13. シチリアじゃなくてミラノの晩餐⊕
プジョーが舗装路へと戻ると、追撃車が上げていた黒煙は遠ざかり、山間の空気は嘘のように静まり返った。
香月は深く息を吐き、硬直していた肩の力をようやく解く。隣ではクレアがまだ腕にしがみつき、小さく震えていた。
「……やっと、落ち着いたな」
『うん……でも、心臓がまだドキドキしてる……』
かすかに震えるクレアの声。前方を睨んでいたシャルロットは、銀筒をゆっくりと下ろす。
「明らかに日本人ではありませんでしたわね。あれは民間軍事会社……いえ、マフィアかもしれませんわ。いずれにせよ、金で雇われた者たちですわね」
運転席のじいやが、淡々とした声で言葉を継いだ。
「……私の古い伝手を頼りましょう。協会にいた頃の繋がりなら、裏の動きも多少は掴めます」
香月は目を細め、思わず問いかける。
「協会にいた頃……? じいや、あんた……何者なんだ?」
バックミラーに映るじいやは、表情を動かさぬまま視線を前に戻すだけだった。
沈黙を埋めるように、シャルロットが小さく付け加える。
「……かつて総本部の奇跡管理部にいた、と耳にしたことはありますわ。けれど、それ以上は分かりませんの。じいやは、決して多くを語ろうとはなさらないのですもの」
クレアが驚いたように目を丸くする。
『……ただの執事ってわけじゃないんだね』
じいやはハンドルを握る手を緩めず、何も答えなかった。
香月は言葉を失い、胸の奥に妙なざわめきを抱える。日本本部長の勅令が国外にまで及ぶのか──。いや、それ以上に、無関係な一般人すら巻き込み始めたとなれば、いよいよ手段を選ばなくなる。最悪、今は味方でいてくれるシャルロットたちでさえ、いつ敵に回るか分からない。
流れる街灯をぼんやりと眺めながら、香月は低く呟いた。
「……なりふり構わなくなってきたような印象だな。もう、金も国籍も超えて、誰でも使って俺を奪おうとしている……のか」
遠くにミラノの街明かりが見え始める。石畳をタイヤが踏む感触が伝わる頃には、張り詰めていた緊張の糸も、ようやくわずかに緩んでいった。
香月は前方に目を向けながら、声にならぬ思考を巡らせる。
──魔術協会に籍を置き続けるのも、そろそろ限界かもしれない。
元々は人形師の手掛かりを得るために奇跡管理部に加わった。だが最悪の場合、自分の道は、自分で切り開くしかない……。
「……イタリア、か」
呟きには、安堵と、拭えぬ緊張が入り混じっていた。
◆
プジョーはミラノ市街に入り、石畳の通りをゆっくりと進む。街灯に照らされた建物の壁面がオレンジ色に輝き、夕暮れの名残が通りに長い影を落としていた。遠くに街教会堂の尖塔が浮かび、街全体に穏やかな空気が漂う。
香月は窓の外を眺めながら、まだ鼓動の余韻を感じつつも、少しだけ緊張が解けていくのを覚えた。クレアも呼吸を整え、肩に力を戻している。
「……ここまで来れば、少しは安心できそうだな」
香月が小さく呟く。
シャルロットは助手席で静かに頷き、じいやは無言でハンドルを握り続ける。街の喧騒は追撃戦の恐怖を完全に払うには至らないが、少なくとも一夜の安息を与えてくれそうだった。
やがて車は郊外のホテルに到着する。香月は深く息を吐き、荷物を抱えたクレアを引き寄せた。
「今日はここで休む事にしよう。カステル・フィーノへ向かうのは明日の朝だ」
『……うん……』
クレアは小さく頷く。
荷物を置いて一息ついた頃、シャルロットがにこやかに笑った。
「せっかくイタリアに来たのですもの。腹ごしらえをしておくのも悪くありませんわ。ミラノには美味しいものがたくさんありますのよ」
香月は眉をひそめる。
「……戦闘直後だぞ。落ち着いてからの方が……。それにお前、横浜の時も同じこと言ってなかったか?」
シャルロットは片眉を上げ、悪戯っぽく微笑む。
「あら、覚えていらっしゃいましたのね。でも、こういう時こそ美味しいものを口にして心と体を満たすのが肝心ですわ」
クレアが小さく肩をすくめてクスリと笑う。
『……ほんと、シャルロットって食べるの好きだよね』
「当然ですわ。美味しいものの前では、私も戦士ですもの」
シャルロットが通りの先を指差す。
「あそこのリストランテ、評判ですのよ。黒トリュフのリゾットが絶品だとか。香月さまも、ひと口いかが?」
香月は窓の外を眺め、ため息をひとつ。
「……まあ、付き合うか。今日は休息日だ」
じいやは無言で頷き、三人は石畳の通りを歩いてリストランテへ向かった。漂う香ばしい匂いと街灯の温かな明かりが、戦闘で硬くなった体を少しずつほぐしていった。
リストランテの扉を開けると、柔らかな間接照明が店内を黄金色に染め、木製のテーブルと椅子が温かみを添えていた。壁にはヴィンテージワインや地元画家の油彩が並び、フレッシュバジルとオリーブオイル、熟れたトマトの香りが鼻をくすぐる。
「ふふっ……ここなら落ち着いて食事ができますわね」
シャルロットは瞳を輝かせて腰を下ろす。香月も席につき、ようやく肩の力を抜いた。
「……こうして座ると、やっと戦闘のことを忘れられそうだな」
メニューを覗き込んでいたクレアがくすっと笑った。
『でもさ、シャルロット。もうやる気満々だよね。フードファイターっていうか……グルメ戦士?』
「ええ、戦士ですわ。美味しいもののために戦う戦士、ですもの」
「……それ、ただの食いしん坊じゃないか」
香月が苦笑すると、シャルロットは胸を張った。
「戦士であり、食通でもありますの。あ、ウェイターさん、注文をお願いしますわ。まずは──カプレーゼに子牛のカルパッチョ、黒トリュフのリゾット、それから子牛のカツレツを──」
『ちょ、待って!』クレアが慌ててツッコむ。『それ、完全にフードファイトの量だろ! このフレンチ食いしん坊!』
シャルロットはきょとんと瞬きをし、すぐに得意げでもなんでもなく、ごく自然な口調で答えた。
「美味しいものは順序立てて、フルコースでいただくもの。それが食の礼儀というものではなくて?」
『いやいやいや! ここフランスじゃないから!』クレアは両手を広げて呆れ、ぼそりと呟いた。『……ま、でも。魔術師だから食べた分だけ魔力補給になるのかもしれないけどさ……』
「ふふ、勿論わたくし一人で平らげるつもりではございませんわ。ご一緒に、シェアいたしましょう」
香月は二人の会話に苦笑しながら窓の外に視線を逸らす。
──戦闘の緊張を忘れられるのは、こういう掛け合いのおかげかもしれない。
やがて前菜が運ばれる。白い皿には鮮やかなトマトとモッツァレラが並び、定番のカプレーゼが彩りよく姿を見せる。
一方のカルパッチョは、薄くスライスされた子牛のロース肉。爽やかなレモンの香りがふわりと漂い、ルッコラの鮮やかな緑と削りたてのパルミジャーノが軽やかなアクセントを添えていた。オリーブオイルが表面で光を反射し、皿全体をきらめかせる。
日本で馴染みのある魚介のカルパッチョとは異なり、ここでは子牛肉を使うのが伝統的なスタイルなのだという。
「ほら、ご覧なさい。もう幸せの香りですわ」
シャルロットは頬をほころばせ、ナイフを手に取る。
続いて銀のトレイに載せられた黒トリュフのリゾットが現れる。芳醇な香りが立ち上り、香月の手も自然と動いた。
ひと口含むと、濃厚な旨味が舌に広がる。
「……うまい……」
思わず香月は目を細める。
クレアもリゾットを口にして、小さく息を漏らした。
『やっぱり、戦闘後の栄養補給は大事かもしれない……』
そしてシャルロットを横目で見て苦笑した。
『……でも、このフレンチ食いしん坊の胃袋についていけるかは、ちょっと自信ないけど』
「心配無用ですわ。魔術師ならこのくらい、朝飯前ですもの」
「まあ、そりゃ……夕食だからな」
香月のぼやきに、クレアはぷっと吹き出す。戦場で固くなっていた心が、料理と掛け合いに少しずつほどけていく。
そして前菜とリゾットを楽しみ終えた頃、銀のトレイに載せられた最後のメインディッシュ──子牛のカツレツ《コトレット・アラ・ミラネーゼ》が運ばれてきた。黄金色に揚げられた衣はパリッと香ばしく、薄く叩かれた肉はふわりと柔らかい。
「さて、次はメインですわ」
シャルロットは目を輝かせ、ナイフとフォークを手に取る。香月がちらりと横目で見て、小さく息をつく。
「……やっぱり全部一人で平らげる気なんじゃないのか……」
「いただきますわ」
シャルロットがカツレツにナイフを入れると、カリッとした音と共に肉汁が溢れ出した。その上にレモンを絞り、脂の味を爽やかに引き締める。
「うまそうだな……」
香月も思わず小さく感嘆の声を漏らした。クレアはナイフを手に取り、一切れ貰うと慎重に一口頬張る。
『……うん、これは確かに戦闘後の栄養補給にぴったり……』
「見てくださいな、二人とも。この完璧な揚がり具合」
シャルロットは皿の上を几帳面に眺め、ひと口ずつ丁寧に食べ進める。その姿はまさにグルメ戦士そのものだ。
香月は苦笑しつつ、ついフォークを手に取って一口味見してしまう。
「美味いな……」
再びもう一切れを口に運ぶ。
衣の香ばしさと子牛肉の柔らかさ、そこにレモンの酸味が重なって口いっぱいに広がった。
(……この時間も、いつか失うのかもしれない)
不意に胸をかすめた予感に、香月は小さく息をつく。
隣ではクレアが笑みを浮かべ、シャルロットは満足げに皿を見つめている。
──それでも今だけは、確かに平穏だった。
三人はしばし無言のまま、カツレツの美味しさを味わった。やがてシャルロットは最後の一口を頬張り、満ち足りたようにため息をついた。
「ふふ……この充足感。やはりこれこそが戦士としての任務を果たした証ですわ」
香月とクレアは顔を見合わせて笑う。テーブルには安堵の空気が満ち、香ばしいカツレツの余韻がまだ漂っていた。
そして最後に、ウェイターがティラミスを三皿運んでくる。
ふんわりとしたマスカルポーネとエスプレッソの香りが立ちのぼり、甘やかな空気がテーブルを包んだ。
「お待ちしておりましたわ……!」
シャルロットは目を輝かせ、三皿すべてを自分の前へとずずいと引き寄せる。
「おいおい、待て! 三人分だろ!?」
思わず香月が声を上げた。
「いいえ。ティラミスとは『tirami』『su』──すなわち『私を元気づけて』という意味。ですからこれは、ぜんぶわたくしのものなのですわ」
呆れるほど当然の顔で言い切る。その瞬間、クレアの視線が鋭く香月を射抜いた。
『……ねえカヅキ、知ってる? ティラミスって、夜に女性が注文すると──『今夜どうですか?』って意味になるらしいよ?』
ぞくり、と胸の奥が波立つ。
まさかシャルロット、分かっていて……?
いや、彼女ならやりかねない。しかも三皿だ。もしそうなら、これ以上ない特大のアピールだ。
だが、どう反応すればいいのか分からない。
「そ、そういうのは……よしてくれ」
声はぎこちなくも真剣だった。
シャルロットの瞳が一瞬だけ揺れる──少しだけ残念そうな様子を見せるがすぐに、楽しげな光に戻る。
「あら? うふふ……そんな意図はありませんでしたけれど。でも、カヅキはもっと素直にわたくしを求めてもよろしいのですのよ?」
小さく冗談めかして告げると、彼女はすぐにスプーンを手に取り、幸せそうにティラミスを口へ運ぶ。
その満ち足りた笑みは、さっきのやり取りなどもうどうでもいいかのようだった。
その様子に香月は思わず苦笑した。隣でクレアが目を細めてちらりと彼を盗み見る。
『……カヅキ。もちろんちゃんと断るんだよね? もし流されたら絶対許さないから』
釘を刺すような声だ。だが当の本人は、目の前のティラミスにすっかり夢中だった。──その無邪気で美味しそうな食べっぷりを見ていると、不思議と心の緊張が解けていく。
香月は小さく息をつき、クレアと視線を合わせた。クレアもまた、少し微笑んでうなずく。シャルロットの食の楽しみ方は、それを見ている二人の心をほどくには十分だった。
香月はそっとウェイターを呼び止めた。
「……ティラミス、追加で」
『ボクも……同じので』
その瞬間、張りつめていた空気は完全に解け、テーブルには甘い香りと静かな安堵だけが残った。