14. 再会の午後、世界は牙を剥く⊕
夜は静かに更けていった。
昨夜の追撃戦の緊張が嘘のように、宿の周囲に襲撃の気配は一切なかった。石造りの古い宿は厚い壁に守られ、外界のざわめきから切り離された小さな聖域のようで、香月は久方ぶりに肩の力を抜くことができた。
ベッドに身を横たえると、疲労の重みが一気に押し寄せる。
窓の外では葡萄畑の向こうに月が浮かび、穏やかな風がカーテンを揺らしている。その静けさに包まれ、香月の意識はすぐに深い眠りへと落ちていった。
夢すら訪れない、真っ暗な安堵の眠りだった。
──そして翌朝。
宿の玄関前には、漆黒のアルファロメオが停められていた。
昨夜の追撃戦でリアガラスを失ったプジョーは跡形もなく、代わりに艶やかな新車のボディが朝日を反射している。
香月が眉をひそめた。
「……いつの間に、用意したんだ?」
じいやは帽子のつばを軽く押さえ、当然のように答える。
「夜のうちに。こちらには旧知の業者がございますので。目立つ傷物のままでは、監視の網に引っかかりやすうございますゆえ」
クレアも小さく驚く。
『……ほんとに何でもできるんだね、ルフェーブルのじいやさんって。フォード家のオウカさんも相当だけど、仕事が早い……』
老人は微笑ひとつ見せず、淡々とドアを開けた。
「職務の一環にすぎません」
三人は新しい車に乗り込み、アルファロメオは静かなエンジン音を響かせて石畳を抜け出す。街並みが徐々に遠ざかり、緑濃い葡萄畑やオリーブの木々が窓外を流れていった。
香月は後部座席に沈み込み、まだ胸の奥に残る緊張を感じながらも、割れたガラスの隙間風に怯える必要がないことにわずかに安堵した。
やがてじいやは小さく咳払いし、助手席のシャルロットに軽く視線を送ると、スマートフォンを取り出した。
微かな振動とともに、画面に文字が浮かぶ。――イタリアとフランスの協会構成員たちに、昨夜の襲撃者について調査を依頼済みの報告だった。
じいやは端末を操作しながら、低くつぶやく。
「情報が届きました。昨夜の襲撃者は禿鷲達──間違いなくイタリアのマフィアです。……何らかの依頼を受けて行動していたようです」
香月は目を細めた。
「……つまり、金で雇われて俺たちを狙ったと」
シャルロットが助手席で頷く。
「そういうことですわ。じいやの伝手で、現地の構成員からも確認が取れました。依頼主はまだ不明ですが、動きの痕跡は確かに存在するそうです」
香月は背もたれに沈み込み、頭の中で整理する。やはり、誰かが金で人を動かして俺を奪おうとしている。そして、じいやの古い伝手が確実に俺たちの支えになっている。
アルファロメオは穏やかな丘陵地帯を抜け、車窓に古びた村や葡萄畑が連なる。
じいやの端末から次々と情報が送られ、襲撃者の特徴や行動パターンも簡潔に把握できた。
香月は小さく息を吐く。
「……まずは、近くの街で状況を整理するか」
クレアが肩越しに景色を見ながら、小さく頷く。
「うん……それなら、少し落ち着けそうだね」
シャルロットもにっこり微笑み、窓の外に目を向ける。
「カステル・フィーノ……何か、面白いことが待っていそうですわね」
アルファロメオはゆっくりと町中へ進み、三人は次の行動に向けて静かに心を整え始めた。
◆
午後の石畳は、やわらかな熱を孕んでいた。
カステル・フィーノへ向かう前、三人はひと息入れるためカフェのテラスに腰を落ち着ける。パラソルの影が白いクロスに揺れ、紅茶とエスプレッソの香りが漂っていた。
香月は椅子に深く身を沈め、胸の奥に刺さった小さな棘を抱えるように息をつく。
その隣では、シャルロットがごく自然な仕草のように彼の腕へ自分の腕を絡めてきた。
「……モンシュー、今日のあなたはフィレンツェの陽光よりも眩しいわ」
「いや、太陽並みに暑苦しいだろ……」
言葉で押し返しても、巻き髪が肩をかすめ、深紅の唇が近づいてくるたびに胃の奥がきゅっと縮む。香月がやんわりと距離を取ろうとしても、シャルロットはむしろ楽しげに身を寄せてくる。
その光景を、クレアはアイスティーのストローを噛みしめながら睨んでいた。
『……バカフレンチ。暑苦しいのはお前の情熱だっての』
「まあ、嫉妬かしら? クレア」
『誰が、誰に、なんの嫉妬を? カヅキは元々ボクのだから。早く離れて』
苛立ちを隠しきれない足取りで、クレアは椅子を引き、二人の間に割り込むようにして香月を引き剥がした。
紅茶と珈琲の香りの中、火花が散るような視線が交錯する。
その傍らで香月は、ただ天を仰ぐしかなかった。
その時だった。
「……香月君?」
透き通る声に振り向くと、テラスの奥にひとりの少女が立っていた。
淡い日差しに包まれ、白を基調とした優雅なワンピースが風に揺れている。普段なら──マネージャーに止められるほどセンスの壊れたTシャツを平気で着ていた彼女なのに、今は驚くほど品のある装いだった。
白銀の髪は風に解けるように背へ流れ、陽光を受けて淡く煌めいている。
空をそのまま映したような青い瞳がこちらを見つめていた──もっとも、それはカラーコンタクトによるものだが。
その清らかな姿は、異国の石畳に舞い降りた幻を思わせた。
思わず、胸の奥で心臓が跳ねる。
「イヴ……!?」
香月が驚きの声を漏らす。少女──イヴは目を丸くし、言葉を詰まらせた。
「えっ……なんで香月君が……!? クレアちゃんも……? えっ、えっ!? ここイタリアだよね!? なんで!?」
まるでバグを起こした機械のように混乱して、両手をぱたぱたと振る。
香月は気まずそうに頬をかき、軽く首を振った。
「まあ……いろいろあってな。偶然だ。驚かせてすまない。……だけど、ここでイヴに会うとは思わなかった……」
イヴは胸に手を当て、ふうっと息を吐いた。
「……私もだよ、びっくりしたぁ。イタリアにはこの前話してた大きな案件でロケで来てるんだ。でも……会えて嬉しいよ、香月君」
そう言って、屈託のない笑顔で香月の前に立つ。距離が近い。無意識に。すごく。
「ちょ、ちょっと、近いって……イヴ?」
香月がたじろぐも、イヴは子猫のように香月の袖をちょこんと掴み、青い瞳で見上げてきた。
「ふふ。だって本当に、嬉しかったから」
──その背後で、ストローが噛み砕かれる乾いた音がした。
クレアは無言でスマホに目を落とし、心の中で呟いていた。
(……わかってる。イヴさんの性格の良さは天性のものだ。リリーシェイド・マナーでお給仕してる時を三回見れば絶対わかる。……旦那様を増やすくらい、無意識に推される人だってことは理解してる……でも……)
僅かに歯を食いしばる。
シャルロットはというと、余裕のある笑みを浮かべながらイヴを品定めするように見ている。
テラスには紅茶の香りと、三者三様の沈黙が漂っている。そこで、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「おや、少年にクレアちゃん。……まさかこんな所で顔を合わせるとは思わなかったよ」
テラスの入り口に立っていたのは、黒のゴシックドレスを纏った女性だった。
真昼のイタリアに似つかわしくない長袖のドレス、その袖口に施されたレースは、むしろ燦々と降り注ぐ陽光を受けて妖しく輝いている。彼女の普段通りの服装──もしかすると私服なのかもしれないが、イタリアでは一層違和感があった。
通りすがりの観光客がぎょっと振り返るほどの異彩を放ちながらも、本人は微塵も意に介していない。
「……陽子さん!」
香月が思わず声を上げる。
陽子はすっと歩み寄り、ドレスの裾を揺らして席に着いた。赤ワインをひとつ注文し、涼しい顔でグラスを揺らす。
「いやあ、イタリアでもやっぱり空気が違うね。郊外の小さなお店ですらワインの味に深みがあるよ……それにしても少年、元気そうで何よりだ」
『……どうしてイタリアに?』
クレアが怪訝そうに眉を寄せる。
陽子はイヴに軽く視線を送り、肩をすくめて見せた。
「名目上は、イヴちゃんの海外ロケに便乗してイタリア旅行に来たんだ。まあ、半ば護衛も兼ねてみたいなものだよ」
「えへへ……陽子さん、頼りになるから」
イヴが照れくさそうに笑う。
だが、陽子の瞳はすぐに香月へと向けられ、わずかに色を帯びる。
「念の為、ロニさんにも同行して貰ってるんだよ。彼は元々こっちの人だからね。まあ、彼の場合はイヴちゃんが心配で無理くりついてきたノリだけど……」
「でも、陽子さんの事だ。ただの海外旅行って訳じゃないだろ?」
「……もちろん、本当の理由は別にある。君が日本本部から抹殺指定を受けていると聞いてね。それでレイナちゃんから場所を聞いて、こっちに来た。黙っていられなかったんだ」
「もう知ってるのか……」
香月は思わず言葉を失い、沈黙する。
その表情を読み取るかのように、陽子は柔らかな笑みを浮かべた。
「安心しなさい。私は最後まで君の味方でいるつもりだよ。少なくとも──夜咲く花々の廷は、君を切り捨てたりはしない」
その声音は、ただの慰め以上のものを含んでいた。
香月には届かずとも、その瞳には結末を見届ける者の静けさが宿っている。まるで、これから彼が挑む相手のことを、彼女だけが正しく知っているかのように。
そして、赤ワインを一口含み、声を低める。
「もっとも……日本中部支部の方にも、君に関する調査の照会が回ってきたようだ。ジェイムズさんが上手く取り持ってくれてはいるけど、それだけで手一杯の状況らしい」
陽子はグラスを揺らし、さらに声を低めた。
「それと──もう一つ厄介な話がある。……例の動画が流出したのは知っているね?」
その一言で、香月の胸は冷水を浴びせられたように強張った。
陽子はグラスを傾け、淡々と続ける。
「『魔術協会日本本部が抹殺を望む存在』──そういう烙印だけが独り歩きしてね。君の首には、国家予算並とまで言われる額の懸賞金が懸けられた」
「な……懸賞金……?」
「そう。出所は掴めない。だが映像を見たはぐれ魔術師にとどまらない。本来なら魔術の存在すら知らぬ裏社会──マフィア、ヤクザ、賞金稼ぎ……そうした連中にまで歪んだ形で噂が流れ込み、今や水面下で狂乱のような騒ぎになっている」
小さな音を立てて、グラスの氷が砕けた。
「彼らにとって大事なのは真実じゃない。ただ──『高額の賞金首』という一点だけ。魔術師であるかどうかなんて関係ない。金のために動くには、それで十分だ」
イヴは青い瞳を大きく揺らし、口を覆った。
クレアは握るストローをきしませ、声を失っている。
香月は沈黙したまま、唇を強く噛んだ。
思い至る。襲撃者の範囲はすでに協会内部やはぐれ魔術師にとどまらない。裏社会のチンピラ、無法者、飢えた獣のような人間たち──あらゆる者が金の臭いに釣られ、牙を剥く。
──世界そのものが、敵に回りつつある。
陽子は静かに告げる。
「君の立場は最悪だ。人形師への復讐を遂げるよりも、生き延びることを優先してもおかしくはない……だから私はここに来た。結末を見届けるため……そしていざとなった時に対処する為にね」
その声音に、香月は一瞬だけ目を伏せた。
だが、次に顔を上げたときには、迷いの影は消えている。
返り討ちにできる相手は返り討ちにすればいい。
しかし問題は、その背後で糸を引く者の正体だ。日本本部の特殊部隊は恐らく小泉蒼一郎──古代魔術師の分魂体かもしれぬ男の命によるものだろう。だがそれだけではない。別の誰か、あるいは全く異なる意図……。考えるべき要素は無数にある。
だが──今は追わない。
目の前にある決戦、人形師との対峙こそが全てだ。
香月は深く息を吐き、カップを置いた。拳を軽く握りしめる。
午後の陽射しに包まれた町並みは、どこまでも平和に見える。だが彼の眼差しはこれから始まる決戦を見据え、その向こうに潜む影──人形師を射抜いていた。
「……それでも必ず、終わらせる」




