ぎ澄ませた魔術。
その両方を注ぎ込み、幼い自分の肉体を改造していく。
無論、ただの模倣ではない。小さな改変を加え、未来を変えるための実験として。さらに、見知らぬ子供から素材を切り取り、魔術的に加工したうえで組み込むこともためらわなかった。倫理など意味を持たない。ただ結果のために、冷酷な手順を積み重ねる。
幼い自分の怯えた瞳を見下ろしながら、香月は低く呟いた。
「お前は──器になるんだ」
その小さな手が震えているのを、香月は知っていた。かつて自分が感じた痛みを、今は自ら与えているという事実が、どこか遠い場所で鈍く胸を刺した。
それでも手は止まらなかった。止めれば全てが無意味になると、理解していたからだ。
加工を終えた子供は、もはやただの少年ではなかった。
未来を操るための駒。運命を変えるための実験体。そして、いずれ自分を殺しにくるかもしれない諸刃の剣だ。かつて受けた痛みを、今度は自ら与えることで、香月は道を切り開こうとしていた。
だが、何度繰り返しても──イヴが肉体を奪われ、世界が崩壊する運命は変わらなかった。やがて彼は、加工を加える幼い香月の肉体へ『神でも宿ってくれないか』と願うようになる。だが、この世界線での自分もまた、陽子に施された時魔術を発現させることなく、ただ死を迎える。何の成果も得られぬまま、それを何度も、何度も繰り返した。
香月は幾度となく過去に戻った。
そのたびに肉体は酷い損傷を負った。血肉は裂け、骨は砕け、臓腑は焼き切れる。繰り返せば繰り返すほど吸血鬼の肉体の再生力では補え切れない程に、肉体の欠損箇所は増えていく。だが、それ以上に精神の摩耗も積み重なっていく。それでも彼は進むしかなかった。
剽窃した人形師の技術をさらに発展させ、自らを補い、欠損した身体を修復していく。肉体はもはや更に人ならざるものへと変容し、執念だけが彼を支えていた。
人形師として加工した肉体を商品として闇市場に出し、買い求めに来た魔術師達をマークして、イヴの肉体を奪う可能性がある存在を探り当てようともしていた。
どの世界線に舞い降りても、その情報収集は欠かさなかった。
◆
今の世界線の香月は──人形師を名乗る他世界線の大神香月にとって、特異な存在だった。
幾度となく繰り返した試行錯誤の末にようやく辿り着いた「解」にして、未来を託せる唯一の希望。数十回に及ぶ失敗を積み重ね、絶望の果てにようやく見出した到達点──イヴの肉体を奪われ、世界が崩壊する未来を回避すること。それが、ついに達成されたのだ。
だが、安堵は束の間だった。
イヴを狙う存在は、なおも現れる。未来を知る彼には、それが確信に近い直感として刻まれていた。人形師を名乗る自分の耳にも、既に「イヴは助かった」という記録が届いていた。世界中のありとあらゆる場所に、自分の作った自律型の魔術人形を潜ませて得た情報だった。
(……なるほど。俺は、ついに成功を勝ち取ったのか)
自嘲めいた呟きが胸の奥に響く。
千年以上をかけて過去へ遡り、幾度となく同じ時を繰り返しては結果を書き換え、時の渦に身を投じて肉体を損壊しながらも修復を繰り返してきた。あまりにも長く、重い計画だった。その果てにようやく訪れた「成功」に、人形師の香月は静かに、だが確実に手応えを覚えた。
だが──成功は終着点ではなく、新たな戦いの幕開けを告げていた。
情報収集の中で突き止めていた事実。イヴの肉体を狙う存在は、古代魔術師の分魂体。彼らがまだ世界のどこかに潜んでいる。放置すれば、遅かれ早かれ再びイヴは奪われ、世界は崩壊へと引きずり込まれる。
だからこそ、人形師の香月は即座に行動方針を定めた。
そうして目的は、ただひとつとなった。
「古代魔術師の分魂体を──排除する」
そのために必要なら、世界中に散在する魔術協会の支部も本部も敵に回す。潜伏先を暴き出し、ひとつ残らず殲滅する。神の檻の教祖であるオル・カディスすら、例外ではなかった。
やがて、彼は出会う。
現状の、この世界線の大神香月と。
彼が神格の存在に祝福されていることを、人形師の香月はその眼で見てしまったのだ。
そして直感的に理解した。──これは利用できる、と。
即座に映像として記録し、それを闇市場の奥底──魔術界のダークウェブへと流出させた。それは彼が「神格の器を持つ存在」であり、魔術的に優れた肉体を商品として売買する伝説級の闇ブローカー・人形師の最高傑作がここにある、という情報だった。
それは虚構であり、同時に狡猾な偽装でもあった。
本来なら「始祖人類の先祖返り」、すなわち神格の肉体と魂を持つイヴが狙われる筈だ。だが彼女から世界の目を逸らすために、人形師の香月は敢えて「今の大神香月」を釣り餌として世界に差し出したのだ。
◆
「お前は……この世界の希望だ、大神香月。お前には未来を変えるだけの力に目覚めた。俺には、イヴが肉体を奪われる未来をどうにかすることはできなかった。だが……お前はきっと違う……」
赤黒く燃え盛る瓦礫の中、瀕死の影が揺れていた。
かつて「人形師」と呼ばれ、幾千年の孤独と執念の末にこの場へ至った他世界線の自分。その体はリリスの神格の力に打ち砕かれ、辛うじて残った意識だけが命の残り火のように瞬いている。陽子の腕に抱かれながら、その存在は崩れ落ちる寸前だった。
「……俺の事を情報流出させた上に、この世界の希望だ? 手前勝手な事言ってんじゃねえよ」
瀕死の人形師──否、他世界線の自分を前に、香月は鼻を鳴らした。その姿を眺め、奇妙な感覚に囚われていた。
吸血鬼の肉体を得て千年の時を越え、完璧ではないながらも過去に戻る術を生み出した。そして幾度も過去を繰り返し、自分ではないこの世界線の己の体を「可能性の器」へと加工し続けた男。
その狂気と執念は、決して他人事ではなかった。むしろ、自らが積み上げてきた力と同質の響きを持っている。
だが、幾千年を費やしてなお、結局は自分に託すしかなかった――その孤独を思うと、奇妙な共感が胸を刺した。
目の前に横たわるのはもはや「自分」ではない。
ひとりの男として過去を背負い、未来を託して命を終えようとしている存在だった。
敵であったはずなのに、今はただ同じ道を歩んだ哀れな影にすら見えた。
香月は膝を折り、ゆっくりと男の肩に手を置く。赤黒く燃える瓦礫の残照が二人の影を伸ばし、淡く揺らした。
その瞬間、胸の奥で何かが弾ける音がした。復讐の終わりを告げるものではなく、新たな決意の始まりを告げる音だった。
「……だけどな。お前は、気が狂うほどの執念でここまでやってきた。手段も、善悪も問わずに。だからこそ、俺に託して、この血塗られた自分を終わらせたかったのは理解できるぜ……」
荒い呼吸の中で、人形師の男は微かに目を開けた。
恐怖と困惑が滲みながらも、そこには確かに安堵の影があった。その視線を、香月は真っ直ぐに受け止める。
「……もう、過去に縛られる必要はねえよ」
その声は低く、けれど揺るぎない力を宿していた。怒りでも悲しみでもなく、未来へと歩む決意の音色だった。
赤黒い炎に反射する光の中、香月は静かに手を引く。
目の前の男は、もはや敵ではなく、復讐の対象でもなかった。数え切れぬ時間を繰り返し、未来を託すためにここへ至った「結果」としての存在に過ぎなかった。
「お前はもう、自由だ。……大神香月」
その言葉に、割れた仮面から覗く人形師の唇の端がわずかに震え、笑みとも溜息ともつかぬ形を結んだ。その表情を、香月は忘れまいと瞳に刻んだ。
声にならない息が唇から零れた。言葉か、笑みか、誰にも分からぬまま。理解と安堵を残して──その吸血鬼の肉体は魔力を完全に失い、静かに灰燼へと崩れ落ちていった。