12.とうもろこし畑でつかまえて
「日本本部から刺客? カヅキが抹殺指定ですって? ……何かの間違いではなくて?」
プジョー308の後部座席。車はルフェーブル邸から陸路でイタリアのミラノへと向かっている。
香月は中央に座り、思わず肩をすくめた。左にはクレア、右にはシャルロット。この車の後部座席は少し狭い。前夜から続くやわらか包囲網は何ひとつ解けず、密閉されたラグジュアリーな車内で、二人の体温が押し寄せてくる。
──やはり、距離が近い。近過ぎる。
「……いや、本当らしい。理由はまだ俺にもはっきりしないんだ」
声が自然と小さくなる。両脇との距離が近すぎて、囁くようにしか話せなかった。
クレアは香月の左腕にかすかに寄りかかり、無意識に抱き枕のように体を預けていた。頬はほんのりと赤く、微かな温もりが直に伝わる。香月は反射的に視線を逸らすが、その瞬間、右側からシャルロットの鋭い眼差しが突き刺さる。
「フランス本部にはまだ何の通達も届いておりませんわ。……日本本部の独断? それとも、裏で誰かが糸を引いているのかもしれませんわね」
軽く肩をすくめながらも、シャルロットの瞳には警戒心と好奇心、さらに悪戯心が入り混じっていた。昨夜と同じように、わざと距離を詰めて寄りかかってくる。
眉間に皺を寄せながら、香月は二人の視線を交互に受け止める。
「……一応、解析魔術で刺客の記憶を盗み見た。神の檻でオル・カディスを倒したときの映像が、魔術系のダークウェブに流出したらしい。それで俺の存在を察知した古代魔術師の分魂体が、俺の肉体を狙っている……そう推測している。でも確証はない。それに、問題は俺だけじゃない」
そう告げてから、香月は深く息を吐き、視線を窓の外へと逃がした。
シャルロットの眉がわずかにひそめられる。
「どういう意味、ですの?」
「魔術協会の内部に、禁忌を平然と犯す魔術師が紛れ込んでいる可能性がある。……しかも、それは日本本部長かもしれない」
声は低いが、言葉には揺るぎのない真剣さが滲んでいた。シャルロットの瞳が一瞬鋭さを帯び、驚きと警戒を隠さずに香月を見据える。
「|他人との肉体の入れ替え《ボディ・スナッチ》は、発覚すれば即抹殺指定の重罪。……日本本部長がそんな禁忌を? ありえませんわ……」
「表向きは隠し通されるだろうな。だから危険は俺たちにだけ降りかかる。抹殺指定も、規律違反の摘発に見せかけられて。実際は、自分の意志を通すための工作にすぎない」
その言葉には冷たい確信が含まれていた。
ラグジュアリーな後部座席に、重苦しい沈黙が降りる。体の距離は変わらないのに、心の緊張だけがじわじわと増していく。
シャルロットは小さく息を吐き、険しい表情で呟いた。
「……そんな人物が協会の中枢に潜んでいるだなんて。断じて許されませんわ」
「いや、エドワード──俺の義父の件もある。義父はいつの間にか身体を奪われていた。日本本部長も肉体を奪われている可能性が高い。……魔術協会に、他人の肉体を奪って永遠を生き延びている古代魔術師が何人いたとしても不思議じゃない。それを知っているのは──日本中部支部のジェイムズと俺、それにごく一部だけだ」
言葉は窓の外の風にかき消されそうに小さかった。だが、そこに宿る冷たさは確かに胸を刺した。狭い車内に、見えない波紋のような沈黙が広がっていく。
その静けさを破ったのは、クレアの細い手だった。そっと香月の腕に添えられる。柔らかな温もりが心臓に届いた瞬間、落ち着くどころか、逆に不安の鼓動を強めてしまう。
『……カヅキ……』
胸中で揺れるざわめき。恐怖、心配、そして言葉にならない感情の影。けれど今は声にできない。むしろ豪奢な車内の静けさが、三人の間に漂う緊張をいや増していた。
「……もし俺が日本本部の特殊部隊に処理されるとしたら、表向きは『事故』や『不測の事件』に偽装される」
香月は前方の窓を見据えながら呟く。だが心の奥では、最悪の可能性が次々と形を取り始めていた。
「俺に何が起ころうと──日本本部長の影響下では、真実を知る者は誰もいないだろうな」
言葉を落とした瞬間、車内の空気はさらに重く沈む。シャルロットは無言のまま唇を噛み、視線を窓の外へ投げた。その横顔に刻まれた緊張が、事態の異常さを雄弁に物語っている。
三人はただ呼吸を合わせるように黙って座り、流れゆく外の景色を見つめ続けた。平穏な風景の裏に、いつ崩れ落ちてもおかしくない緊張の糸が張り巡らされていることを、それぞれが痛いほど理解していた。
エンジン音のリズムだけが、車内の沈黙を支えていた。
不自然なほど一定で、かえって不安を煽る。
その時だった。
前方のフロントガラス越しに、白い光が一瞬走った。
次の瞬間、車体が大きく揺れる。タイヤがアスファルトをきしませ、全員がシートに押し付けられた。
「っ……何!?」
クレアが短く叫ぶ。
プジョーは急ブレーキをかけ、山間の細い道路の真ん中で停止した。窓の外には並木が連なり、人気はまるでない。
だが、道路の先を塞ぐように黒いバンが停まっていた。
運転手が振り返ることなく低く告げる。
「……申し訳ありません、お嬢様。少々、予定外の検問のようです」
その声は妙に平板で、感情がこもっていない。香月の背筋に冷たい感覚が走った。
「検問? こんな場所でですの?」
シャルロットの眉が鋭く吊り上がる。
黒いバンのドアが静かに開き、全身を黒いスーツで固めた男たちが数人、ぞろぞろと降りてきた。一見すればマフィアか何かにも見える。サングラス、無表情。だが、腰には明らかに軍規格の銃器を下げている。
クレアが香月の腕を強く握りしめる。
『カヅキ……これ……』
「……ああ。待ち伏せだ。もう嗅ぎつけて来たのか」
香月の声は低く、しかしはっきりと響いた。
彼の脳裏に浮かんだのは──ほんの数分前に口にした言葉だ。
『もし俺が日本本部の特殊部隊に処理されるとしたら、表向きは事故か事件に偽装される』
まさに、その予告が現実になろうとしていた。
黒いバンの男たちがゆっくりと車に近づく中、シャルロットは眉間の皺を緩めず、低く落ち着いた声で運転手に呼びかけた。
「じいや、出して」
じいやは小さく頷き、静かに両手をハンドルに戻す。
その動作だけで、後部座席の香月とクレアの胸に微かな安心感と緊張が同時に走る。
突如、プジョーのエンジンが低く唸りを上げ、車体が軽く左右に揺れる。
シャルロットの声が続く。
「一気に行きますわよ! ぶつからないように、振り切るのですわ!」
じいやの巧みなハンドル捌きで、プジョーは一瞬にして道路の中央から側道へと移る。黒いバンの男たちが追いかけてくるのを確認し、じいやはアクセルを荒々しく踏み込む。
木立を縫うようにして、プジョーが左へ、右へと振られる。タイヤが小石を蹴り上げ、車体がしなやかにカーブを描く。香月はしっかりとシートベルトを握り、クレアは腕を抱え込みながら、じいやの運転に身を任せた。
シャルロットは後ろをチラリと見て、冷静に状況を分析しながら声をかける。
「カヅキ、左の窓からの視界を意識して! 奴らの動きが見えますわ」
「わかった……」
香月は息を整え、窓越しに追撃車両の位置を確認する。
黒いバンが追いすがる。車間距離は縮まり、彼らのシルエットがギラリと光る。
だが、じいやの巧みなハンドルさばきは一瞬も乱れない。道路の段差を巧みに利用し、曲がりくねった山道で絶妙にスピードを緩急させながら、三人を追撃者の視界から何度も消す。
香月は咄嗟に頭をひねり、助手席側のサイドミラーに映る追手の動きを読み取る。
クレアの小さな手が彼の腕に触れ、不安げな視線を送りながらも、どこか期待を含んだ目が光る。
香月は心の奥で毒づく。
(人形師まであとわずかだってのに……何でこんなところで)
プジョーはじいやの指示通り、さらに加速し、黒いバンを振り切るために山道を駆け抜けていった。
窓外の景色が流れ、風と埃の匂いが入り混じる。後部座席の三人は、緊張と興奮の中で、互いの存在を強く意識していた。
プジョーは猛然と加速した。
じいやの両腕が滑るようにハンドルを操り、山道の急カーブをまるで舞うようにすり抜ける。車体が横に流れ、窓の外で並木が一瞬ごとに視界を裂いた。
『きゃっ!』
クレアが悲鳴を上げ、香月の腕にしがみつく。
背後では、黒いバンがタイヤを焼きながら猛追してくる。
助手席の窓から銃口が突き出され──次の瞬間、乾いた銃声が轟く。
「伏せろ!」
香月が叫ぶと同時に、後部ガラスに弾痕が走る。ラグジュアリーな車内にガラス片が飛び散り、クレアが目を閉じて震えた。
「くっ……連中、ただの追手じゃありませんわね」
シャルロットが歯噛みする。
プジョーは急ハンドルで横にスライドし、山道脇の斜面をギリギリでかわす。すぐ後ろのバンは間に合わず、岩壁に接触──火花を散らしながらも無理やり食いついてきた。
さらに、後方から二台目、三台目が現れる。
「囲まれた!?」
前方の一本道に、新手のSUVが横滑りで飛び出す。塞がれる進路。
じいやはまったく動じず、冷静に声を落とした。
「お嬢様、衝撃に備えてください」
その瞬間、プジョーはアクセルを限界まで踏み込み、正面のSUVに突っ込む。
「ちょっ、正面衝突!?」
香月の叫びをかき消すように、じいやがギアを切り替える。
直前で急ハンドル。プジョーは斜面側のガードレールを擦り上げるようにして傾き、まるでスキーのジャンプ台を跳ねるかのように宙へ飛び出した。
「う、嘘だろ!?」
後部座席の三人はシートに押し付けられ、世界がスローモーションに変わる。SUVの屋根すれすれを飛び越え、反対側の路面に着地──サスペンションが悲鳴を上げるが、車体はしっかりと耐えた。
「じいや、アンタすげえな!」
香月が叫ぶより早く、背後でSUVとバンが激突。爆発が山道を赤く照らし、炎が夜空を焦がす。じいやが後部座席の香月に親指を立てて返す。
だが安心する間もなく、残った追撃車が迫った。
片方はマシンガンを乱射、もう片方はロケットランチャーを構えていた。
閃光と轟音。
背後で炎が弾け、熱気が車内にまで流れ込む。だが、追撃は終わらない。
「マシンガンと……ロケットランチャーまで!?」
香月が歯噛みする。
シャルロットはすでに銀の筒を取り出し、窓越しに前方を射抜くように目を細めていた。
「……ならば、こちらも本気を出すしかありませんわね」
低く囁く。
「Rempart《防壁》」
銀筒から広がった光が、車全体を包むように展開。透明な膜が幾重にも重なり、弾丸を雨のように弾き返した。
無数の火花が車体の周囲で散り、魔術と鉛弾が拮抗する。
「やるな、シャルロット……! でもロケットは!?」
香月の問いに、シャルロットは微笑を浮かべながら別の魔術銃を抜いた。
銃口が青白く輝く。
「Balle de glace《氷弾》」
厳かに呟き、引き金を弾く。氷の弾丸が夜気を裂き、追撃SUVのフロントへ命中。瞬時に凍りついたエンジンが爆ぜ、車体は制御を失ってスピン、斜面へと叩きつけられた。
『一台撃破!』
クレアが声を上げるが、残るもう一台の肩から、黒光りする筒が持ち上がる。
「ロケットが来るぞ!」
香月の叫びと同時に、閃光が走った。
ミサイルが尾を引き、一直線にプジョーへ迫る。
じいやは咄嗟に急ハンドルを切り、山道をかすめるようにドリフト。だが狭い道では完全に避けきれない。
「シャルロット!」
「心得ておりますわ!」
彼女の瞳が鋭く光り、銀筒を掲げる。
「Brise《砕け》!」
結界が一点集中し、ロケットの弾頭と正面衝突。轟音と共に爆炎が夜空を裂き、衝撃波がプジョーを持ち上げた。
「くっ……!」
香月とクレアがシートに叩きつけられる。
だが、車体は無傷のまま着地。サスペンションが悲鳴を上げるも、じいやは寸分違わぬハンドル捌きで立て直した。
「お見事ですわ、じいや」
シャルロットが満足げに笑う。
背後では最後のSUVが、爆煙に突っ込みながら必死に食らいついてくる。
その姿をミラー越しに見据え、香月は奥歯を噛みしめた。
『……撒けた?』
クレアが小さく息をつく。だが香月はまだ窓の外を睨んでいた。
「いや……」
言葉と同時に、新たなエンジン音が背後から迫る。安堵が砕け、再び緊張が車内を支配した。
「まだ終わってない」
黒煙が背後に遠ざかる。だが、安心する間もなく、さらに二台の黒いSUVが影のように迫ってきていた。
「……しつこいな」
香月が窓越しに振り返る。
シャルロットが即座に指示を飛ばす。
「じいや、次の右を──畑の中に突っ込みますわ!」
「……御意」
ハンドルが切られ、プジョーは舗装路から一気に外れた。車体が跳ね、草の匂いが一気に車内に流れ込む。黄金色のとうもろこし畑へと突入したのだ。
四方を背の高い茎が覆い、視界は完全に閉ざされる。
『これじゃ……!』
クレアが息を呑む。
だが、じいやの運転は揺らがなかった。畝を縫うようにハンドルを操り、スピードを保ったまま突き進む。
黒いSUVたちは前方を奪われたまま、焦りに任せて強引に畑へ突入してきた。とうもろこしの茎を薙ぎ倒し、泥を蹴り上げながら迫る──。
「──Sonic Blast」
クレアの音波が畑全体を震わせ、茎葉が一斉にざわめいた。粒の詰まった実が破裂し、弾丸のように飛び散ってSUVのフロントを叩く。乱反射する衝撃音が、視界も聴覚もかき乱した。
「Éclat de glace《氷牙》!」
続けざまに、シャルロットの魔術銃が青白い閃光を放つ。鋭い氷柱が地面から突き出し、とうもろこしの葉を巻き込みながら凍りつかせた。SUVの一台が避けきれず、バンパーをひしゃげて横滑りする。
「──Energy Storm《魔力劫嵐》!」
香月が腕を振り下ろすと、稲光のような魔力の帯が畑を切り裂いた。閃光はSUVのフロントを貫き、爆ぜる火花が闇を昼のように照らす。制御を失った車体が茎の壁に突っ込み、横転した瞬間──轟音とともに火柱が立ち上がった。
残る一台も爆炎に怯み、急ハンドルを切った拍子に畝に足を取られた。重たい金属音を響かせながら、無様に転覆していく。
畑に残ったのは、焼け焦げた茎と、まだ立ちのぼる黒煙だけだった。
プジョーだけが、黄金の迷路を突き抜けるように一直線に走り抜け、やがて再び舗装路へと飛び出した。
背後には、とうもろこしの穂をなぎ倒した跡と、黒煙を上げるSUVの残骸だけが残されていた。
シャルロットは満足げに小さく笑い、魔術銃を下ろす。
「野暮かと思いましたが……畑に突っ込むのは良い作戦でしたわね」
クレアは香月の腕にぎゅっとしがみついたまま、小さく息を吐く。
『……もう、心臓が止まるかと思った……』
香月は深呼吸しながら、遠ざかる煙を見やり、静かに答える。
「だが、これでしばらくは追いつかれない」
とうもろこし畑の匂いを残した風が、まだ震える後部座席を撫でていた。