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【第五章完結】現代魔術は隠されている  作者: 隠埼一三
Episode Ⅴ『人形師編』
154/160

20.可能性の果てⅡ⊕

──きっかけは、あの海運倉庫だった。


 自分の身体をめちゃくちゃに加工(コーディネート)してくれた人形師への復讐。それを果たす事を誓って魔術師を志し、血と汗を滲ませながら魔術の世界へ身を投じ、やがて魔術協会奇跡管理部の構成員となった。そして、自分を追ってきたクレアと肩を並べて挑んだ、あの任務。ディヴィッド・ノーマンが闇オークションの商品の保管場所にしている港区の海運倉庫へ潜入したあの日。

 

 冷たい鉄の扉を開けた先、段ボールが積まれた無機質な空間の中央で、ソファに横たわる少女を見た。雪のように白い髪、石膏のように透き通る肌、変な文字が書いてある安っぽいTシャツとミニスカート──場違いなほど俗っぽい服装。

 それでも、その存在だけで空気が澄むような異質さがあった。埃と油の混じった倉庫が、神聖な静寂に包まれたように錯覚さえした。

 思わず足が止まる。言葉が、無意識に零れた。

 

「……妖精みたいだ」


 イヴはその時、ゆっくりと目を覚ました。

 眠たげに細められた瞳が、まっすぐこちらを見つめる。小さな子どものように人懐っこい笑顔が浮かび、その瞬間、時間の流れが凍りつく。世界の喧噪が遠ざかり、胸の奥で何かが強く焼き付いた。


──それは、今の香月の心にも確かに残っている記憶だ。

 

 だが、その自覚はまだ曖昧で、心の底で微かに疼くばかり。

 この「人形師」を名乗った他の世界線の自分にとっては、この出来事は胸に焼き尽くほどの「痛み」として刻み込まれているようだった。しかし、今の香月には、その意味がまだ輪郭を結んでおらず判然としていない。


 雑踏のざわめき、遠くで響くクラクション──現実の音が溶け、心の内であの声が甦る。

 そうだ、この光景は最初の事件の後。街でイヴが自分を見掛ける度に追いかけてきたあの場面だ。


「私は香月君と関わりたいの!」


 走馬灯のようにイヴの叫ぶ声が聞こえてくる。様々な記憶が再現される。


「香月君の事を知るまでは諦めないよ」

 

 目の前に再現される笑顔、差し伸べられる小さな手。胸の奥で、じんわりと熱が広がっていく。今の香月はまだ、その正体を言葉にできない。ただ確かなのは──心が確実に揺れ動き始めているということだった。


「……俺は……」


 声にならない声が喉の奥で滲む。

 これは今の自分の感情なのか。それとも、もうひとつの大神香月が抱えた激情なのか。答えは出ない。けれど、静かな熱は確かに胸に宿っていた。まだ今の香月には「強火の思い」として燃え上がるほどではない。だが、この他の世界線の香月にとっては──

 

 だが、後に訪れる地獄の光景──焼け落ちた名古屋、暴走するイヴの姿。その出来事を通して、それが執着へと繋がっていく予兆には違いなかった。


 倉庫の光景。イヴの寝顔と笑顔。街中で追いかけた影。公園で背後から目隠しされた時のくすぐったい笑い声。

 記憶の断片がフラッシュのように重なり合い、視界の奥で光の残滓となって瞬く。


 そして、意識の底に微かな振動が走る。

 自分自身の記憶ではない、けれど確かに自分の心を揺さぶる違和感。


(……これが……お前が執着していた思い出なんだな……)


 イヴを救いたい。そう願う気持ちだけは揺らがないようだった。それは、今の自分がイヴの『普通』を守りたいと感じているのと同じように。

 その感情を突きつけられて、納得せざるを得なかった。

 

 そして次の瞬間。香月の身体に、見覚えのある感覚が押し寄せた。

 それは火と混乱、破壊の渦中にあって、イヴの肉体が神性を帯びた魔力で暴走する感覚。過去の経験が、鮮烈な映像として、彼の意識を支配する。


 義父、エドワード・クロウリーの肉体を奪った最初の古代魔術師の分魂体。それがイヴの肉体を奪ったあの光景だ。


 視界が赤と黒に染まり、耳に轟く悲鳴や絶叫が迫る。

 だが、それは現実ではなく、人形師としての姿を選んだ自分の意識に刻まれた「記憶」。胸の奥で、あの白い髪と笑顔が、恐怖の中に微かに残る。


──始まりの倉庫、そして焼け落ちた街。

 別の世界線での憶えていない記憶が、今の香月の記憶と重なり、深い影を落としていく。


 赤黒に染まった情景の中で、炎に呑まれる人々、崩れ落ちる街並み。

 そして──肉体を奪われ、破壊の限りを尽くすイヴの姿が浮かんだ。

 

     ◆

 

 視界が、赤と黒に塗り潰された。


 鼻を刺す焦げた臭気。熱風に混じる、焼け焦げた肉の臭いが肺を侵し、吐き気を誘う。耳に押し寄せるのは、絶え間ない悲鳴と絶叫。名古屋の街は今や、何千もの魔力の奔流に呑み込まれ、巨大な炎の坩堝と化していた。


 高層ビルは熱に耐えきれず軋みながら崩落し、道路は裂けて亀裂の間から黒煙が噴き上がる。街路に残された焦げ跡は、まるで無数の爪痕のように都市の皮膚を引き裂いていた。厚く垂れ込めた煙雲が太陽を覆い隠し、光は赤黒く屈折し、血の海を照らす残照のように街を歪める。


 香月はそれをただ「見ている」だけではなかった。渦中に投げ込まれたかのように、肉体そのものが暴走の震えを宿している。──奪われたイヴの身体。神性を帯びた魔力が奔流となって荒れ狂い、制御を拒んでいる。その異様な感覚が、皮膚の裏側から骨髄にまで突き刺さる。


 耳に届く人々の叫びは、もはや現実の音ではなかった。記録。焼き付いた「記憶」。過去に刻まれた惨状が、視界と聴覚を押し潰すかのように押し寄せる。


「……生きていたんだね、少年」



挿絵(By みてみん)



 その声が、炎の向こうから零れた。陽子だ。赤く焦げた街を前に、震えを必死に抑えながらも吐き出す言葉。その声は、崩壊した世界の只中で、かろうじて灯りを守るような強さを帯びていた。


「ジェイムズさんも……ちょこちゃんも……夜咲く花々の廷の仲間も……皆、やられてしまった」


 血に染まった手で、彼女は瓦礫の下から伸びる腕を掴み、無残に動かぬ身体を抱き起こす。その肩は深く裂け、息は荒い。それでも瞳には恐怖を呑み込み、なお残る強い意志が燃えていた。


「……でも、まだ諦めない。君は……生き残った。君は本来、ここで死ぬはずだった。何度も、何度もそれを見てきた。でも……何故か、今回は違った」


 香月の胸を締め付けるのは、彼女の言葉と同時に、焼け焦げた街の圧倒的な現実感だった。絞り出すように言葉が零れる。


「……また、いつもの予言か? 外れることもあるんだな」


 陽子は一瞬だけ視線を落とした。瓦礫の隙間に灯る炎を見つめるように。


「……これは予言じゃない。ただの事実。君は生き延びた。私の知る全ての未来では、ここで君も死んでいた。それなのに今回は違う。……偶然でも必然でもなく──恐らく、因果律に誰かが干渉した結果、残されたんだろう」


 香月は思わず眉をひそめる。


「……干渉、か。……つまり、運命が、偶然にも俺をこの地獄に残したってことか」


 陽子は小さく頷き、赤黒く染まった空を睨んだ。


「そう。私は全てを知るわけじゃない。ただ、確かなのは──君はまだ生きている。だから、ここで終わらせるわけにはいかない」


 言葉の端々から零れる切迫感。それでも彼女の声は決して震えず、冷たくも静かな炎のように香月を包む。


「私は、彼女が肉体を奪われ、この世界に魔術の存在を解き放って世界を崩壊させる未来を何度も見てきた。この二十年を繰り返し、何百回もやり直した。……そしてその中で、毎回違う行動を選ぶのは、必ず君だけだった」


 香月は目を細め、言葉を追い詰めるように尋ねる。


「……どういうことだ」

「君には因果律に干渉できる特異な素質がある。だから、私は君に時魔術を施した。死亡の瞬間に、意識だけを過去に飛ばす術式だ。でも……」


 陽子の瞳が揺れ、唇がかすかに歪む。

 

「……恐らく、まだ発動しない。すまない、私の研究が不十分だからだ」


 香月は眉をひそめ、呟く。

 

「……つまり、俺の意識を過去に戻す魔術が発動する可能性がある……が、不完全な術式だから発動しない……そういうことか」


 陽子は静かに頷き、声を震わせずに告げた。


「でも、そんな君がこの世界線で初めて生き残った。こんな事は初めてだ。だから……私はその可能性に賭けたい」


 香月は焼け焦げた街を前に、喉に言葉を詰まらせた。胸の奥で、不安と期待が絡み合い、息苦しいほどに膨らんでいく。


「……可能性、か……」

 

 眉間の皺を解こうとしても、視界に映る惨状と、陽子の決意がそれを許さない。

 陽子はゆっくりと香月の肩に手を置き、真っ赤に染まった空を背景に視線を彼に向けた。

 

「君はただの生存者じゃない。この世界線を変える力を持っている。君の意志ひとつで、この因果を違う方向へ導けるかもしれない」


 香月は無言のまま頷き、深く息を吸い込む。胸の奥で、あの過去の記憶が疼く。人形師の工房、流れ込んできた記憶、そして焼け焦げた街……全てが、今の自分を形作る一片であることを理解していた。


「俺に、その過去に戻る魔術ってのを──陽子さん、アンタがわかる範囲で良いんだ。教えてくれないか。俺が形にする」


 陽子は香月の瞳をじっと見つめ、息を整えた。瓦礫の隙間から揺れる炎が二人の影を赤黒く引き伸ばす。


「わかった。でも、この時魔術は私でも何度もこの二十年間を繰り返して──五百年かけてもまだ理解が追いついてない代物だ。君の寿命では到底理解できないかもしれない」


 陽子の声は静かだが、どこか切実さを帯びていた。炎の揺らめきに反射して、瞳が鋭く光った。香月は言った。


「アンタ、吸血鬼とのハーフの一族なんだろ? 身体を吸血鬼にする方法も……知ってるはずだ」


 陽子の視線が鋭さを増す。炎の赤が瞳に映え、問いが投げかけられる。


「……君はそれで良いのかい?」


 その問いは静かだが、深く、重い。香月の胸の奥に沈む何かを揺さぶる。答えを急かすのではなく、選択の責任を突きつけるように、陽子の声は確かに響いた。


 香月は一瞬、沈黙した。炎の匂いと焦げた街の光景が頭を過ぎる。人々の悲鳴、瓦礫に倒れる姿、そしてイヴの暴走する肉体の感覚……全てが絡み合い、胸を締め付ける。


「……そうだ。俺はそれでも前に進む」


 香月の声は低く、揺るぎない決意を帯びていた。焦げた街を背景に、彼の目は赤黒い空に向かって光る。


「もしそれで力を得られるなら……この世界線を変えるためなら、選ぶしかないだろう」


 陽子はしばらく香月を見つめ、わずかに目を伏せる。そうして静かにうなずいた。


「……覚悟を決めたんだね。なら、君の意志で進めばいい」


 赤黒い光が二人の影を長く伸ばす。互いに寄り添うように重なったその影は、炎に揺らめきながらも、確かな存在感を刻みつけていた。


     ◆


 そうして──魔力を絶やさぬ限り半ば不老不死となる吸血鬼の身体を手に入れ、さらに陽子から託された、彼女の師エリオット・ペンデュラムの遺稿を握りしめた香月は、時魔術の研究に歩を踏み出した。


 陽子はその後、少しでも世界を良くしようと、イヴの肉体を奪った存在との戦いに赴き、その命を散らした。

 残された香月は、独りで運命に抗うことを余儀なくされた。


 燃え盛る瓦礫の街に立ち尽くし、香月は魔術書を握りしめる。冷たく重い感触は、ただの紙の束ではなかった。魔術学院で不可解な死を遂げた偉大な魔術師──エリオット・ペンデュラムの思考と実験の痕跡が、血脈のように脈打ちながら彼の掌に伝わってくる。


 吸血鬼の血が全身を駆け抜ける。かすかな震えを伴いながらも、その肉体には人間であった頃にはなかった力が確かに宿っていた。だが香月は知っていた。力だけでは世界は救えない。必要なのは知識、魔術の研鑽、そして長い時間をかけて世界を理解することだと。


「……陽子さん。アンタに託されたんだ。必ず、時魔術を習得して……そしてお前を救ってみせるよ。イヴ」


 赤黒い風が吹き荒れる中、香月は心に誓った。エリオットの遺稿を礎に独自の研究を進め、この荒廃した世界を、再び文明と平穏のある世界へと導き直すのだと。


 その日から彼の旅が始まった。戦うのではなく、隠れ、実験を繰り返す日々。魔術書に記された膨大な理論と術式を一つずつ解析し、己の血肉に刻みつけていく。焦げた瓦礫の下からわずかに残った文明の痕跡を拾い集め、崩壊した世界の仕組みを理解しようと試みた。


 時は流れる。世界が灰燼に帰してから、千年の歳月が過ぎ去った。

 人々の記憶にすら残らぬであろう長い年月を、香月はただ知識と力の研鑽に費やした。孤独の中で文明の再構築を模索し、失われた魔術体系と技術を結びつけ、世界を救うための準備を続けてきたのだ。


 そしてついに、彼は「過去へ戻る魔術」に辿り着く。


 千年に及ぶ研究の末、香月は「身体ごと過去に戻る術式」を完成させた。空間を裂く魔力の奔流が周囲に巻き起こり、赤黒い瓦礫の街は彼を中心に歪みを始める。


「……行くしかない。やるぞ」


 発動に必要な魔力は、長年の実験で媒介に溜め込んできたものを全て注ぎ込んだ。血脈に流し込まれる膨大な魔力に、吸血鬼の身体が悲鳴を上げる。千年分の知識と技術の結晶。だが術式は、なお不完全だった。


 光の渦が彼を包み、時の壁が押し広げられる。その瞬間、肉体は限界を超えた。腕や脚が裂けるように痛み、内臓は焼け焦げるような苦痛に苛まれる。吸血鬼の再生能力ですら追いつかない損傷が全身に走った。


 血と魔力が混ざり、赤い光の雨が降り注ぐ。だが香月の意識は揺るがない。

 焦げた瓦礫の街の光景を最後に目に焼き付け、彼は痛みに抗いながら、時の渦に身を委ねた。


 ──到達したのは、かつての自分が立っていた場所。

 事故で両親を失い、グレイヒル修道院に預けられた、あの始まりの時代だった。

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