16.操り人形《Marionnette》⊕
工房の広間に、重苦しい沈黙が降りた。
分魂体たちは香月の周囲を取り囲むが、襲いかかる気配はない。ただ道を示すかのように、仮面を揺らめかせ、異様に整った円陣を作る。すべてが、香月と人形師の決戦を見届けるために、息を潜めているかのようだった。
「……どうした。仕掛けてこないのか」
香月の声は低く、鋭い。だが仮面の奥から返ってきたのは乾いた嘲りだった。
「殺意を向けるのはお前の役目だ。俺はお前の殺意を受け、それが導く結末に至るのみだ」
その声と同時に、広間全体の空気が軋む。壁に描かれた魔術陣が青白く脈打ち、空間そのものが不自然に揺れる。──まるでこの場が、人形師の「檻」であり「儀式の舞台」であるかのように。
「何を……企んでいる?」
香月の問いに、仮面は静かに応える。
「企み? 違うな。これは俺が望み仕込んでいた必然だ。お前が選ばれた時から。さあ、決着をつけよう」
不意に、胸奥がざわめいた。
幼い日の記憶──鉄の枷、背骨をなぞる冷たい器具──その痛みと共に、体の奥に微かな熱が灯る。触れてはいけないと感じていた、異質な感覚。
「……やめろ」
香月は胸を押さえる。だが、仮面はあざ笑うように言葉を続けた。
「やがて目覚めるだろう、この戦いで。お前に加護を与えた神格が」
その言葉を皮切りに静かに火蓋は切って落とされた。
胸奥の熱を抑え、香月は一瞬で距離を詰めた。
仮面の分魂体たちが鋭く跳躍し、四方八方から襲いかかる。
だが香月の動きは研ぎ澄まされていた。
跳ね、体をひねりながら背後回し蹴り──膝蹴りで迫る分魂体を蹴散らす。拳が鋼の鎖を叩き切り、肘打ちで壁に叩きつける。床は衝撃で割れ、振動が広間に波紋のように広がった。
分魂体は瞬間、消え、また現れ、影のように香月を包む。だが彼は臨機応変に身を翻し、蹴り飛ばし、前進を止めない。
人形師は動かず立つ。魔術陣が青白く脈打ち、光が香月の体を縁取る。まるで攻撃を誘導するかのように揺れ、広間の空間そのものを戦場に変えていた。
宙を舞い、体を反転させながら背面蹴り──連続の肘打ち──
拳と蹴りの軌跡が稲妻のように光を裂き、分魂体は弾け飛ぶ。鎖は宙を裂き、鋼鉄と石床の衝突が轟音となって空間を震わせる。
香月は駆け抜け、跳躍しながら膝を人形師に叩き込む。
広間全体が揺れ、跳ねる破片が光の軌跡を描いた。
「|Synergy Enhance《筋力・神経反応融合強化》」
口の中で呟き、魔術を発動させる。
──速度、力、反射神経。
全てが極限まで研ぎ澄まされ、香月は人形師に迫る。
香月が肉薄した瞬間、仮面の奥から声が発せられた。
「|Synergy Enhance《筋力・神経反応融合強化》」
広間を走る青白い光が、一層鮮烈に脈打つ。次の瞬間、魔術によって速度の増した二人の動きは完全に重なった。
拳が交差し、衝撃波が壁を砕く。
蹴りがぶつかり、床石が爆ぜる。
肘と膝が衝突する度に、鉄骨の軋むような音が空間を震わせた。
(……俺と同じ魔術? いや、これは俺が麗奈から剽窃した物だ。偶然か? それに──)
香月は息を切らすことなく、わずかな違和感を掴もうと目を凝らした。
目の前の人形師の拳は、まるで鏡に映したかのように自分と同じ角度で打ち込まれる。蹴りも、体の捻りも、呼吸のリズムすらも──寸分違わない。
衝突の余波が、空間そのものを歪ませていた。
「……ふざけるなよ。俺を真似ているだけか!!」
吐き捨てるように香月が言うと、仮面の奥からは低い声が返る。
「真似……か。どうだかな」
その言葉に呼応するように、香月達を取り囲む分魂体の人形たちがざわめく。揺らめく仮面が一斉に傾き、円陣がわずかに狭まった。
その様はまるで、檻の格子が狭められていくかのようだった。
次の瞬間、再び拳が交錯する。
骨と骨がぶつかる鈍い衝撃。床石が裂け、破片が飛び散る。
蹴りが弾けると同時に、広間を走る魔術陣が強く脈動し、青白い稲光が二人の体を縁取った。
(俺の戦い方そのものかってくらい……真似してきやがる。なぜここまで一致する?)
疑念が脳裏をかすめるたび、胸奥に封じ込めていた熱が暴れ出そうになる。
それは痛みと同時に、得体の知れぬ昂揚を伴っていた。
「抗え。俺への憎しみを燃え上がらせろ。そうすれば……目覚める」
仮面の奥から投げかけられた言葉が、炎に油を注ぐ。
香月は奥歯を噛み締め、拳を構えた。
「──黙れよ! まるで全て自分が仕組んでいたみたいに言いやがって……!」
怒声と共に踏み込む。
だが、同じ動きで人形師もまた踏み込む。
二人の姿は残像となり、広間に幾筋もの閃光が刻まれる。
「抗ってやるさ……! 俺は、お前の手繰らせた糸で踊らされはしないッ!」
壁は砕け、床は崩れ、宙を裂く拳と蹴りが轟音を響かせた。
その戦いはもはや、外から見れば区別がつかない。
香月と人形師──二人の存在は、まるで同じ影を重ねたかのように揺らめいていた。
「──奥の手だッッ!!」
香月の怒声が広間に響き渡る。
瞬間、全身を包む魔力が爆ぜ、肉体強化魔術の魔力の奔流が筋繊維を駆け巡る。
筋肉が隆起し、血管が脈打ち、骨の軋みが肉を押し広げる音すら響いた。
「ウォォォォォォンッ!!」
獣じみた咆哮と共に牙が覗き、爪が鋭く伸びる。漆黒の毛が逆立ち、瞳が血のように赤く光を帯びた。
人狼化と肉体強化魔術の重ねがけ──それは香月の切り札にして、己を限界まで追い込む奥の手。
爆発的な魔力と肉体の膨張が重なり、広間の空気はさらに震えた。
踏み込んだ瞬間、床石が弾け飛ぶ。
爆発したかのような凄まじい速度と圧力で、香月は一直線に人形師へ迫る。
だが──
「そう来ると思っていた」
仮面の奥から囁くような声。
同時に、人形師の指先がわずかに動いた。
空間を縫うように伸びた青白い糸が、いつの間にか香月の四肢に絡みついていた。
踏み込んだ脚が一瞬遅れ、振り下ろした爪がわずかに軌道を逸れる。
「……っ!」
糸はただ巻きつくだけではない。
筋肉の収縮をなぞり、神経の発火に先んじて、動きを縫い止めるかのように阻害してきた。
「人狼化か。だが、この魔術糸の前では獣も人も同じ。これがお前の奥の手だという事はわかっている……見え透いた手だ。そんな物で俺は殺せはしない」
人形師の声は乾いた笑いを孕んでいた。
香月は唸り声を上げ、筋肉を裂く勢いで抵抗する。だが糸は千切れない。
むしろ四肢を引くたびに、己自身の神経に絡みつく錯覚が強まる。
──操られている。
まるで自分の体が、人形のように糸で引かれて動かされている。
「舐めるなァッ!」
香月は咆哮し、血走った瞳で仮面を睨みつけた。
だが、その眼光すらも仮面の男には届かない。
指先が軽く弾かれた瞬間、青白い糸が波紋のように広がり──
「──この俺を殺したいのだろう? やってみせろ」
そう呟くと同時に、世界が歪んだ。神の檻での潜入作戦の際に見せたノーモーションでの魔術発動だ。第一から現行の第四世代のどの魔術発動方式でもない──まるで未来からの魔術の発動方式。
視界の端で、仮面の輪郭が幾重にも残像を生み出した。
床の破片が宙に浮き、滴る血さえも遅れて落ちる。
「……なに……ッ」
香月の反応は間に合わない。
すでに彼の動きは、人形師にとって『止まっている』のと同じだった。
絡みつく魔術糸を無理矢理振り解くように鋭い爪を振り下ろす。だが、それより早く糸が神経の動きを縫い止める。膝を突き刺すより早く、腕が背後へと捻じ曲げられる。
人狼の膂力を誇るはずの肉体が、木偶のように操られていく。
「……これ、時魔術……エリオット師匠の……」
その光景を目の当たりにした陽子が、思わず息を呑んだ。
瞳は恐怖と確信に揺れている。
「やっぱり……そういうこと……」
彼女の呟きが、広間に響く。
「どうした、大神香月!」
人形師が仮面の奥で冷笑を浮かべるのがわかった。
「牙を剥いても、吠えても……お前は俺を殺す事はできないぞ!」
目にも止まらない速度で人形師が香月に肉薄してくる。
視界がぶれる。
人形師の残像が十重二十重に折り重なり、どこから拳が飛んでくるのかすら判別できない。
次の瞬間、鳩尾に衝撃が走った。
空気が肺から押し出され、呻き声すらも喉に貼りつく。
すぐさま背後から肘が叩き込まれる。
振り返るより先に、糸が神経を縫い止め、回避の意志そのものを奪い去っていた。
「が……ッ!」
血を吐きながら膝をついた香月を、青白い糸が蜘蛛の巣のように絡め取る。
腕を引き千切ろうと力を込めれば込めるほど、糸は神経の走行をなぞるように深く侵入していく。
──まるで身体の設計図を、すべて握られているかのように。
「お前の膂力は見事に育った。だが、それは俺が与えた枷に過ぎん。所詮、お前は俺の作った人形だ」
仮面の奥から、冷ややかな声が降り注ぐ。
「違う……俺は……俺はッ! お前をッッ!」
香月は咆哮し、爪を振り上げる。
しかしその腕は、寸前で糸に絡み取られ、逆に肩の関節を外される。
裂けるような激痛が走り、膝が勝手に床へ叩きつけられた。
──立ち上がれない。
人狼の膂力を誇るこの身体が、まるで自分のものではないかのように。
広間を揺らす衝撃音と共に、糸が束ねられた。
人形師が伸ばした指先が鋭く弾け──次の瞬間、光速めいた拳が香月の胸を貫いた。人形師が呟く。
「──できぬのなら、終わらせてやる」
空気が爆ぜ、肋骨が砕け散る音が広間に轟く。
肉を抉り、背中へと突き抜ける衝撃。
血潮が噴水のように飛び散り、床石を真紅に染めた。
──その瞬間、香月の身体が変化を見せた。
激痛と共に、人狼化していた毛が逆立ち、牙が光を失い、筋肉隆起の膨張も消え失せた。
全身を覆っていた力の奔流が、打ち砕かれた胸を起点に一気に吸い取られるように消え去る。
──人狼化が、解けた。
「……が、ッ……」
香月の口から、赤黒い塊が零れ落ちる。
その瞳の光が一瞬にして揺らぎ、力なく開かれる手からは鋭い爪が引き抜かれていく。
「少年……!」
隅で見ていた陽子の喉が凍りつく。
胸の中央を、真っ赤な穴が穿っている。
──心臓。
そう思わせるほどの致命傷。
「見込み違いだな。その程度だったか」
仮面の奥から、冷たい声が響く。
血に濡れた拳を払い落としながら、人形師は崩れ落ちる香月を見下ろした。
陽子は息を呑む。
──死んだ。
そう思わせるに十分な光景がそこにあった。