11.シャルロット・ルフェーブルは企んでいるⅡ
夜のルフェーブル邸は、まるで美術館のような静けさに包まれていた。
客室の窓の外では、整えられた庭園が月明かりを浴び、白銀の輪郭をそっと描いている。
香月はベッドに仰向けになったまま、天井を見つめていた。
体は疲れているはずなのに、意識だけが妙に冴えていた。
──カステル・フィーノ。
イタリア北部、アルプスの麓にある、地図にも載らないほどの寒村。
石造りの館が一つ、深い森の中に静かに沈んでいる。
まるで時間そのものから切り離されたような、静謐な場所だった。
香月がそこを本命と判断したのは、ある伝言がきっかけだった。
(──「心当たりを尋ねるといい。俺の本体がそこで待っている」)
陽子を介して、人形師が残した言葉だ。
その手がかりをもとに、心当たりを探った結果──浮かび上がったのが、麗奈だった。
彼女は言っていた。ディヴィッドの元にいた頃、何度か人形師に会ったことがあると。
そして、その最初の場所が──カステル・フィーノだった。
香月はテーブルの上のスマートフォンを手に取り、Circuit of Wisdom──魔術協会の構成員用データベースを呼び出す。シャルロットの閲覧資格でアクセスできる館の航空写真を呼び出した。端末は彼女から借りた物だ。
かつて人形師が工房として使っていた場所のひとつであり、フランス本部の調査局が本格的に行方を追っているのがわかるほど、関連データは充実していた。
だが、その構造にはどこか人工的な歪さがあった。まるで、見せるために組み上げられた舞台装置のように。
(……わざと、この場所に記憶を結びつけたのか……? 麗奈の記憶の中に、あえて残るように……)
まるで「答えは最初からここにある」と告げるかのように。麗奈の過去に座標を遺し、自分の足をそこへ向かわせるために。
それに、彼女が教えてくれた造形魔術や機巧魔術の基礎もそうだ。それらの技術も、突き詰めれば人形師の技術なのだ。
(……導かれてるのは、こっちの方か。この館へ)
香月は眉間を指で押さえる。
人形師が「待っている」と明言した以上、選択肢はなかった。
そこに、何があるのか──答えは、カステル・フィーノにある。そして、自分が魔術師となった理由──人形師への復讐もあの地で決着を迎えるはずだ。
(奴は、待っているんだ。……あの館で)
視線をスマートフォンに落とす。
苔むした石壁、崩れかけた門扉。だがその奥に、不自然なほど新しい窓枠が一つ。
まるで、再び誰かを迎え入れるために整えられたかのように。
香月はそっとまぶたを閉じた。
あの館に踏み込めば、必ず何かの引き金が引かれるだろう。
だが、そこへ行かねば何も始まらず──そして何も終わらない。
復讐の時は、もう目前に迫っている。
深く息を吐いた、そのとき──
コン、コン──。
控えめなノックの音が、静寂を破った。
「……どうぞ」
応じると、扉が静かに開かれた。
現れたのはルフェーブル家の専属メイドだった。名前は確か、エクレール。香月より少し年上のフランス人だ。スラリとした体躯に、無表情な整った顔立ち。動きに一切の無駄がない。
彼女は銀のトレイを片手に持っていた。
その上には、グラスに注がれた冷たいミントティーのポットとカップのセットがひとつ。
その隣には新品のボックスティッシュ。そして──その下には、丁寧に畳まれた男性用の下着が何故かあった。
視線が順に辿り着いたところで、香月は三秒ほど沈黙し、ゆっくりと目を細めた。
「……いや、えーと。その、これは……?」
メイドは落ち着いた声音で、淡々と答えた。
「本日、かなりお疲れのご様子でしたので。火照ったお身体を冷ますためのミントティーを。あとは、リラックスのために、必要になられるかもしれない物を、いくつか」
「……ティッシュと、下着が?」
「はい、念のためでございます。お嬢様からのご指示です」
ルフェーブル家にお嬢様は一人しかいない。あの亜麻色の髪の──いや、もう分かってる。認めたくはないが。どんな気遣いだよ。それにしても下世話だ。
メイドは一拍の間を置き、変わらぬ落ち着きで口を開いた。
「──それと、お嬢様より、お言葉を預かっております」
「……言葉?」
「『カヅキには特別なおもてなしを用意しているので、どうぞ楽しみに部屋で待っていてくださいまし♡』──とのことです」
語尾のハートマークだけが、空間にぽつねんと浮いていた。
香月は額を押さえ、重く息を吐く。
「……なあ。わざわざ……その、シャルロットの言い方まで再現しなくていいから……」
「いえ。ご伝言は、正確にお伝えするよう指示を受けておりますので」
その感情の起伏を一切感じさせない声音が、逆に妙な誠実さと信頼感をにじませる。
だからこそ、余計に恥ずかしい。
「……ほんと、何考えてんだか……」
まあ、サロンでの件は……いろいろ……あったけれども。
「……っていうか、俺、なんで……その……処理するのが前提みたいな扱いされてんだ……」
「私には分かりかねますが──お嬢様は『サロンでの出来事がございましたので、カヅキは興奮の熱がまだ冷めておりませんわ』、あるいは『わたくしがカヅキの部屋に行ったら、もう絶対どうにかなってしまうかもしれませんし』とも仰っておりました」
「もう絶対って……」
脳裏に浮かんだ絵面を即座に消し去るべく、香月は顔を両手で覆った。
「……まあ、その、ありがたく……受け取っておくよ」
メイドは静かに一礼し、銀のトレイを差し出す。
所作の一つ一つが、完璧なまでに磨かれていた。
扉が静かに閉まったあと、香月はしばらくの間、ティッシュと下着をじっと見つめたまま動かなかった。あのエクレールというメイドの淡々と業務をこなす姿の奥に微かに楽しみを滲ませているのが、香月には分かっていた。でなければ、こんな変な差し入れをするはずがない。
それにしても──
(シャルロットのやつ、いったい何を企んでいる──?)
そんな考えを巡らせてみるが、やがて無言のままミントティーに口をつけた。
清涼な香りが喉を通る。だが、その後にわずかな甘苦さが舌の奥に残る気がした。
──妙だ。香りはいいのに、やけに喉が温まる。
その温もりは、心地よさというよりも、じわじわと全身を包み込むような重さを伴っていた。
(……落ち着け。誰も来るな。絶対に誰も来るな)
そう祈りながらも、まぶたの裏が微かに霞みはじめる。
香月はそっとティッシュをテーブルに置いた。だが、その願いが最初から効力を持たない気配が、胸の奥でゆっくりと膨らんでいく。
そして、その膨らみと一緒に、眠気もまた形を持ち始めていた。
──それが、実に腹立たしかった。
ふと、トレイの上に置かれたメモを取り上げる。
『お着替えされた下着はランドリーバスケットへ入れてください。匿名での洗濯対応可能です♡ もしもの時の為にベッドのサイドテーブルにご準備してある品がございます』
最後の一文に目が止まる。
(……何をどうもしもする気なんだ)
半信半疑でサイドテーブルの引き出しを開く。
中には、タオル、アルコールスプレー、紙ナプキン、ハンドクリーム、アロマオイル、そして……銀色のパッケージが三種類。あのゴム製品だ。用途は言わずともわかる。緊急時には水筒の代わりになるって昔読んだラノベに書いてあった。少なくとも今はその用途の為に用意されてる訳じゃないだろうが──
(……準備が良すぎるにも程があるだろ)
引き出しを閉め、深く息を吐く。
だが、吐き出した空気はどこか重く、肺の奥に残ったミントの香りが、眠気をさらに濃くしていく。
──そのとき、暖炉のあたりで「コトリ」と音がした。
振り向くと、灰受け口がわずかに開いたように見えた。気のせいかもしれない。
何かが動いた気配はあったが、確かめる気力がもう湧かない。
ベッドに横たわると、昼間から張り詰めていた神経が急速に緩んでいく。
東京駅での追跡、日本本部の刺客との立ち回り──逃げ続けた末に辿り着いた場所だ。
だが、それ以上に、血の巡りが鈍くなるような、抗いがたい眠気が全身を沈めていく。ミントティーに何か盛られたのだろうか。
(……この眠気……まさか……あいつ……)
カモミールの香りが鼻をかすめ、暖炉のぬくもりが意識の端を曇らせる。
抵抗しようとする意思よりも早く、まぶたが落ちた。そして、闇に沈んだ。
◆
──朝。
目を開けた香月は、まず右腕にかかる異様な重みに気づいた。
視線を下ろすと──パジャマ姿のクレアが、彼の腕ごと抱き込み、胸元にぎゅっと押し当てて眠っていた。
乱れた金髪にかかる寝汗、熱を帯びた吐息が頬に触れる。布地越しに伝わる体温と柔らかさがやけに意識を乱す。
(……なんだこれ……なんでクレアが俺のベッドに……)
混乱を抑えきれず、香月は反対側へ視線を動かした。
そこには──シーツで簀巻きにされ、口元だけ出してふてくされた顔のシャルロットが転がっていた。
「……おはようございますわ、カヅキ」
「おはよう、じゃねぇよ……。どういう状況だよこれは……」
その光景を見て、ようやく腑に落ちる。
(……なるほどな。クレアがシャルロットの夜這いを阻止しようとして……こうなった可能性があるな……)
だがやっぱり口外なんてできない状況だ。外で話せば即刻通報案件であることは明らかだった。
しかもよりによって、シャルロットは簀巻き、クレアはまるでシャルロットに見せつけるように自分を抱き枕にしてくる──。
(これ絶対クレアがシャルロットに対抗心燃やした結果だろ。対抗心って……そういう方向に使うもんなのか……?)
香月は心底うんざりして天井を仰いだ。
その瞬間、簀巻き状態のシャルロットが器用にじたばたと身をよじる。
「カヅキ、早く解いてくださいまし! このままでは血が止まりますわ!」
「知らん! まずはシャルロットがどうしてこうなったのか説明しろよ! 本当にもう!」
すると、クレアが香月の腕に頬を押しつけたまま、夢の中でうわごとのように囁いた。
「……ダメ……解いたら……また変なことするから……」
(やっぱりクレアが簀巻きにしたんだな……。ていうか、どうやってシャルロットをこんなに綺麗に巻いたんだ……)
香月は頭を抱えた。
おかしいのは状況そのものじゃない。おかしいのは、自分以外の全員がそれを当たり前のように受け入れていることだ。シャルロットの夜這い、クレアによるシャルロットへの妨害と見せつけるような抱き枕状態。それからそれ以前にメイドまで含めて。
……ほんと、誰か一人くらいこの流れが起きないように止めてくれよ。
シャルロットは顔を赤らめ、伏し目がちに小さく吐息を漏らした。
「……昨夜のおもてなしは、少々失敗してしまいましたわね……ですが、今宵は遠出のご予定ですので……続きはお預けですわ」
「……ああ、そうか。仕方ないよな……いや、どんなおもてなしだよ。いい加減にしろ」
だが、シャルロットの瞳にはまだ挑むような光が宿っていた。
「……ですが、次こそは、人狼化したカヅキとのモフモフナイトを必ず──」
その発言で魔術学院時代に、実戦訓練で人狼化した時にシャルロットに追い回された時の事やフェアリー寮に連れ込まれてモフモフを強要された時の事などを思い出した。お前はそっちが目的かよ。そういえば、熱狂的なモフモフ愛好家だったわコイツ。犬、好きだもんな。
てことは、あの銀色のパッケージのアレやミントティーの睡眠薬はメイドによる独断だったのか。
その横で、クレアが夢の中でぽつりと漏らす。
「……カヅキは……ボクのだから……」
「……………………」
香月は両手で顔を覆った。寝言にまで所有欲をにじませるんじゃねえよ。
──ルフェーブル邸の客室に残ったのは、簀巻きの令嬢と、腕にしがみつく令嬢。
その板挟みの真ん中に居るのは、最悪の意味で一番被害を受けている自分だった。
(……もういい。移動だ。イタリアに行けば少しは落ち着く……はず……)
だがこの時の香月は、異国の地でさらに大きな騒動に巻き込まれることを、まだ知らなかった。