19.可能性の果て⊕
瓦礫と血の匂いに沈んだ広間で、かすかな呼吸音だけが残っていた。
戦いの余熱はまだ石壁を焦がし、空気の奥に焼けた鉄と肉の臭気を残している。崩れ落ちた天井の隙間から差す光は鈍く、そこに映るのはもはや死骸のように横たわる影だった。
香月はすでに神格の光を解き、黒髪と元の瞳に戻っていた。だが、その視線だけはまだ人形師から離れなかった。砕かれた四肢、焼け爛れた肉、仮面の奥で揺らめく虚ろな眼差し。それでも──人形師はまだ生きていた。まるで執念だけで、その身をこの場に繋ぎ止めているかのように。
その身体を抱き支えているのは陽子だった。自らも血に濡れ、ゴシックドレスの肩口は裂け、両腕は細かく震えている。それでも彼女は人形師を膝に抱き、崩れ落ちるのを許さなかった。頬にこびりつく血を拭おうともしないまま、ただ必死に抱き止める。
人形師の呻き声ともつかぬ声が、掠れた息に乗って漏れる。
「……大神香月……最後に……頼みがある」
香月は無意識に眉を寄せた。哀れみではない。復讐の炎をやり尽くした後に残る、奇妙なざわめきだった。胸奥で何かがざわめき、己を落ち着かせようとしても鎮まらない。
「解析魔術を……俺に使え」
その言葉に、空気が凍り付いた。
陽子がはっと顔を上げ、香月を見つめる。その瞳には恐怖と同時に、何かを訴える必死の願いが揺れていた。
なぜ自らを解析させようとするのか。なぜ最後の願いがそれなのか。
理屈では理解できない。それでも、確かめねばならないという衝動が勝った。
香月は陽子の傍らに膝をつき、片手を人形師の胸に置く。掌越しに伝わる鼓動は弱く、しかし確かに生きていた。右腕に意識を集中させ、息を整える。その横で苦々しい表情で陽子がかぶりを振った。
「……Analysis《解析》」
発動の言葉を呟いた瞬間、赤く灼けた魔力の余韻の中で淡い光が立ち上がる。右腕に彫られた解析魔術の魔術刻印が青白い光を放って浮かび上がった。
そして、奔流のような映像と記憶が、香月の脳裏に雪崩れ込んだ。
戦場の断片。見知った街が燃え盛る様子。ひたすらに魔術書を読み解き、実験を繰り返す日々。そして──幼い自分を切り刻み、加工した肉体を移植する手術の光景。
押し寄せる映像は絶え間なく、香月の意識を飲み込みながらひとつの答えを形作っていく。
「……嘘だろ……まさか……」
頭蓋を内側から割られるような痛みに、香月は思わず目を押さえた。
しかし視界は闇に沈まず、光景は鮮烈に焼き付いていく。
血に染まった飛行機墜落事故の現場。
瓦礫の街を歩く黒髪の少年。
大人たちに引き渡され、修道院に預けられる姿。
冷たい器具に繋がれ、部品のように刻まれる幼い体。
それは紛れもなく、自分と同じ顔をした「誰か」だった。
他人の記憶なのに、胸の奥が痛む。
自分の過去と重なり合い、境界が揺らいでいく。
「やめろ……っ、これは……!」
拒絶の声も虚しく、脳裏へ流れ込む記憶は止まらなかった。
記憶の断片はひとつに収束し、答えを突きつけてくる。
──人形師は、他の世界線の「大神香月」だ。
敗北し、屈辱に塗れ、この姿に堕ちたもう一人の自分だ。
「……ふざけんなよ……そんな、馬鹿な話が……」
膝が震える。怒りか、恐怖か、自分でもわからなかった。怒鳴りたいのに声が出ない。
神の檻への潜入作戦の直前、人形師と接触した際に発現した解析魔術の新たな術式──自分が記憶剽窃と名付けたあの術式は全てこの時の為に。この男が──他の世界線の自分が仕組んでいた物だったのかと気付かされた。
目の前の存在は、憎んで斬り刻んだ復讐の相手。だが今は、否応なく「己の成れの果て」として迫ってくる。
荒い息を吐きながら、香月は仮面の奥の眼を睨みつけた。
人形師は、もはや笑う力も残さぬまま、かすかに唇を動かす。
「そうだ……俺は……お前だ。……別の……可能性に……沈んだ……俺だ……」
その声を最後に、人形師の瞳からわずかな光が零れ落ちた。
だが解析魔術は止まらない。記憶の奔流はなおも香月の意識を揺さぶり、過去へと引きずり込む。
血の匂いが肺を満たし、冷たい鎖の感触が手首に食い込み、誰かの叫びが自分の喉から迸る。
それは「他人の過去」ではなく、「自分が歩んだ現実」として体に沈んでいく。
境界は削ぎ落とされ、記憶と意識が融け合う。
「俺」と「俺ではない誰か」との区別さえ消えていく。
──同化が始まっていく。
逃げ場のない痛みと絶望が、己の奥底に直接刻み込まれていった。
視界が白く弾け、広間の景色は溶け崩れる。意識が遠のいていく。遠くで誰かが自分を呼ぶ声が霞んで消えた──陽子の声だ。
次に立っていたのは、瓦礫ではなく、鉄と油の匂いが満ちる閉ざされた工房だった。
金属の軋み。誰かの悲鳴。
そして、冷たい鎖に縛られ、手足を動かせぬまま横たわる「少年の自分」。
──これは、人形師の記憶。
飛行機事故で両親を失い、悪意ある大人に売られ、商品として刻まれていく。
自分と同じ経験をしている。しかし細部は違う。これはもうひとつの「大神香月」の過去だった。
◆
視界を満たすのは、冷たく光る鉄の器具と、無機質に積み上げられた石造りの天井。
鼻を突くのは、血と油が混じり合った生々しい匂い。
冷たい金属の板に縛りつけられた幼い体は、身動き一つ許されない。
「……いやだ……やめろ……!」
声は掠れ、鎖の響きにかき消される。
返ってくるのは無機質な足音だけ。白衣の影が幾人も取り囲み、冷たい器具を並べていく。刃先に刻まれるのは、術式の赤い光。
命令を下すのは──本物の人形師だった。
「実験体、安定値を確認」
「適合率……高い。やはり大神の肉体は逸材だ」
器具が振り下ろされ、肉を裂く音が響く。焼き付く痛みが骨に食い込む。
「う、あああああああああっ!!!」
絶叫は無慈悲に記録されるだけだった。
香月の意識は苦痛の記憶に呑まれながらも理解する。
──この痛みは自分がかつて受けたものと酷似している。しかし違う。刻んでいるのは本物の人形師だ。
仮面の隙間から覗くのは、深い皺に刻まれた口元と、濁りきった眼光だった。そこには老いの影ではなく、長年血と器具を弄んできた者だけが持つ、研ぎ澄まされた冷酷さが宿っていた。
──これが、本物の人形師。老いたはぐれの魔術師だった。
視界の端、小さな台に縛られた少年もまた恐怖に沈む。彼の腕は動かず、器具に繋がれている。
「……次は、右肺を──」
淡々と告げられる声に、心が凍り付く。逃げられない。助からない。部品にされる。
少年の視界に映るのは、無表情な仮面を被った老齢の男だ。自分が体験した記憶と同じ仮面だった。だが、中身が違う。
この男こそ、未来から戻った別の香月が人形師を殺して成り代わったという事実の無い世界線で、この幼い香月にトラウマを植え付けた存在だった。
その冷ややかな声が淡々と告げる。
「ようこそ──我が工房へ。君は、私の商品になるんだ」