15.追想、そして決戦の扉
幼い頃、あの男に連れてこられた場所。その石造りの館を見上げた瞬間──胸の奥がざわめいた。
苔むした壁の冷たさが、やけに恐怖感を煽った。
──あの男の工房の地下室。
湿った床に染み付いた血の跡、身動きするたびに聞こえる鎖が擦れる音。
そして、子どもの泣き声。
少年の香月は、鉄の枷に両手足を縛られていた。
目の前で一人の子が「選ばれ」、無機質な声とともに連れて行かれる。
扉の向こうで響く悲鳴は、やがて途切れてその静寂が、次の犠牲を告げていた。
「お前は器になるんだ」
仮面の魔術師が低く言った。
感情の欠片もないその声は、人ではなく物に向けられるものだった。
腕に針が突き立てられ、背骨をなぞる冷たい鉄が這い上がる。
骨が削られ、筋肉が裂かれ、体が自分のものではなくなっていく。
叫んでも声は出ない。ただ涙だけが流れ落ちた。
(……俺は、もうまともな身体じゃないんだ)
絶望に沈んでいく意識の中、香月はただ胸に手を当てた。
鼓動はあった。呼吸もあった。
だが、それが自分自身だという確信は、どこにもなかった。
──その記憶は、今も胸に焼き付いている。
◆
アルファロメオは石畳を軋ませながら、寂れたカステル・フィーノの村を抜けていく。崩れかけた屋根や割れた窓の家並みは、かつての繁栄の残影を伝えていた。風に揺れる木の葉さえも乾ききり、村全体が時の止まったような静寂に包まれている。
ハンドルを握るのはじいや。助手席には陽子が座り、穏やかな横顔で前方を見据えている。後部座席には香月、クレア、シャルロット。車内は静かで、クレアは膝に手を添えたまま指先で床を押さえる。その仕草は、心の中の迷いを微かに告げていた。
やがて村の外れに、ひっそりと館が姿を現す。崩れ落ちた屋根、苔むした石壁──外から見れば荒れ果てた廃墟。だが香月の記憶は告げていた。
ここは人形師の工房だ。過去の実験の残骸と魔術の痕跡が、今も奥に潜んでいる。
車が館の前で停まり、窓越しに苔むした石壁が見えた瞬間──
香月の胸奥で、鈍い痛みのような記憶が蘇った。
鉄の匂い。
冷たい器具のきしむ音。
泣き叫ぶ声が、次第に途絶えていく気配。
幼い自分は、ただ震えて見ていることしかできなかった。
声を上げても、誰も助けてはくれない。
足も手も、冷たい拘束具に縛られ、ただ「素材」として弄ばれる。
──そして、仮面の奥から注がれた無機質な視線。その視線に捕らえられた瞬間、自分の肉体はまともな状態ではなくなったのだ。
香月は目を閉じ、深く息を吸う。
胸の奥の鼓動は早鐘のように打っている。だが今は、恐怖ではなく決意の音だ。
「……ここまででいい。ここから先は俺一人で行く」
低く放たれた声は、記憶に抗うかのように強く響いた。復讐は他の誰にも背負わせることのできないもの。だからこそ、仲間を巻き込むわけにはいかなかった。
『カヅ──』
声を出しかけた瞬間、陽子が軽く手をかざして遮る。
「彼の言うとおりだよ。……私は協会所属の魔術師じゃないから、付いていくことはできる。でも君たちは違う」
振り返った陽子の瞳は凛として揺るがない。
「私ならどうにでもできる。だが、君達の立場はそうではないだろう? 協会の魔術師ですら、この少年を狙っているんだ。巻き込まれないよう、ここから先は引き返すんだ。後は任せてくれ」
クレアは視線を伏せ、指先で膝を強く押さえ、渋々頷いた。迷いと抗いの気配は消えないが、従うしかない──その微かな動作で香月にはそれが伝わる。シャルロットも同様に唇を引き結び、無言で頷いた。
アルファロメオは二人を乗せ、来た道を引き返していく。車の影が消えた後、香月は視線を正面の館に戻した。
午後の光を浴び、廃墟は静かに口を開けている。
ここで、すべてを終わらせる──。
香月の足音が、苔むした石段に低く響く。館の扉を押し開けると、古びた木の香りと埃の匂いが混ざり合い、ひんやりとした空気が肺を満たす。闇の中、かすかな光が壁や天井のひび割れから差し込み、舞う埃の粒が静かに揺れる。視線の先には、錆びた金属や奇怪な形状の器具が散乱していた。館だけ時間が止まったかのように、異様な静寂で支配されている。
床板が微かに軋み、古い魔術結界の残滓が空間に微細なざわめきを起こす。見えない力の波動が、香月の感覚を刺激する。心臓は早鐘のように打つが、その鼓動は恐怖ではなく──決意の熱に変わっていた。
「……待っていろよ、人形師」
低く鋭い声が館の奥へ放たれる。館の奥深く、かすかな魔力の残滓が微かに揺れ、廃墟の空間全体がまるで呼吸しているかのようだった。
「ふぅん……流石、世界的に有名なはぐれ魔術師の使うアジトの一つってのは雰囲気が違うね。でも、こうして荒れ果てたまま放置されているのを見ると、ただの廃墟以上の匂いがする。時間が止まった空間、消え残る魔術の気配──まるで、ここに残された者たちの痕跡がまだ息づいているみたいだ」
陽子の声は館内に低く響き、埃っぽい空気の中で不思議な冷静さを保っていた。香月はその言葉に一瞬だけ視線を向け、頷く。陽子は館の奥を見据えながら、壁や床に残る微細な痕跡を指先で追い、魔術的な結界や実験の名残を確かめていく。
「見ての通り、ここは人形師の工房なんだろうね。魔力の残滓や器具の配置から、ただの廃墟ではないことは明白だ。あらゆる痕跡が、彼の手の届く範囲で精密に管理されている。まるであつらえてる舞台みたいに……居るね、彼が」
香月は小さく息を吐き、拳を握る。館の中の空気は重く、微かなざわめきが視覚にも感覚にも侵入してくる。微かに軋む床、壁に残るひび割れから差し込む光──それらすべてが、ここがただの廃墟ではないことを告げていた。
「九十九里浜のアイツの拠点と同じように、ここから向こうは魔術空間にアクセスする必要がありそうだ」
香月は苔むした床に足を置き、館の奥へと進む。埃が舞い、錆びた器具や奇怪な形の道具が散乱する空間に、微かに魔力の波動が漂っていた。視覚や聴覚では捕らえられないその感覚は、身体の奥に直接触れるように伝わる。
彼は足を止め、視線を床に落とした。そこには微かに光を帯びた線──古い魔術陣──が浮かび上がっていた。九十九里浜のペンションで見たものと、形状や構造が完全に一致している。魔力の流れ、空間への干渉の仕組み、すべてが同じだ。
香月は膝を軽く曲げ、掌に魔力を集中させる。息を整え、心を静め、魔力を魔術陣に沿って流し込む。淡い光が線を伝って広がり、床板や壁に微かな振動が走った。その瞬間、館の奥深くに、現実とは少し異なる層が重なった。
この魔術陣は、空間そのものの扉だ。香月の魔力が注ぎ込まれたことで、人形師の魔術工房──時間と空間が歪んだ異界──が現前する。壁も床も微かに揺らぎ、光と影の境界が曖昧になる。呼吸するようにうねる空間に、古い魔術の残滓が微かにざわめいた。
香月は拳を握り、静かに一歩を踏み出す。床の感触が微かに軋み、魔術空間の波動が指先に伝わる。知らないはずの術式なのに、どこかで知っている感覚──既視感のような異様な感触──が彼の意識を揺らした。
「……ここから先は、人形師の世界だ」
香月は低く呟き、魔術陣の中へと足を進めた。光が柔らかく広がり、館と重なる魔術空間が完全に開いた瞬間、香月の体が一瞬、硬直した。
目の前に広がったのは──見覚えのある光景だった。
埃の舞う床、奇怪な形の器具、錆びた金属、壁に描かれた古びた魔術陣──すべてが、幼い頃に連れ込まれた人形師の工房と同じ構造をしていた。
心臓が早鐘のように打つ。呼吸が浅くなる。記憶の奥底に閉じ込められていた感覚が、氷の指先のようにゆっくりと蘇る──あの恐怖、あの匂い、あの冷たく湿った空気。
「……ここは……」
声にならない声が漏れる。香月は足元の光る魔術陣を踏みしめ、目の前の空間を見据える。
「見覚えがあるんだね、少年」
「ああ。俺が人形師に加工を受けた工房だと思う。奴が『待っている』と言った場所で間違いないのだろうな……」
かすかな風に舞う埃が、まるで幼少期の記憶を揺さぶるかのように宙を漂う。あの時の人形師の冷たい視線、無機質な器具に囲まれた暗闇、そして誰も助けてくれない孤独──
「……覚えている……あの日々のことを……」
香月は拳を更に強く握りしめ、幼い自分の恐怖を思い出す。だが今は、恐怖ではなく決意が支配する。
魔術陣に魔力を注ぎ込み、微かに歪む空間に足を踏み出す。視界の奥、微かに揺れる光と影の合間に、過去と現在が交錯する。
「……俺は、無力なあの時とは違う」
低く呟き、胸の奥で鼓動を感じながら、香月は慎重に工房の中心へと歩を進めた。幼少期に閉ざされた恐怖の記憶が、今、自分をここへ導いたのだ。
工房の奥深く、薄暗い空気が香月を包む。そこには、ピエロのような派手な色の衣装を纏った──横浜で見た人形師の姿に類似しているが、それぞれが違う容姿をしている──男達が居た。
恐らく人形師の分魂体だろう。そんな彼らが静かに道を開き、赤や紫の派手な衣装に仮面を被った異形の人型たちが、まるで儀式の一部のように香月を奥へ導く。香月は身構えるが、分魂体たちは敵意を示さず、ただ静かに通路を示すだけだ。
「奥へ来いってか……」
香月の声は低く、震えることはない。幼少期に感じた絶望、無力感、孤独――すべての記憶が胸の奥で重く絡みつく。しかし、背後には陽子がいる。彼女の静かな存在、揺るぎない視線が、香月の心の動揺をわずかに和らげる。恐怖と決意の間で揺れる彼の呼吸を、陽子は無言で支えていた。
埃が舞う床、錆びた器具、壁に描かれた古びた魔術陣――幼い頃の恐怖が、目の前に現実として甦る。
分魂体たちは香月の足取りに合わせ、静かに道を作る。襲いかかる気配は一切なく、まるで「本体が待っている」という意思だけを伝えているかのようだ。香月は奥へ進む一歩一歩を踏みしめながら、心を整える。
「……俺は、あの時の自分じゃない」
胸の奥で鼓動が高鳴る。幼い頃の恐怖に押し潰されそうになりながらも、陽子の存在が冷静さを取り戻させる。彼女の沈着な視線が、暗闇の中で唯一の指針となる。
やがて奥の広間が見えた。微かに光る空間の中心には、ゆらりと揺れる気配――恐らく奴が本体だ。幼い頃に感じた、冷たくも恐ろしい視線がそこにある。
「──来たか」
ただそれだけで、空気が一瞬凍りついた。幼い頃の絶望を呼び起こす、冷たい声だった。
その声は、空気の震えに変わり、床の木目すら微かに軋ませる。幼い頃の香月を捕えたあの冷たく乾いた感覚──孤独、絶望、恐怖──が、今も胸の奥を鋭く刺す。だが香月の呼吸は浅くなる一方ではなく、決意の熱で逆に引き締まっていた。
「お望み通り、殺しに来てやった」
香月が言い放つのに、仮面の下の瞳が一瞬だけ揺らぎ、鋭い光を帯びて陽子へと向いた。
「……貴女も来たのか」
低く響く声は、仮面越しにしてなお冷たさを孕み、広間の空気を震わせる。
陽子は臆することなく、ゆるやかに顎を引いて答えた。
「……ああ。見届け人としてね」
その声音には挑発も恐怖もなく、ただ揺るがぬ静けさがあった。
「別に構わないだろう? 君なら、そう答えると思っていたけどね」
仮面の奥で笑ったのか、それとも冷笑を浮かべたのか。人形師の気配がわずかに波を打ち、周囲の空間が不穏に揺らいだ。
「……ふふ、そうか。私とこの男の二人だけではな。確かに、観測者が必要だ。良いだろう、特等席で見ていると良いさ」
陽子はその言葉を受けても眉一つ動かさず、ただ視線を返す。彼女の存在は、香月にとって背後を支える揺るぎない柱のように感じられた。
香月は拳を握り直し、前へ一歩進む。そうして構える。臨戦態勢だ。
「……俺にとってはどうでもいい。お前が何を言おうと、俺がここに来た理由はただ一つだ」
その声に、人形師の気配が再び波立つ。広間の器具や魔術陣がわずかに震え、埃が舞い上がった。
仮面の奥から、乾いた声が響く。
「なら示すが良い。恐怖に呑まれ、無力だったあの日から──お前がどれほど変わったのかを」
工房の空気が、冷たく濃く満ちていく。香月の胸に残る幼少期の絶望を抉り出すかのように、影がゆらりと動いた。